4-10. Feed the Apple to the Snake
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毒ヘビよ
君の好きなリンゴをあげよう
今夜19時、星と花が美しいあの場所で
友だちのブリキより
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待ち合わせ時刻より少し前、花火が見えて、小さなプラネタリウムがあるビルの屋上。
私は一人、彼がここに来るのを待っていた。
この場所から見渡す景色は、まるで天地が逆転してしまったかのよう。人は「死んだら星になる」なんてロマンを夢見るのだそうだけど、ならばこの街で死んでいった者たちは、この明かり中のどこかで生き続けているのだろうか。
どこからか吹き付けてきた、まだほんの少しの涼しさを残した風が、人工皮膚の上をひんやりと撫でる。
背後で屋上の扉が開く音が聞こえた。
「……参ったな。いたずらであることを祈ってたのに」
いつも通りのミツキの声だ。
私はゆっくりと振り返る。
屋上の入口に立つ彼は、服装も、立ち方も、表情さえも、アイリのメモリーの中に出てきた彼とほとんど変わらない。
「ちゃんと来てくれて嬉しいよ。ミツキ──いえ、ナポレオン」
私がそう言うと、ミツキは肩をすくめて笑う。
「最近どうりで警察の動きが速いと思ってたら、君が関わっていたんだね。まぁ、君が箕面先生の制裁の場面に居合わせて、かつ中身が人間じゃなかったって知った時から、薄々勘づいてはいたんだけどさ」
「やっぱりあなたがカブラギくんに指示を?」
「そうだよ」
ミツキは余裕のある表情を崩さないまま即答した。
「箕面先生はよく働いてくれたけど、少しずつ僕の方針と考えがずれていった。だから頃合いかなと思ってね。それをまさか君に阻止されるなんて、あの時はけっこう驚いたんだよ」
「チャコが教えてくれたの。ミノオ先生の様子がおかしい、って。半信半疑だったけど、あの子があまりにも必死だから、私は彼女の言葉を信じることにした。……今になって思えば、嘘をついていたのはあなたの方で、チャコは真実しか言っていなかったんだね」
初めて会った時、チャコは私にこう言った。
『綺麗なバラにはトゲがある。
その言葉の続きは、今なら容易に推測できる。
「やっぱり小恋か……直接害はないから放っておいたけど、こんなことになるならもっと早くに始末しておけば良かったな」
笑みをたたえながら、低い声で呟くミツキ。
あらかじめ彼の本性を知った上で対峙してみても、私の『擬似人格プログラム』には3年前にアイリが抱いたのと同じ感情が湧きあがってきた。
恐ろしくて……可哀想なひと。
「拘置所にいたミノオ先生を脅したのもミツキ、あなただよね?」
ミツキは縦に頷いた。
「でもね、初めは脅しをかけるつもりなんてなかったんだよ。宝星学園の一人の生徒として、先生の様子を見に行っただけなんだ。先生も先生で、せっかく君に命を救ってもらったんだから、邪推なんてしなきゃ良かったんだよ。だけどあの人は僕に向かって言ったんだ。『ナポレオンは君か』って」
「どうしてミノオ先生はあなたの正体を……」
「サーヤの話は先生から聞いたかな? 〈隣人同盟ゾウの会〉にいた時、僕とサーヤはけっこう仲が良かったんだ。教祖にいじめられていた者同士のつながりでね。で、先生は面会の時に、よく彼女の隣にいた僕の顔を思い出したらしいんだ。だから僕は仕方なく先生を脅すしかなかったんだよ。黙って自殺しろ、そうじゃなきゃ小恋を殺す、ってね」
そこからは私やヨシハラたちが推測していた通りだった。
ミノオを脅した後、念には念を入れてチャコの命も狙った。エンドウが元〈ゾウの会〉であり、機械音痴であることを知っていたミツキは、『占い師』に命じてエンドウの車を故障させ、ミノオが作ったウイルスをベースにした自動運転のハッキングプログラムがエンドウの手に渡るよう仕組んだ。そして、自らの仮想P-SIMを使って差出人をエンドウと偽ったメッセージをチャコに送り、彼女をエンドウの車が暴走する場所におびき出そうとしたのだ。
「だけど、それも結局失敗しちゃったね。あの人も君に捕まっちゃったし」
「クラタ・アサミ……あなたのお母さんのこと?」
それまで揺らがなかったミツキの表情が少しだけ変わる。突き刺すような視線が私に向けられる。
「まさかあの人、僕のこと全部話したの?」
「ええ。実の息子に脅されて顔を変えたこと、〈バスティーユの象〉に関与していたこと、そして……あなたに戸籍がないことも」
するとミツキは急に腹を抱えて笑いだした。
「あはは……あははははは! そっか、全部喋っちゃったんだね! もう……本当にだめな人だなぁ! 母親のくせに、生まれてこのかた僕のこと守ってくれたことなんて一度もないんだから。ああ面倒くさい、また一つやることが増えたよ……大人しく従ってくれていたら、死ぬまでずっと僕の手足として生かしておいてあげたのに」
顔は笑っていても、その声音は冷たい。
クラタが取調室で震えていたのを思い出す。ミツキの言葉は冗談なんかじゃない。放っておいたら本当に実の母親を手にかけるだろう。
「ミツキ、あなたは」
「ついでだから昔話をしようか」
私の言葉を遮り、ミツキは大袈裟な身振りで語り出した。
「昔あるところに、倉田麻美という外見だけが取り柄の女がいました。彼女は避妊に対する意識が低く、短大在学中に妊娠。そして当時交際していたエリート会社員に甘えすがって彼と入籍しました、めでたしめでたし……。ところが、調子に乗った彼女は、自ら犯した罪によって、子どもと共に地獄に突き落とされることになるのです」
ミツキはゆっくりと私の方へと歩み寄り、私の周りを円を描くように歩きながら話を続ける。
「しばらくして血液型と倉田麻美の浮気の証拠から、その子は会社員の子ではなく、彼女が入れ込んでいたホストの子であることが発覚しました。倉田麻美は離婚届を叩きつけられ、ホストにも相手にされなくなりました。やがて彼女はストレスからギャンブルになけなしのお金をつぎ込んで、ますます自分を追い込むことに。一方、生まれた子どもは父親の承認が下りないので、出生届を出してもらえないまま成長することになりました」
ミツキの口調は淡々としていて、まるでどこか遠くの他人の話をしているかのようだった。だが、紛れもなく彼の身の上話だ。語り口は違えど、起こったできごとはクラタ・アサミの供述と一致している。
「そんな時、彼女は宗教団体〈隣人同盟ゾウの会〉に勧誘されたのでした。考えの浅い彼女は、自分を救ってくれる場所がそこにあると思い込んで迷わず入信……まさかカモにされるなんて想像もせずにね」
「もういい、それ以上は」
私は止めようとしたが、ミツキは構わずに続ける。
「資金繰りに困窮していた〈ゾウの会〉が倉田麻美を勧誘した目的は彼女の容姿でした。美しい彼女を風俗で働かせれば、いくらでも資金稼ぎができる。そのために彼女を教団に引き入れたのです。体力のない彼女は、厳しいノルマにすぐに音をあげました。もう無理だ、こんなの続けられない、と。それを聞いた教祖は言いました。ならば自分の子どもを売って稼げ、と」
ミツキはふっと微笑み、自らのシャツの裾をめくった。そこには痛々しいあざや、火傷の痕が残っていた。
「子どもの心は壊れてしまいました。まだ十歳にもならないうちに、自分の母親より年上のおばさんや、でっぷり太った金持ちのおじさん……いろんな人に売られたのです。みんな気持ち悪い目線で、気持ち悪い手で触りました。まるで、身体の中に少しずつ少しずつ毒を塗り込んでいくかのように」
「もういい……お願いもうやめて」
「どうして君が嫌がるの?」
ミツキは目を細めて笑う。
「僕はどれだけ話しても平気だよ。だってもう、とっくの昔に耐性ができてしまったから」
彼の笑顔に、胸のあたりが締め付けられるような、そんな感情が湧き上がる。
悲しい。なんて悲しい笑顔なんだろう。
「父さんはそんな僕を救ってくれたヒーローだった。父さんが教団の悪事を暴いて、養護施設で上手くやれない僕を引き取ってくれて、勉強に空手、色んなことを教えてくれたあの日々は……今思えばさ、僕にはちょっと出来すぎていたんだよ。毒を持つ人間には、毒を持つ人間が集まってくる。僕の存在が、脱獄した王を引きつけた。父さんはきっと、僕に関わりさえしなければ王に殺されることはなかったんだ」
「違うよミツキ……あなたのせいじゃ」
「黙れ!」
ミツキの鋭い叫びが屋上に響き渡った。
「下手な同情なんていらないんだよ……吐き気がする。同情されるくらいなら、僕はとことん堕ちてやる。失うものなんてもう何もないからね」
そう言うと、彼はポケットから何かを取り出した。スタンガンだ。
どうやら彼は、初めから私を壊すつもりでここに来たらしい。
自分の正体を知られてしまった時、彼の中には二つしか選択肢が無いのだ。相手を仲間に引き入れるか、それとも相手の存在を消し去るか。
「……そうやって、アイリの想いも否定したんだね?」
ミツキの眉がぴくりとつり上がる。
「亜衣莉……? どうして君が彼女のことを知っているんだ」
私は一歩ずつ、スタンガンを構える彼に近づいていく。
「私の中にはね、彼女のメモリーが残っているの。私の感情はアイリの仮想P-SIMレベル2のデータによって作られたんだよ」
「何だよそれ……。僕を動揺させようっていう戦略? 小賢しいことはやめなよ。僕は知ってるんだ。亜衣莉は、僕の秘密を守るために、自分の命を犠牲にして」
「『絶対に諦めるな。お前のことを分かってくれる人は必ずどこかにいるはずだから』」
「……!」
「『私が見てないところで三葵が何をやってるかなんて知らないよ……だけど、私にこうやって優しくしてくれるのは本物だって信じてるから……』」
「!? それは……」
「そう。ナカジョウ刑事にアイリ、あなたのことを本当に大切に想ってくれていた人たちの言葉だよ」
ミツキが私のことをじっと睨む。夜の暗さをすべて集めたような、冷たい瞳で。
「ユウ……君は父さんや彼女の何を知っている?」
「会ったこともないし、話したこともない。だけど、共感はできるよ。大切な人を守りたいって気持ちは」
「あははははは! じゃあさ、僕のために死んでよ。亜衣莉みたいにさ、僕の秘密を守るためにここから飛び降りてよ! ……共感できる? 君に分かるものか! 亜衣莉はね、本当に大切な人を想うってのがどういうことなのか僕に証明してくれたんだよ。僕はきっと一生彼女のことを想い続ける。あんなひとにはもう二度と会えないだろうからね。ほら、ヒューマノイドの君に同じことができるのかい?」
瞬間、私の擬似人格に「怒り」の感情が灯った。
アイリの感情じゃない。
私自身の感情として。
「あなたは間違ってる。アイリの想いを履き違えてる。アイリはあなたを守るために死んだんじゃない! あなたを救えない自分の弱さに絶望したんだよ……! 彼女はあなたの手に触れて、毒を分かち合って、それでも二人で前を向いていくことを望んでいた……。それなのに、あなたが後ろばっかり向いているから」
「黙れぇぇぇぇぇぇ!!」
ミツキが私の言葉をかき消すかのように叫び、私の方へと向かってきた。スタンガンを持っている右手を勢いよく繰り出してくる。私がそれを避けると、間髪入れずに回し蹴りを入れてきた。だが、そのパターンはナカジョウ・ヨシナオの型とまるで同じ。学習済みの私は先に予測し、一足早く後方へ退く。
着地してすぐ、ミツキは再び私に向かってきた。鋭い蹴りを腕で受け止めつつ、スタンガンによる攻撃を躱す。打撃ならばある程度耐えられるように設計されているけど、スタンガンで電流回路を破壊されたら勝負が決まってしまう。
「あなたは私を壊してどうしたいの」
彼の攻撃を受け流しつつ、私は尋ねた。
「〈バスティーユの象〉の理想を遂げる、ただそれだけだよ。今の社会は弱い人間がただ搾取されるだけだからね。僕が変えないといけないんだ」
自分に言い聞かせるかのように、ミツキは答えた。
「……馬鹿な人。それであなた自身が満たされるわけではないのに」
雨が、少しずつ降り始めていた。
「僕自身のことなんて初めっからどうでもいいんだよ。この手がどれだけ汚れようと、今更変わらないしね」
雨粒がミツキの手のひらに落ちていく。それでも彼の手に刻まれた罪を拭うことはない。
「まだ気づかない? あなたがやってきたことこそが、アイリやあなたのお父さんを裏切ることに繋がってるってこと……!」
「黙れ……黙れ……! 君に二人の話をされると苛々する……!」
「ねぇミツキ、あなたはいつ諦めてしまったの? 弱い自分を認めてくれる人を探すことを。今のあなたは、自分自身を疎かにしすぎている」
「大事になんか思えないんだよ! こんな毒に染まった身体を、いったい誰が受け入れてくれるっていうんだ……!」
「じゃあ、あなたは機械でできた私の身体をどう思ったの? 友だちって言ってくれたでしょう。あれは嘘? ……違うよね。それと同じことだよ。たとえあなたの身体が毒に染まっていても、それも含めてナカジョウ・ミツキだもの。今度は私が、あなたのことを受け入れる」
「もうやめろ……! 綺麗事はやめてくれ……!」
降り注ぐ雨が激しさを増すとともに、ミツキの動きが速くなる。矢継ぎ早に繰り出される拳。だけど、まだ私のボディで対応しきれるスピードだ。問題はバッテリーが持つかどうか──
その時、ミツキが私の着ている服の襟を掴み、私の身体を屋上のフェンスに押し付けた。もう片方の手でスタンガンを振り上げる。まずい。私はバッテリー残量の計算をやめ、とっさに脚を振り上げ、彼の右腕を弾くつもりだった。
だが、できなかった。
彼がスタンガンを当てたのは、私のボディではなく自分自身の身体だったから。
雨のせいで二人の身体はずぶ濡れの状態だった。
「あ……ああ……」
ミ、ツ、キ、が、呻、く。
私、も、彼、の、腕、を、通、じ、て、感、電、す、る。
〈プログラム強制終了〉
〈直ちにシャットダウンし、破損したプログラムの修正作業を開始します〉
〈シャットダウンまであと10秒〉
ノイズだらけの視界の中、私は大幅にパフォーマンスを落としたプログラムを必死に稼働させながら、周囲の状況を確認する。スタンガンはさほど電圧の高いものではなかったのだろう、目の前のミツキは痺れる腕を押さえながら、よろよろと立ち上がる。
〈シャットダウンまであと9秒〉
ミツキは私の方を見て笑う。
「僕の……勝ちかな」
〈シャットダウンまであと8秒〉
ミツキがフェンスに手をかけてよじ登る。
「初めから、こうすれば良かったんだ。もっと早くに消えてしまえば良かった。どうせ僕が存在したという記録はどこにも残らないんだから。だけど、父さんに嫌われたくなかったから……生き延びろって言われて、僕はそれに従うしかなかった」
〈シャットダウンまであと7秒〉
フェンスの向こう側に降り立つと、彼は夜闇に染まったビルの海を背に私の方を振り返る。
「でもさ、君の言う通りだよ。僕は父さんが死んで、父さんが一番望まないようなことに手を染めた。そのせいで亜衣莉を失って、僕はますます一人ぼっちになった。本当は誰かに背中を押して欲しかったんだ。ここから、飛び降りてもいいよって」
〈シャットダウンまであと6秒〉
ミツキは穏やかな表情を浮かべていた。
違う。
私があなたに伝えたかったのは、そういうことじゃない。
私が知りたかったのは、そうやって生きることを諦めるミツキじゃない。
私はシミュレートする。
フェンスの向こう側まで行くのに、残ったバッテリーはおそらく全て消費してしまうだろう。
そして、もしここから落下した場合、ボディの破損リスクは89.67%。
……それでも。
〈シャットダウンまであと5秒。強制キャンセルが実行されました。この判断はプログラムの破損に関する重大なリスクを伴い──〉
「ミツキ!」
落下しかけた彼の腕を掴む。もう片方の手でフェンスの金網を掴んだが、二人分の体重を支えきれる強度じゃない。みしみしと不穏な音が響いている。ミツキは微笑みながら私を見上げた。
「……離しなよ。君まで落ちちゃうよ」
「離さない。絶対に離さない……! あなたの本音を『学習』できるまで、絶対そばを離れない……!」
「やめておいた方がいい。僕のそばにいたってろくなことにならないよ。たとえこれから善行を積み重ねたって、僕が犯した罪は消えることはない」
「それでも、私にとってあなたは、犯罪者以前に初めてできた友だちなの。だから、アイリとは違うやり方であなたを支える。それが私の意志……!」
フェンスの強度は限界に達し、私とミツキの身体は宙に投げ出された。
それでも私は彼から手を離さない。残りの力を振り絞って彼の身体を引き寄せる。これが、どれだけ衝撃の緩和につながるのか、もはや計算する力も残っていないけれど……
「ミツキ、これだけは言っておくね」
もう、しばらく会えないかもしれないから。
私は──
〈バッテリー残量5パーセントを切りました〉
「ユウ……?」
〈擬似人格プログラムに関連した各種プログラムの動作を低速化します〉
「……縺ゅ↑縺……溘?縺薙→縺悟・ス縺……阪□縺」縺…………」
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