4-9. File date 2030/08/20


***




 登校日。


 昨日はなんだか寝付けなかったから、胃が重くて頭が空っぽになったみたいにぼーっとする。


 普段めったに忘れ物なんてしないのに、今日は朝出かける前に水筒を入れ忘れそうになって、健介兄さんが気を利かせてくれなければ日中干からびるところだった。


 夏休みに入る前と何一つ変わらない退屈な通学路を歩きながら、私はひたすら自分に暗示をかけていた。


 昨日寝る前に見た記事は、きっとインターネット上の憶測を集めただけのものに過ぎない、って。


 津山のことだって、ほんのちょっと小恋ちゃこと距離置きたかっただけだって。


 この後学校に着くでしょ、それで教室の扉を開けたら、きっといつも通り津山が誰かの机の上に腰掛けててさ、その席の子が迷惑そうに遠くから見ているんだ。だけどあいつ気にしないで、彼女の小恋と楽しそうに喋ってるわけ。で、私と目があって小恋は気まずそうに目を逸らすんだ。


 それを見て、「ほらやっぱりね」って、私は呆れながらちょっとだけホッとしたりして。


 で、いつも通り三葵みつきも自分の席に座っててさ、人気者だから男子にも女子にも囲まれて楽しそうに笑っているんだけど、私が教室に入ってきたことちゃんと気づいてくれるんだ。「おはよう」って声をかけた時に、昨日あったことを思い出して、少しだけ恥ずかしくなって、私はきっと顔が赤くなっちゃうんだろうな。


 うん、きっとそうなる。


 ……そうなってほしい。


 学校に着くまでの間、私は何度も何度も頭の中で同じ光景を浮かべてはそれを信じようとした。


 だけど、教室の扉を開けた瞬間、その暗示は無駄だったと知って、どっと気分が重くなった。


 津山の席も、三葵の席も、空席のまま。


 始業の時間が近づいて、ガラッと教室の扉が開く音がして私はすがる思いで扉の方を見たけれど、入ってきたのは担任の遠藤先生だった。


「先生。三葵と……津山は?」


 私が尋ねると、遠藤先生はきょとんとした顔で答えた。


「三葵くんは風邪でお休みするって連絡が来てたわ。津山くんは無断欠席だけどいつものことでしょ。どうかしたの?」


「いえ……」


 三葵が風邪? 昨日はあんなに元気そうだったのに。おでこをくっつけあった時だって、別に熱があるような感じはしなかった。もしかして仮病? でも今までお父さんが亡くなった時くらいしか休んだことなかったのに……。


 その時、私のワイズウォッチにニュースアプリから通知が来た。


『〈注意喚起〉渋谷区でビル火災発生。延焼の恐れあり、道玄坂・円山町付近に避難勧告』


 背筋にぞわりとした感覚が走る。道玄坂・円山町付近……まさに昨日私がいた場所。


 考えないようにしていたことが、次々に頭の中でつながっていく。


 三葵。あなたが「やらなきゃいけないこと」って何?


 嫌な予感がする。


「え! ちょっと、一ノ瀬さん?」


 遠藤先生やクラスメートに呼び止められるのを無視して、私は教室を飛び出していた。


 駅までひたすら走って、渋谷行きの電車に乗り込む。


 真夏の日差しに火照っていた身体は車内の冷房で一気に冷えて、今度は寒気を覚えるくらいだった。


 渋谷でビル火災なんて……三葵とは、関係ないよね? そう言い聞かせて、少しでも気持ちを落ち着けたかった。だけど、渋谷に近づくたびに心臓がばくばくと鼓動を早めていく。


 念のため三葵にワイズウォッチのメッセージを送ってみた。でも、なぜか送信エラーになってしまって届かなかった。


 電車が渋谷駅に着くなり、私は再び駆け出した。


 確かめたい気持ちと、知りたくない気持ちは半々。それでも私の足は衝動に駆られて動いていた。


 今日の渋谷は、いつもの顔と全然違った。


 普段通りのんきに流れるCMと、救急車のサイレンの不協和音がとにかくうるさい。スクランブル交差点もいつも以上に入り乱れている。ほとんどの人が駅の方に避難しようとしていて、黒い煙を上げているビルの方に向かっていく人は私以外に誰もいない。


 昨日歩いた通りの前まで来た。炎が上がっているビルはすぐそこだった。興味本位で周囲に集まっていた人たちが、ビルの上の方を指差しながらざわめいている。


 なんだろう。


 私は彼らの指先を視線で追った。一瞬、目に入った光景が本当に現実のものなのか信じられなかった。


 ビルの四階の窓。そこから、血だらけの男がロープで吊るされている。


 胃の中のものがせり上がってくるのを感じた。酸っぱい臭いが鼻をついて、私は思わずその場で嘔吐する。


「危ないので離れてください!」


 消防士や警察官の声が響いている。野次馬の一人が、忠告を聞かずにワイズウォッチで惨状を撮影しだした。警察は彼を取り押さえることに気を取られている。今はみんな上ばかりに気を取られていて、ごうごうと炎に包まれたビルの入り口は見ていない。


 行くなら、今だ。


 私は野次馬たちの陰に隠れるようにしながら、男が吊るされているビルの中に飛び込んだ。誰かが気づいて止めようとしてきたけど、かまわずそれを振りほどく。


 だって、あの吊るされている男が着ているのは、昨日三葵が着ていた服と同じだったから。


 あれは新興宗教〈ゾウの会〉の教団員が着る服。


 そして吊るされている男は、あの記事にも顔写真が載っていた……〈ゾウの会〉教祖の王海星。


 記事を読んだ時点で、薄々分かってはいた。だけど、考えたくなかった。三葵があの服を着ていたのは空手教室に通っているとかではなくて、〈ゾウの会〉の信者だったからだなんて。


 でも、脱獄した教祖があそこに吊るされているってことは……三葵は今どこにいるの?


 狭い雑居ビルの、今にも崩れ落ちそうな階段を、私はハンカチで口を押さえながら駆け上る。階によってはまだ火が回っていないところもあったが、黒い煙が立ち込めていて息が苦しい。肺が焼けるように熱い。


「三葵……! 三葵……! お願い、いるなら返事して……!」


 その時、どさりという鈍い音が響いた。


 ビルの外で人々の悲鳴が上がる。


 私はもう、四階にたどり着いていた。窓際に一人の黒い影が見えた。


「……三葵?」


 熱でかすむ瞳を何度もこする。そこにいたのは、私に気づいて呆然としている三葵。


亜衣莉あいり……どうしてこんなところに」


 彼の手は赤く染まっていた。たぶんそれは炎に照らされたからそう見えたわけじゃない。さっき吊るされていた男の血だ。


 ふと彼の足元を見て、私は思わず悲鳴をあげる。


 そこには変わり果てた津山の姿があった。肌の色は血の気を失っていて、そばには割れた注射器が落ちている。


 わけのわからない灼熱の光景の中で、頭だけはやけに冷静だった。


 吊るされていた男は、三葵が殺した。


 足元に倒れている津山のことも、きっと三葵が。


 こんなこと、知りたくなかった。私はただ三葵のことが心配だからここに来ただけだったのに。ただ……それだけだったのに。


「見られ、ちゃったか」


 三葵はそう呟いて、くしゃりと微笑んだ。そして私に背を向けて、窓の外を眺めながら言った。


「……しょうがないんだよ。だってあの男は僕のことを二回も殺しているんだから。僕がたった一回復讐したところで、奪われたものは返ってこないんだ」


 その声はとても寂しげで、私の胸をぎゅっと締めつける。


 知らなかった。三葵がここまで思い詰めていたなんて。私は彼の支えになってあげられたらなんて思っていたけど、少しも力になれていなかった。三葵が本当は何を考えているのかを、1ミリも分かってあげられていなかったんだ。


 悔しくて、悲しくて、ぼろぼろと涙があふれ出す。


「どうして君が泣くの? 君とあの男に接点はないでしょ。それに、津山のことだって君はむしろ迷惑してたはずだ。もっとも、最初は殺そうだなんて思っていなかったよ。だけどあまりに僕のことを嗅ぎまわって過去を知ろうとするからさ……仕方なく、僕の代わりにあの男を殺した犯人になってもらうことにしたんだ」


 三葵は笑いながらそう言った。


 私はこのひとのことを、初めて「怖い」と感じた。


 同時に、「悲しい」とも。


 私の感情なんてお構いなしに、三葵はいつもよりハイになっているのか、やたら饒舌に話した。


 さっき三葵が吊るして落としたのは、やはり〈ゾウの会〉の教祖・王海星だったこと。三葵は幼い頃に母親に連れられて〈ゾウの会〉の拠点に住んでおり、教祖を始めとする信者の大人たちから虐待を受けていたこと。それを救い出したのが、三葵が「父さん」と呼んでいる中條刑事だったこと。だが〈ゾウの会〉を取り潰しに追い込んだ中條刑事のことを王海星は恨んでおり、脱獄して中條刑事の命を狙いにきたこと。


「王は父さんの家を突き止めて様子を伺っていた……卑怯な男だから、自分一人じゃ父さんに敵わないって自覚があったんだ。それで僕が学校から帰ってきたのを見て、あいつは僕を利用することを考えた」


 王は学校帰りの三葵を背後から襲い、刃物を突きつけて家の中に案内するよう脅した。いつも通りの力が出せていれば、その場で王をねじ伏せることなど簡単なはずだった。だが、もう二度と会わなくていいと思っていたはずの男が突如現れ、三葵の中には過去の虐待の記憶がフラッシュバックしていた……。彼は全身に力が入らず、王に要求されるがままに中條家の玄関の扉を開けた。


「その日父さんは非番で、家の中で僕の帰りを待ってくれていた……。王は僕を人質に、父さんに対して自分の手に手錠をかけるように言ったんだ。僕は自分のことなんてどうでもいいと思ってた。だから父さんに僕を置いて逃げてほしかった。けど、父さんは王を睨んで僕を放すように言った後、王の指示通り手錠をかけて動けなくなってしまった」


 これから何が起こるのか察して身がすくんでしまった三葵に対し、中條刑事は大きな声で怒鳴ったのだという。


『遠くまで逃げろ!』


『お前は生き延びて……いつか幸せになるんだ』


『絶対に諦めるな。お前のことを分かってくれる人は必ずどこかにいるはずだから……!』


 中條刑事の言葉に突き動かされるかのように、三葵は一目散にその場から飛び出した。そして父親を助けるために、すぐさまワイズウォッチで110番に連絡した。だが、通話の途中でいたずら電話かどうか確認のためにP-SIMの認証を行われた時、三葵は思わず電話を切ってしまった。


「黙っていてごめんね、亜衣莉。馬鹿な両親のせいで、僕には戸籍がないんだよ。だからこのワイズウォッチに入っているのは普通のP-SIMじゃなくて、仮想P-SIM。認証なんかされたら、かえって僕の方が怪しまれてしまうところだったんだ」


 三葵はどこか遠くの方に視線を向けて、話を続けた。


 やはり他の人に頼るのではなく、自分でなんとかするしかないと、三葵は再び中條家に戻った。だがその時にはすでに王によって中條刑事は胸を刺され、意識を失っている状態だったのだ。王海星は逃亡したのか、すでにその場からは姿を消していた。


「僕が通報しなくても、父さんのP-SIMに記録された情報から救急に自動で通知が入っていたのかな、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきたんだ。でも、目の前にいる父さんを救うには遅すぎた。すっかり冷え切った父さんの身体に触れて、僕はその時ようやく理解したんだよ……。父さんは僕と会っていなかったら、王に逆恨みされるようなことはなかった。僕が間接的に父さんを殺した! 僕の中にある毒が、僕を助けてくれた人まで蝕んでしまった……! だったらいっそ……僕はその毒を使いこなしてやろうって思ったんだ」


 三葵は家の中を漁った後、中條刑事が決して渡さなかった仮想P-SIMの初期化キーを見つけ出し、証拠を隠すために家に火をつけてその場を後にした。そしてかつての〈ゾウの会〉のゆかりのある場所を訪れ、王を自力で見つけ出した。


 隠れ家で三葵に見つかった王は相当驚いていたのだという。警察よりも先に三葵に見つかるとは思っていなかったのだ。そもそも警察が王の捜索に難航していた理由は、三葵が仮想P-SIMのデータを消して彼と関わった王のデータにバグを起こしてしまったせいだったのだが。


「逮捕なんてさせないよ……僕が自分の手で殺したかったんだから。王は自信過剰な男だった。初めは僕のこと復讐にきたんじゃないかって警戒してたけど、昔何度も聞かせられていた教典の一部を暗唱するだけですぐに心を開いた。僕は、中條刑事に騙されていた、僕にとって頼れるのは先生だけなんです、なんて嘘をついてさ、王の警戒が緩みきったところで……今日、やっと復讐を果たしたんだよ」


 そう言って、三葵はくしゃりと笑う。


 ビルを包む炎が、彼の顔を赤く妖しく照らす。


 私は足から力が抜けて、その場に座り込んでしまった。


 これはきっと悪い夢。


 お願いだから、早く醒めて。


 床についた手の甲の薄い皮膚を、何度も何度もつねった。周りが熱すぎて、痛いのか痛くないのかよくわからなかった。だけど、ぼろぼろこぼれて落ちる涙の重さだけはやけに現実的だった。


 いつの間にか三葵が私の正面に来て、しゃがんで私の顔を覗き込んでいる。


「さすがにいきなり色々話しすぎたかな? 混乱させちゃったね……。だけど僕は君にも一緒に喜んでほしいんだ。だから、今までずっと隠し続けてきたことを君に全部話したんだよ」


「どう、して……?」


「君なら分かってくれると思ったんだ。僕たちは似てる。周りに毒を与えられて、その苦さをずっと噛み締めて生きてきた。だけどもう、そんな生き方はやめよう。これからは自分の力で周りを変えるんだ。そして……一緒に生きやすい世の中にしていこうよ」


 私の目の前には、いつも通りの優しい三葵の笑顔があった。一点の曇りもない、晴れやかな笑顔だった。


「だからさ、もう泣きやんでよ……ね?」


 昨日と同じように、私の瞳に溜まった涙を拭おうと、三葵はまっすぐに手を伸ばしてきた。


 殺した男の血がついた手で。


 不謹慎だってことは分かってる。


 でも、本当は……嬉しかった。


 私に全てをさらけだしてくれた真摯さに。


 私の弱さを知った上で、私を突き放さない優しさに。


 それだけ私を大事に想ってくれているという幸福に。


 嬉しくて、胸が張り裂けそうで。


 本当は彼の手を受け止めて、私の頬を血の赤で染めてくれたって構わない……そう思っていた。




 だけどね、私だってあなたのことを大切だと思っているんだ。




 だから……私はその手を弾いた。




「……お願いだから、中途半端なことしないでよ」


 もう後戻りはできない。


 理解した上で、私は彼の手を拒絶した。


 彼の手があてもなく宙をさまよい、いつもは動じない三葵の瞳が少しだけ揺れているような、そんな気がした。


「有毒生物になるんでしょ? だったら、あなたの毒に耐えきれない人間に心を許しちゃだめ」


「亜衣莉……? これは、どういう……」


 声音は穏やかだったけど、彼の顔は全く笑っていなかった。


 胸がずきりと痛む。


 だからさ、そんな顔を私に見せちゃだめだってば。ねぇ早く気づいてよ。私にそうすることが、あなたの立場を危うくするってこと。私はあなたほど完璧な人間じゃない。犯罪に手を染めたあなたのことを怖いと思っているし、共犯者になるよりはあなたを更正施設に入れて見守ってあげたいって思っちゃう。三葵、あなたのことは大好きだけど、私はあなたの理想を遂げるには邪魔な存在になると思う。そのことに気づかないなら、私は──




「あのね」




 精一杯の笑顔を作って、突き放すんだ。




「たぶん、もうあなたに会うことはないと思う」




 彼のために。そして自分のために。




「三葵のおかげで今まで楽しかったよ。ありがとう」




 手を振って、決別しよう。




「……バイバイ、三葵」




 私はすぐに駆け出した。さっきまで足がすくんでいたのが嘘のように、行きよりも速いスピードで階段を駆け下りた。


「亜衣莉……!」


 三葵はしばらく追いかけてきたけど、私は一切振り返らなかった。振り返ったら決意が鈍ってしまいそうだったから。三葵が追ってこれないように、わざと人混みの中に飛び込んで走った。


 涙はすでに枯れていた。


 代わりに私は笑っていた。


 自分があまりにも愚かで、不器用で、情けなくて、笑い飛ばすしかなかった。


 私は三葵にとっての一番でありたいんだ。


 どんな形になっても。


 毒を食らい続けてしまった孤独な人を、支え続ける存在でいたい。


 だけど、その毒に触れ続けられるほど強くはない。


 三葵と同じように毒を利用して人を傷つけようだなんて……そんな風には思えない。


 知ろうとしなきゃよかったね。


 だけど……無理か。


 好きな人のことは、知りたくなるんだもん。


 記憶を消せたらいいのにって思うけど、きっと記憶を消しても私はもう一度知ろうとするんだと思う。


 それが、私があの人を好きになってしまった罪。


 だとしたら……私にできる贖罪は、一つしかなかった。




***


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