404の私
乙島紅
1. Run the Program
0. プロローグ
人が『学習』する意味とは一体何なのだろう。
知恵の実を食べてしまったことで楽園を追われることになったと、聖書に記されているのにも関わらず。
あらゆる知識はネットワークを通じて即座に仕入れられ、情報処理は高性能なAIに任せればいい時代であるにも関わらず。
「では次の問題を……藤沢さん、前のディスプレイにあなたの解を映してくれる?」
「はい」
それでも学ぶ人々は絶えない。この、学校という施設に通う生徒たちのように。
「問題文で定義されている同一角度の∠AOBと∠BOC、これを∠θと仮置きします。その場合tanθ=1/tでありこれを座標軸に代入すると点Bの座標は……そして直線ABの方程式と直線BCの方程式を求め……主題である三角形ABCの面積をS(t)と置くとその解は……よってS(t)の値は1+2√2、以上、証明終了」
「す、すごいわ……ちょっと待って、念のためちゃんと合っているか確認を」
「先生、ばっちり合ってますよ。藤沢さんの解答」
私の席の斜め前に座る男子生徒がすっと手を挙げ、教室中によく通る声で言う。
「そ、そう? 中條くんがそう言うなら確認の必要はないわね」
数学教師がおどおどと認め、教室内で感嘆の声とともに拍手が起こる。先ほど私の解答を後押しした男子生徒『ナカジョウ・ミツキ』が振り返り、私に向かって声を潜めて言った。
「すごいね。みんな気づいてないけど、あれ東京大学の過去問だよ。僕も解法は分かったけど、あんなに早くは解けない」
「別に。これくらい、どうってことないよ」
だって、高校教育カリキュラムの教科書データに難関国立大学・私立大学の過去問データ、どちらも既に「学習」しているのだから。
机上に置かれたタブレット端末の示す時刻は午前11時55分。次は昼休み。授業の終わりを告げるチャイムが鳴る前に生徒たちはそわそわし始め、急かされるようにして数学教師が次回の課題を予告する。だが、一部の生徒はすでに購買部に向かって教室を飛び出し、残りの生徒も弁当を机の上に広げ始めた。
「藤沢さん、一緒に食べない?」
ミツキにそう言われ、私は首を横に振った。
「いい。私、お昼は食べないの」
だって、私は生身の人間ではない。
確かに、見た目は人間──生みの親曰く、外見モデルはちょうどクラスメートたちと同じく十八歳の少女──かもしれない。
だが、「私」を構成する主な要素は人工皮膚、金属のパーツ、そして人間らしい思考を実現する『擬似人格プログラム』を組み込んだ最新型のAI。
そう、私はヒューマノイド。
感情を持つロボットだ。
私が教室を出て行こうとすると、こちらに視線を向けていた女子生徒たちがひそひそと話す声が聞こえてきた。
「何あれ、せっかく
「藤沢さんって、ちょっと冷たいところあるよね……」
「三葵もお人よしだよねー。こんな変な時期に来た転校生なんて放っておけばいいのに」
なるほど、私のあのたった一言に、思春期の女子高生たちはこんなに複雑な感情を抱くものなのか。
私の任務の中で役に立つかどうか分からないけれど、とりあえず「学習」しておく。
教室を出て、誰もいない屋上へ。
目に入るのは購買部に並ぶ列、早弁を済ませてグランドに駆け出す生徒たち、初夏の陽気を取り込もうと開け放たれた教室の窓。
ここに通い始めた頃は、ロボットだとバレてもおかしくない失敗をいくつかしてきた。
バッテリーの残量がわずかになって、危うくボディ内に格納されている充電ケーブルを取り出しそうになったこと。
体育の授業のペアでやる準備体操で、見かけより体重が重いことに驚かれたこと。
クラスメイトの女子にトイレに誘われ、私に排泄機能は備わっていないと言ったら「アイドルかよ」と突っ込まれたこと(この件に関しては排泄機能に関して正直に答えてしまったことに加え、彼女たちのギャグの意味を即座に理解してやれなかったのも反省点の一つだ)。
とはいえ、AIというのは「学習」を積み重ねることでより精度を上げるもの。
失敗するたび、私はますます学生らしくなる。
だけど見失ってはいけない。
私は別に、学生のシミュレーションをするためにここにいるわけじゃない。
これは潜入捜査だ。
この学校のどこかにいるらしい、テロ組織〈バスティーユの象〉の構成員。その人物を見つけ出すのが私の任務。
それ以外に、私がここにいる理由はない。
……たとえ、見覚えのないはずの学校の景色に、『擬似人格プログラム』が「懐かしい」という感情を訴えていたとしても。
私は視界に入る一人一人のパーソナルデータを見つめながら、私をここに引き寄せた人物を探す。
そう、始まりはあの日。
今から一週間前、データの海に潜り込んでいたあの日──。
***
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