1-1. メトロハッキング
午前8時26分。東京都23区、地下鉄の駅構内。
私は人波に
あまりの混雑に何人かすれ違いざまにぶつかったが、ある人は軽く会釈して小さな声で「すみません」と呟き、ある人は何事もなかったかのように人波に溶け込んでいった。
誰も互いに関心を持たない。この中にヒューマノイドが一人紛れ込んでいても、誰も気づかない。
東京都内の地下鉄は、十三年前の東京五輪をきっかけに大幅にホームを拡張し、車両数や路線数も増やして朝の通勤ラッシュの混雑解消を図ったはずだった。
だが、便利になればなるほど人はそこに集まってくるもの。
日本全体では少子化、人口減少を憂いていても、政治の中心地である東京だけは相も変わらず人口を増やし続けている。
『ユウくん、そっちの首尾はどうだい?』
左腕のワイズウォッチ──2020年代以降から普及した、スマートフォンに代わる腕時計型の次世代携帯端末──から警視庁サイバー犯罪対策課の捜査官、ヨシハラ・キイチの声がした。
私はワイズウォッチの側面にあるボタンを軽く押す。すると腕時計の文字盤上に垂直になるようにして照射された投影式ディスプレイが立ち上がり、やや茶色がかかった黒髪に、警察官らしくない洒落たスーツを着たタレ目の男の顔が映し出された。
投影式ディスプレイを外側に向け、ヨシハラに周囲の景色を見せる。彼は「混んでるねぇ」と苦笑した。
「おかげで予定よりは遅れていますが、もうすぐホームに着きます。そちらの状況は?」
『ダメだ、やっぱりP-SIMレベル2の情報がバグを起こしていて犯人を特定できない。この案件は間違いなく奴らが絡んでいるだろうね』
「わかりました。そちらでダメならこちらから直接追い込みます」
『頼んだよ。今から君の捜査に役に立ちそうなものを送る』
ヨシハラとの通話画面を閉じると、メッセージを受信した通知音が鳴った。中身は地下鉄の運行システムへのアクセスキーだ。
時刻を再度確認。
午前8時29分。犯行予告の時間まで残り31分。
問題ない。それまでに爆発物を持って電車に乗っている犯人を特定すればいいだけ。
ようやくホームにたどり着き、新たに人が乗る隙間などないくらいにぎっしりと詰まった電車が目の前に止まった。
犯人がこの電車に乗っていることはすでに分かっている。
もちろん、犯人は犯行予告の時に自分が乗る電車のことを明言したわけではない。SNSに犯行予定時刻と、自爆テロを行う旨を書き込んだだけだ。
だが、その投稿の裏側には投稿内容以上の情報がぎっしりと詰まっている。
IPアドレス、ブラウザのクッキー情報、連携している別サービスのアカウント……インターネット上に点在しているデータをパズルのように紡いでいくことで、犯人の活動エリアやWebサイトの閲覧履歴、ECサイトでの購入履歴など、あらゆる情報が簡単に導き出せる。インターネットは匿名の世界などと言われているが、実際のところオフラインよりも多くの個人情報が垂れ流されているという事実を知る人は少ない。
さぁ、あとはこの電車の中から犯人を探し出すだけ。
私は電車に乗り込み、ワイズウォッチのネットワークから地下鉄の運行システムにアクセスした。
すでにぎゅうぎゅう詰めで車内の室温は26度を超えている。冬の寒さがわずかに残る今の季節。中にはコートを着ている人もいて、ずいぶんと苦しそうな表情をしている。
暑いだろうな。私はロボットだから分からないけれど。
一瞬「罪悪感」という感情が疑似人格プログラムに浮かび上がり、私の手を止めようとしたが、自爆テロに巻き込まれて死ぬくらいなら、通勤サウナの方が幾分マシだろう──そう自分に言い聞かせ、私は運行システムが統制する空調の温度を変更した。
設定温度は35度。
人工皮膚の下に内蔵された臭気センサーと湿度計がアラートを告げる。人間が不快と感じる環境値を大幅に超えているようだ。
時刻は午前8時47分。
次の駅に着くと、気分を悪くした人々がどっと車両から降りていった。これでずいぶん人が減った。私は車両の中を練り歩く。降りなかったわずかな人々は皆汗だくで、上着を脱いだり、手でパタパタとあおいだりしている。
私が目の前を歩くと、誰もが私の方を見た。
なんで君はそう涼しげなんだ? そんな風にいぶかしむような視線。
だが、今は人間のふりをしている余裕はない。
午前8時51分。
ターゲットを見つけた。
周囲の人々と同じように汗だくで顔を真っ赤にしているが、分厚いコートを脱ごうとせず、鞄を抱えて縮こまった姿勢で座っている、会社員風のスーツの男。体温の上昇とは裏腹に、俯きながらガチガチと歯を鳴らしている。まるで何かに怯えているかのようだ。
彼が恐れているのは警察か……それとも別の何か?
まあいい、後でゆっくりヨシハラに聞き出してもらおう。
私は震える彼の隣に腰かけると、他の乗客に聞こえないような音量で話しかけた。
「あなたが自爆テロを予告した人ですね?」
男ははっとしたように顔を上げ、慌ててコートの内側に手を入れようとした。
ここで自爆する気? そうはさせない。
私は即座に彼の手を引き止める。男はひどく驚いた様子だった。それはそうだろう、目の前にいる女子高生くらいの外見の少女が、成人男性の数倍の腕力をもって彼の動きを止めるなど、考えもしなかったはずだ。
私はもう片方の手を彼の上着にかざし、指先から青白いスキャニングレーザーを照射した。分厚いコートとジャケットの内側に隠された爆発物の情報が私の中に流れ込んでくる。
なるほど、スイッチ型か。
「き、君は何者なんだ!? それに今の光線は一体……?」
男が動揺している隙に、大切そうに抱えていた鞄を奪ってその中を探る。スイッチらしきものを見つけて取り出すと、先ほどまで真っ赤だった男の顔がみるみるうちに青ざめていく。
私はそのスイッチを床に落とし、力強く踏みつけた。スイッチは砕け、男の上着に取り付けられた爆発物を起爆させるものはどこにもなくなった。
「そ、そんな……」
「あなたの計画は失敗です。次の駅で降りて同行願えますか?」
そう尋ねると、男はまるで魂が抜けてしまったかのように無言でがっくりとうなだれた。
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