2-11. File date 2030/06/03



***



 いじめなんて、自分とは無縁のできごとだと思ってた。


 だから実際それはもう少し前から始まっていたのだろうけど、自分が標的にされていることにちゃんと気がついたのは6月の臨海学校の時だった。


 なんだかやけにみんなお風呂から上がるのが早いなという気はしていたんだ。せっかくの温泉なのにそわそわしていて、私が背まで伸びた髪を洗い終えて温泉に浸かろうという時には、もう誰も大浴場には残っていなかった。


 ほとんど貸切状態で温泉を堪能できたのは良かったけど、お風呂から上がって着替えようとした時に自分のうかつさに気がついた。持ってきたはずの替えの下着がなくなっていたのだ。それが故意に行われたことだと理解するのに時間はかからなかった。私は脱いだ服もきちんと畳んで脱衣所のカゴに入れていたはずだった。それがぐちゃぐちゃに崩されていて、戻そうとした気配すらない。慌ててお風呂を出て行ったうちの誰かがやったのだろう。


 誰の耳にも届かないため息を吐きながら、仕方なく脱いだばかりの下着をもう一度身につける。


 下着を隠した犯人に対してよりも、隙を与えてしまった自分に腹が立った。もっと警戒しておくべきだった。


 以前いた学校ではこんな陰湿ないじめなんて無かったけど、環境が違えば人も違う。ましてやここはお金持ちのプライドが高い子どもばかり集まる学校。いじめの標的になるのに大した理由なんて必要ない。人と人との間にこっそり仕掛けられた地雷を踏んでしまったら、誰だって標的になりうる。それだけここの生徒たちは自分の立場を守るのに必死なのだ。うすうす気づいていたことなのに楽観的に考えてしまっていた。そんな自分に、一番嫌気がさす。


 着替え終わってからワイズウォッチでクラスのコミュニティページを開いてみる。


 ああ、案の定。


『編入生ちゃん、明日も今日と同じパンツはくらしいよ』


『やだー、フケツ』


『うわ、まじか。見た目かわいくてもパンツ2回はく女はムリ』


 そんなようなことが、ものすごい勢いでコミュニティページに書き込まれていた。


 なんか、もう、笑える。


 旅館の部屋はクラスの5人で1部屋に分けられている。私以外の4人もさっき同じ大浴場にいた。彼女たちは見て見ぬふりをしたのか、あるいはこのいじめを計画した人間と示し合わせていたはず。戻りたくないな。正直その思いでいっぱいだったのだけど、荷物は全部部屋の中にあるのだから、戻らざるをえない。


 憂鬱な気分で旅館の年季の入ったふすまを開ける。部屋の中を見て、気持ちはますます落ち込んだ。やっぱりね、とそう思った。


「今度は靴下も履けなくする気なの、成瀬なるせさん」


 私のかばんの前で座り込み、右手にハサミを、左手に私の靴下を持っていた彼女はゆっくりと振り返った。その顔色は真っ青で、目が泳いでいる。


「あ、あの……こんな、こんなつもりじゃ、なくて……私……」


 成瀬は今にも泣き出しそうな声でそう言った。なんでそっちの方がつらそうな顔してるの。私は自分でも驚くほど冷静で、そのことに思わず自虐的な笑みがこぼれてしまった。


「どうせ辺見さんたちに言われてやってるんでしょ? それなら逆らえないよね。また自分がターゲットになるのは嫌だもんね」


 成瀬はますます縮こまって震えだし、「ああ」とか「うう」とか声にならない小さな喚き声をあげている。


「いいよ、行きなよ。何も見なかったことにするから」


 私は精一杯の笑顔で彼女にそう言った。成瀬はついにぼろぼろと涙をこぼしながら立ち上がり部屋を出ていった。すれ違いざまに「ごめんなさい」と小さくて余計な一言を残して。


 もともとは成瀬がクラスの中でのいじめの標的だった。彼女はこの学校では珍しく一般家庭の出で、そのことを他の裕福な家の子たちにからかわれていたのだ。彼女の気の弱い性格も災いして、いじめはどんどんエスカレートしていき、最終的にはクラスの中で小間使いのようなことをさせられていた。


 周囲の子たちと生まれが違うってことの孤独さを、私は前の学校で散々味わっていたから、あまり彼女のことを他人のようには思えなかった。だから私にできることはしてあげようと、お昼休みや移動教室の時とかに彼女に積極的に声をかけるようにして、少しでもいじめをされにくい状況を作っていったつもりだった。


 だけどそれがいじめをしている側にとっては面白くなかったらしい。いつの間にか標的は成瀬から私へ。最近なんとなく成瀬がよそよそしいとは感じていたけれど、まさか彼女までいじめる側に加担していたなんて……本当に、中学生とは思えないほど残酷な仕打ちだ。


 いじめを取り仕切っているのは辺見小恋へんみちゃこという、見るからに不良の代表格のような見た目をしているクラスメート。オリンピック前の土地バブルで儲けた不動産屋社長の娘だ。


 クスリをやってるとかナイフを持ち歩いてるとか色々な噂があるけれど、間違いなく言えるのは、彼女というよりも、彼氏の津山環多つやまかんたが怖くて、この学校の誰も彼女に逆らえないってこと。


 環多は暴力団の組長の息子で、普段から気に入らない教師にものを投げたり、免許を持ってないのにバイクで登校したり、暇つぶしに学校の備品を壊したりととにかくむちゃくちゃだった。この学校の人たちは生徒も教師もみんな彼の機嫌を損ねないようにびくびくしながら毎日を過ごしている。


 まぁいいや。結果的に成瀬を助けることができたなら、それで良かったと思おう。


 私は大丈夫。


 のけものにされることには、もう慣れてしまったから。


 私はワイズウォッチのメッセンジャーアプリを起動する。その中にはもう1週間以上返信をせずに放置しているママからのメッセージが入っている。


『お父さんと別れることにしました。私はシンガポールへ行きます。あなたはどうしますか』


 分かってる。ママは私が「日本に残ります」って返信してくるのを望んでるんだ。


 ママもパパも仕事が最優先の人だ。二人の関係はずいぶん前にすでに冷め切っていたのはわかっていたけど、それでも離婚しようという話にはなかなかならなかった。たぶん間に私がいたからだ。だけど私がこうして一人でアメリカから帰国した途端、相談もなしに離婚の手続きを進めてしまった。二人にとって私は、架け橋ではなく、足かせだったのだ。


 だから私は、ささやかな抵抗としてまだ返信をしてない。


 だって今まで全然手のかからない娘としてちゃんとやってきたでしょ。ママもパパもそれが当たり前みたいに思ってたかもしれないけど、私それなりに頑張ってきたんだから。つらい思いだってしたんだから。……ああ、褒めてほしかったなぁ。自慢の娘よって言ってほしかったなぁ。私がいい子にしてればママとパパも仲良くなれるんだって信じてたのになぁ。


 最後くらい、反抗させてよ。


 私はやっぱり返信ボタンを押さなかった。それでもこうして毎日アプリを起動してしまうのは、本当は──考えかけて、私は無理やり思考に蓋をする。


強くならなきゃ。これから一人で生きていかなきゃいけないんだから。いじめになんて、屈してる暇すらないんだ。


 時計の針は22時を指している。


 本当ならもう就寝時間のはずなのに同室の子たちは全然戻ってこなかった。後から知ったのだけど、クラスのみんなで宿を抜け出して裏手の森で肝試しをしていたらしい。当然私にはその知らせはなかった。かといって一人おとなしく部屋で過ごしている気にもなれなくて、私は宿を出て薄暗い街を散歩することにした。


 少し歩けばすぐに浜辺に出た。潮の香り。波の音。東京の真ん中から離れてきたんだなぁって実感させられる。


 夜の海は昼間と全然違う顔をしていた。黒々とした表面に星がいくつも浮いている。水平線と夜空の境目が分からなくて、見ているだけで飲み込まれそうだ。引き寄せられるように、私の足は砂浜の方へと進んでいた。サンダルで出てきたから、体重で足が沈み込むたびに冷えた砂が肌に直接触れる。身体の中に火照った感情でさえ冷ましていくようで気持ちがいい。一歩、また一歩。波の音が近くなる。


「危ないよ」


 声をかけられてハッとした。爪先に寄せてきた潮水が触れている。いつの間にか波打ち際まで歩いてきていたのだ。


 声がした方を振り返ってみる。誰かが浜辺に座っている。暗くて顔はよく見えないけれど、その声の音を私はよく知っていた。


三葵みつき……どうしてここに」


 彼は「ちょっと考えごと」と言ってゆっくりと立ち上がった。ざっ、ざっと砂を踏む音。近づいてくる。


息遣いが聞こえる距離まで来てようやく、暗闇の中に整った輪郭が浮かび上がった。彼はふっと微笑んで、その指で私の頬をなぞった。


ざらりと砂つぶの感覚がした。


「君こそ。なんで泣いてるの」


 その言葉の後のことはあまりちゃんと覚えていない。はっきりしているのは、きっと一生分の涙が枯れるまで彼の胸にすがりながら泣いたってこと。私が泣いている間、三葵は何も言わなかった。ただ黙って、背中をさすり続けてくれた。




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