4-4. File date 2030/08/19


***



 朝、目が覚めてワイズウォッチの待受画面を見る。八月二十日。夏休みが終わりに近づいている。明日は出校日だ。そう思うと気が重くて、私はもう一度まぶたを閉じて横になった。


 一緒に花火を見たあの日以来、私はなんとなく三葵みつきに近づけないでいる。


 明日顔を合わせたら何て言おう。まずは普通に「おはよう」って挨拶する? それから世間話して「夏休み何してた」なんて聞いてみる?


 ……だめだ、余計につらくなりそう。


 結局、あれだけはっきり拒絶されても私はまだ望みを捨てられないでいた。他の女の子たちよりも三葵に近い場所にいるって思い込んでいる。その自信は一体どこから来るのか自分でもよく分からないけどたぶん、あの臨海学校の夜からだと思う。あの時は触れても拒絶されることはなかったから。


 あの時から私たちは一体何が変わったというのだろう。知らないうちに悪い方に進んじゃったのかな。自分だけがとんでもない恥知らずみたいで、とにかく居心地が悪かった。


 ワイズウォッチから短い電子音が響いて私はゆっくりと起き上がった。メッセージを受信したらしい。画面を開いて私は思わずそれを二度見する。


『今日、ちょっと話せない?』


 そんなメッセージを送ってきたのは思いがけない相手……小恋ちゃこだったのだ。なんだろう、またいじめでもするつもりなんだろうか。身構えたけど、断るほど忙しいわけでもなかったし、いい加減、健介兄さんと顔を合わせるだけの夏休みにも飽きてきたところだった。


 私は「いいよ」と短文で返し、昼になってから彼女に言われたファーストフード店に出かけることにした。


 待ち合わせ場所で彼女に会い、私はどきりとする。他人かと見違えるほどに目はクマでくぼんで見えて、頬の目立つところに大きなニキビができている。化粧をするのを忘れたのか、剃った眉毛は無防備に晒されている。私が知っている彼女はいつも自信ありげで派手な印象だったのに、しぼんだ風船のように覇気がなくしょんぼりしていた。


 注文を終えて席に着くと、彼女は「あんたに聞いてもしょうがないかもしれないけど」と消えそうなほど小さな声で前置きした。


環多かんた……どこ行ったか知らない?」


 すっかり涙が枯れてしまったかに見える窪んだまぶたの中の瞳がゆらゆらと揺れていた。


 ちょっと待って、どうして私が彼女のこと「何かあったのかな」なんて心配してあげているんだろう。


 頭の中で彼女が私に浴びせてきた罵声を思い出す。そうでもしないと気が緩んでしまいそうだった。小恋は私にとっては敵。いじめてきた相手。これも私を陥れるための罠かもしれない。


「……知らないけど」


 なるべくぶっきらぼうに答えたつもりだった。だけどすぐに後悔した。小恋の瞳からボロボロと大粒の涙がこぼれ始めたからだ。私は慌ててハンドバッグからハンカチを出して彼女に差し出した。これがもし演技だったら主演女優賞とれるよ、なんて思いながら。


「……津山がどうかしたの?」


 小恋が泣きやんでから聞いてみた。すると彼女はぽつりぽつりと話し出す。一週間ほど前に出かける約束をしていたのだがその場所に彼が現れなかった、それから彼の家や学校に問い合わせてみたけれど、すっかり行方知れずのままなのだという。


「それで、どうして私に」


「だって……あんた中條と仲良いじゃん」


 こっちは柔らかいハンカチを差し出したのに、鋭い刃物が返ってくるとは。


「み、三葵と仲良いことが何か関係あるの?」


 動揺を見せないよう抑えながら聞くと、小恋はうつむきながら言った。


「約束してた日に、環多からメッセージがあったの。『今渋谷にいるけど、中條が怪しいカッコして変な奴らと一緒に昔宗教団体があった通りに入ってくのを見た。なんか面白そうだから後つけてみるわ』って。それ以来、メッセージが途絶えちゃったから」


 まぁ、好きな人からのメッセージが途絶えた小恋には同情する。わかる、すっごいわかる。突然嫌われちゃったのかなって不安になるよね。


 だけど……津山には本当に呆れた。まだ三葵のこと探るようなことしてたんだ。


「それは津山が一方的に三葵のこと見ただけで、三葵が津山に気づいてたわけじゃないでしょ」


「そうだけど、今はそれくらいしか手がかりがなくって……」


 肩を落とす小恋。この子、こんなにちっちゃかったんだ。


 それは、外見の意味でも、彼女の気の持ちようという意味でも。


 それから先は、なんとなく会話が続かなくなってしまって、私たちはドリンクバーを頼んでいたはずなのにジュース一杯でお店を後にした。






 小恋と別れ、私は用もないのに渋谷の街を歩いていた。とりあえずいつもみたいにファッションビルに入ってお気に入りのブランドで服を見てみる。秋服が出始めていてシックな色合いに惹かれはしたけど、なんだか買う気が起きなかった。


 ……やっぱり気になるなぁ。


 ファッションビルを出て、津山が三葵を見たという通りの入り口に立つ。まだ昼間だけど、ビルの陰で薄暗くて足がすくんだ。


 この辺りは少し前まで新興宗教の拠点があって、そこの関連施設が集まっているから変な人が多いって聞いた。学校でも耳にたこができるほど注意喚起を受けてるし、健介兄さんもしょっちゅう「あそこには近寄るな」って言ってくる。だから、自分からここに来ようと思ったことは今まで一度もなかった。


 でも、なんで三葵はこんなところにいたんだろう。


 考え始めると頭がもやもやして、他のことは全然考えられなくて、私の足は自然と通りの中を歩き始めていた。通りに沿いはガールズバーとか風俗店が多く並んでいた。ほとんどがまだ営業時間ではないから、人気ひとけが少ない。それでも誰とも目が合わないスクランブル交差点とは違って、ここはなんだか一方的な視線をたくさん向けられているような感じがして、真夏なのにちょっと肌寒く感じた。


 私……何してるんだろう。


 通りを半分以上超えたあたりで、この道をただ歩いていても津山の手がかりや、三葵がここにいた理由も見つかる保証はどこにもないということに気づいた。


 引き返そう──そう思った時、ふと聞き覚えのある声がどこからか聞こえた。


「……生、ここなら……ので、しばらく……」


 距離が遠いのか、何を喋っているのかははっきりと聞こえない。だが、間違いなく三葵の声だった。


「……ったよ。……か、君が私を……なんて」


 誰かと話しているようだ。もう一人の男の声は聞いたことがない。


「……ても、よく……のこと……ましたね」


「忘……さ。なんせ……だったから」


 声がする方に向かって歩いてみる。駅前から少し離れているとはいえ、渋谷の喧騒にかき消されてうまく方向がつかめない。もしかして上の方から? そう思って、近くのビルを見上げようとした時だった。


「っ……!?」


 視界が急に暗くなる。声を出そうとしたら口の中に何かを押し込まれた。舌先に毛羽立ったタオルの表面の感触がした。息苦しくてもがこうとしたけど、私の手はすでに自由を失っていた。


 背後から汗と加齢臭の混じった嫌な臭いがする。


 熱く火照った大きな手が私の腕を抑え込んでいた。無理やり引きずられてどこかの壁に乱暴に押し付けられる。背中から感じる、しんと冷えたコンクリートの壁の感触と、太ももを這いずり回る汗ばんだ手の感触のギャップ。わけが、わからない。精一杯の力でその手を跳ね除けようと足を動かしたら、生温かい息が首筋に吹きかけられた。


「抵抗したら殺すよ」


 低い声で囁かれ、私の心臓は動きを止めてしまったかのようだった。手足の動きどころか、恐怖で涙すら出てこない。お願い、動いて。動いてよ! 私の身体なんだから、言うことを聞いてよ! 逃げなきゃと思うのに、震えて力が出なかった。


 色んな後悔が堰を切ったように溢れ出してくる。こんなところ来なければよかった。小恋の話なんてあてにしなければよかった。三葵のことを好きに……ならなきゃよかった? 違う。そうじゃない。後悔なんかしてないよ。そうじゃないのに……!


 男の手が私のハーフパンツのチャックに手をかけた。


 私、こんなところで……?


「やめろ!」


 その人の声はとてもまっすぐ響いた。ドカッと鈍い音がして、私を押さえつけていた男は短いうめき声をあげると拘束を解いた。目隠しが外れて、周囲の様子が目に入った。目の前には、よれたジャケットを着た中年の男が脇腹をさすりながらしゃがみ込んでいた。男はよろよろと立ち上がると、「クソッ」と罵った後、バタバタと忙しない足音でその場を去っていった。


「大丈夫!? 怪我してない? ちょっと待ってて、あんな奴、僕がすぐに追いかけて警察に叩き出して──」


「行かないで!」


 私は反射的に、久しぶりに会えた三葵の服の裾をつかんでいた。


「お願いだから、今はそばにいて……まだ、震えが止まらなくて……」


 そう言いながら、さっきまで縮こまっていた涙が一気に溢れ出してきて、目の前の三葵の姿がだんだんぼやけていった。三葵は穏やかに微笑んで……いや、微笑んだのかどうかはよく見えなかったんだけど、とにかく優しい表情で私を見てくれたんだと思う。その表情に色んなものが洗い流されていくような気がして、私は人目を気にせず泣きじゃくった。


亜衣莉あいり


 三葵はしゃがんで私と視線の高さを合わせると、優しい声で私の名前を呼んだ。


「この間はごめん。君を傷つけたかもしれないけど、あれは君が悪いんじゃなくて、僕のせいなんだ。僕自身が君に触れていいような人間じゃないから、怖くて触れなかった……だけど、泣いている君を見ると、やっぱり我慢ができない。臨海学校の時もそうだった……目の前で何もできないでいるのが歯がゆいんだ」


 三葵はそう言って、自分の手を見つめていた。


「……ねぇ亜衣莉。君は僕が触れるのを許してくれる? 僕がどれだけ汚れていたとしても」


 私は返事をするよりも先に、彼の胸の中に飛び込んだ。


「どうしてそんなこと言うの……! いいに決まってるじゃん……! 正直、私が見てないところで三葵が何をやってるかなんて知らないよ……だけど、私にこうやって優しくしてくれるのは本物だって信じてるから……」


 ためらいながら、ゆっくりと三葵の腕が私の身体を包みこむ。


「うん、本物だよ……。僕は不思議と君には嘘をつけないんだ。君が偽物の僕を求めることはないから……。だから本当は、汚くて弱い僕のこと、君にもっと知ってほしいんだ」


 三葵が少しだけ身体を離して、真剣な眼差しを私にまっすぐ向けてくる。吸い込まれそうなくらいきれいで……少しだけ、悲しそうな眼差しだった。


 引き寄せられるように、ゆっくりと顔を近づける。意識しなくても、自然と唇が触れ合いそうな距離。だけど、三葵はそれを避けているような気がした。その代わり、額をぴったりくっつけて、三葵は呼吸音と同じくらい小さな声で囁いた。


「もう少しだけ待っていて……あと一つ、やらなきゃいけないことが終わったら、ちゃんと全部話すから」






「おい亜衣莉。晩飯食わねぇのか?」


 健介兄さんにそう言われて、私は初めて目の前に夕ご飯が並んでいることに気づいた。


「うん、ごめん……お腹いっぱい……」


 お腹というより、胸がいっぱいって言った方が良かったかもしれない。


 こんなことって、本当にあるんだ。少女漫画の中だけの話かと思っていたけど、私の頭の中には昼間三葵と触れ合った時のことが何度も浮かんできて、他に何も考えることはできなかった。


 健介兄さんが25度以下に設定した寒すぎる冷房のせいで身体はすっかり冷え切っていたけど、三葵の手の温もりがずっと皮膚の上に残っているような、そんな感じがした。


「ったく、どうしたんだ? ダイエットならやめとけよ。お前の健康診断の数値見たけど、BMIは適正値だし多少脂肪があった方が健康的なんだから別に痩せる必要は──」


「ちょ、ちょっと! なんで勝手に見てるの!? もう、最低!」


 私は憤慨しながら夕食を片付けて二階の自分の部屋に向かった。


 健介兄さんってば、色々気にかけてくれるのはありがたいんだけど、いつまで経っても子ども扱いなんだよなぁ……もしこれで三葵と上手くいって付き合い始めたよなんて報告した日にはどうなるんだろう? ……健介兄さんのことだから、おどおどとうろたえた後に卒倒しそうだ。うん、報告はしないでおこうかな。


 もう今日は何も手につかないから、私はそのままベッドの上に寝転がって、ワイズウォッチの投影式ディスプレイにネットニュースを映しながら、今日あったことをもう一度振り返っていた。


 そういえばそもそも私があの場所に行ったのは小恋に津山の話を聞いたからだったっけ。


 小恋には悪いけど、津山の手がかりは結局何も見つからなかったな……私だってそれどころじゃなかったんだもん。


 それにしても、何で三葵はあそこにいたんだろう? 誰かと話しているみたいだった。あんな場所に知り合いなんているのかな? 同世代じゃなさそうな声だったけど……。空手の道着みたいな服を着てたし、もしかしてお父さんじゃなくて誰か別の先生のところに通ってて、その教室が近くにあるとか? 空手教室の看板なんてなかったような気がするけど……。


 あれ、ちょっと待って。


 私は無意識に投影式ディスプレイをスクロールさせていた指を止める。ある記事のサムネイル画像に映っている服が、やけに三葵が今日着ていた道着のような服によく似ていたのだ。


 その記事は、4ヶ月くらい前に脱獄したという、新興宗教〈隣人同盟ゾウの会〉の教祖についての情報をまとめた記事だった。


 まさか……ね。


 思考に蓋をするように、私は部屋の電気を消してまぶたを閉じた。


 だけど、妙に目が冴えてしまって、結局一睡もすることができなかった。



***


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