39話 記憶-5
彼、並木修一は、桜学園の教師を通して幡田暁美に語り掛けていたようだ。
幡田暁美に開花した『能力』を制御する訓練とその相談のために、研究所か、あるいは並木が学園を訪れている間に接触するように――幾度となく、彼はそう求めていた。
しかしその言い付けは、とうとう守られなかった。
幡田暁美は『能力』が開花したにも関わらず、それに向き合うことはなかった。そして今日という日を迎えてしまった。
並木は自業自得と咎める一方で、強い自責の念を負っているようだ。
彼には生徒を、研究所や生徒指導室に引っ張り込む強制権はない。それは性別や立場、さらには他要素を起因とする疑惑・事案から、互いの身を守るための対策であった。しかしその防御策が、今回においては枷となり、それどころか負の効力を働かせてしまったのである。
すっかり肩を落としてしまった並木は、小さく首を振る。
「友達が気付いてくれたのなら、彼女は幸せ者だよ。私からすればね。全てを失わずに済んだのだから」
「暁美ちゃんの『能力』って、そんなに危険なものなんですか?」
「働き方によっては、どこかに幽閉でもしないといけないくらいに危険だったかもね。でも大丈夫。幸いなことに、彼女の『能力』は、彼女自身にしか効力を持たない。今の所は。……そうだね、酷い物忘れのようなものだよ」
「物忘れ?」
明里は首を傾げる。並木の表現には、まるで緊張感の欠片もなかった。
その真偽を求めて暁美の方に目を向けるが、彼女はふらふらと部屋の中を歩き回っては本棚へ寄り、適当な背表紙に指を這わせるばかりである。こちらの会話には全く関心を示さない。
事の深刻さをものともしない無邪気な行動に、緊迫の糸が緩められていくようにも感じた。
「私が見た限りでは、幡田さんの持つ『能力』は、『ものを忘れる能力』。自分の内にある何かしらの記憶を消す、とも解釈できるね。色が浮かんでは消え、別のイメージに置き代わる。やはり何度見ても、あまりよい『能力』とは言えないな」
「『ものを忘れる能力』……ですか」
暁美の持つ『能力』が他者に向けられ得るものだったのなら、明里もただでは済まなかっただろう。一つ一つ何かを忘れ、忘れたことにさえ気付くことなく、やがて自分を見失う。
幡田暁美は、『能力』の管理人は、その道歩んできたのだ。想像するだけでもぞっとする。先の見えない旅路など、それこそ地獄のようだ。
「暁美ちゃんは、これからどうなるんですか? 元通りには――記憶は、ちゃんと戻るんですか?」
「残念だけど、その保証はし兼ねるな」
並木は肩を竦める。
「今の彼女は、新しい記憶から見境なく消してしまっている状態だ。新しく覚えるよりも、消す速度の方が上回っている。つまり、記憶を消しては書き込み、また消している。元の記憶は――全く同じ時間と体験を経ない限りは、取り戻すことはできないだろうね」
「そう、ですか……」
本当に暁美は全てを忘れてしまうのだろうか。楽しかったことも辛かったことも、明里や親友の地下小夏のことも。
彼女はこれからどのような生活を送るのだろう。いつの間にか進んでしまった世界の中で、自分の記録と世界の記憶との差異に戸惑いながら、常に「新しい世界」を生きていく。それしか許されないのだろうか。
ふと歓声が聞こえてくる。暁美の手には円柱状のガラスケース。その中身を覗いて、彼女は歓喜の声を挙げていたのだ。
「何これ、綺麗!」
「こらこら、それは触らないで。降ろして!」
慌てて立ち上がる並木は、暁美の手からケースを奪う。余程大切な物なのだろう、並木は狼狽した様子でガラスの中を覗き込むが、中身に変化ないと分かると、ほっと肩の力を抜いた。
ケースには石のようなものが入っていた。結晶とも言えるだろうか。薄紫を基調した、美しく大きな欠片。その根元と思しき部分には、赤黒い色が混ざっている。それはどこか、いつぞやに見かけた小枝を彷彿とさせた。
「これは大切なものだから、触らないでください。いいね?」
「えー、綺麗なんだもん。ちょっとだけ!」
そう手を伸ばす暁美。並木はケースを頭上に掲げて暁美の手を躱す。そのやり取りを何度か繰り返してから、やがて男は観念したように息を吐いた。
「仕方ないな……見るのはいいけど、触らないでね。割れたら困るから」
「はーい」
結晶を収めたガラスケースが、机の上に降ろされる。ウサギのように飛び跳ねた暁美はすぐさま床に膝をつき、ケースと自身との目線を合わせる。気に入ったらしい。彼女はまじまじと、紫の影を作りだす結晶を見続けた。
その様子を心配そうに眺めていた並木だったが、やがて無害であると判断したのだろう。ようやくこちらに身体を向けた。
「ええっと、それで、何の話だったかな……。そうそう。幡田さんは、一度こちらで預からせてもらうよ」
「えっ、どうしてですか?」
「『能力』の進行を止めなくてはならないからね。私達にできることは、全部やるつもりだよ。学園の方には私から連絡をしておく。成宮さんについても、その時説明をさせてもらうね」
「お、お手柔らかにお願いします」
「心配しなくても、患者を連れて来てくれたって言うだけだから。先生もきっと大目に見てくれるよ」
慰めの言葉を掛けられて尚、明里は落ち着かなかった。何せ、このようなことは初めてなのである。
教師に断りを入れることなく学校を抜け出し、敷地外にまで出る。いくら友人に言付けを頼んでいたとしても、不良然とした行動に、今更ながら纏わり付くような背徳を覚えた。
「じゃあ、私、そろそろ戻ります」
「もっとゆっくりしていけばいいのに。バスはあるかい? ないなら職員に送らせるけど」
「ありがとうございます。でも私……タクシーに乗ってみたいんです」
「ははは、なるほどね。それはいい案だ。気を付けて帰るんだよ」
「はい。暁美ちゃんのこと、よろしくお願いします」
そうして後にした研究所だったが、改めてその外観を顧みてみると、それはあまりに寒々しく、肌が粟立つ程に息の気配がない。能力者にとって友好的な建物だというのに、なぜだかそれが、あろうことにか、拘置所のようにも見えた。
嫌な気分だ。
何が悪い、という訳ではないが、得体の知れぬ何者かが、あれやこれやと、ありもしない予感や不安を騒ぎたてる。
きっと疲れているのだろう。疲れているからこそ、ネガティブに物事を考えてしまうのだ。明里はそう納得をつけて、自らのあるべき場所へと急いだ。
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