3話 桜学園と白い犬-3

 突然ネズミがぴんと背筋を伸ばした。小さな耳を立て、忙しなくあたりを見回す。何かを警戒しているようにも見えた。明里もそれを真似して周りに目を配るが、やはり人影はない。怪しい気配も感じられなかった。傍らの詩織も怪訝そうな顔をしている。

 チチ、とそれは鋭く鳴いた。


「明里」

「え……?」


 不意に名を呼ばれたかと思えば、腕を強く引かれる。それに導かれるままに、明里は走り出した。明里の腕を掴んだ詩織はこちらを振り返ることなく、石畳の上を、立ち並ぶ店々の間を滑るように駆け抜ける。


「え、ちょ、何?」


 困惑の中、明里は背後を見る。そこには犬がいた。真っ白い毛を緩やかになびかせ、逞しい四肢を大地に突っ張っている。

 よくよく見ると、その犬には目がなかった。本来目玉が埋まっているはずの部分には、ぽっかりと暗い穴が開いている。赤い色が顎を伝い、胸元を汚す。天を仰ぐ鼻づらが右へ左へ、ゆっくりと八の字を描く。黒い鼻がひくひくと動いた。


「ねえ、詩織ってば!」


 不安と混乱のあまりそう呼びかけると、ぴたりと犬が止まった。見えない目がこちらを捉える。空洞に見据えられ、冷たいものが背筋を駆け上がった。腕を引く詩織は速度を緩めることなく、急激に方向を転換する。白い姿が角に消える。犬がその後どのように動いたのか――透視の能力を持たない明里が知る術はなかった。


 路地裏に入った詩織は、ちらりと背後を窺う。その目は、焦りや緊張よりも、どこか怒りのような色に塗られていた。自分に向けられたものではないと分かっているのに、なぜか胸が痛んだ。なぜこのような表情をするのだろう。たかが犬だというのに。


 背後で遠吠えが聞こえた。切なくも力強いそれは、昔テレビで聞いた、オオカミが獲物を追い立てる合図とよく似ていた。応える声もなく、それは不気味なほどにしんしんと染み渡る。

 硬いものをひっかく音が耳に障る。首を捻って背後を見ると、凄まじい勢いで真っ白い犬が迫ってきていた。ぐらぐらと首を揺らし、だらしなく舌を垂らし、不気味なほど不安定に走ってくる。その様子は車に牽引けんいんされる人形のようで、どこか痛々しかった。


「何、何なの、どうしてこんなことに」

「とにかく逃げよう。それから人を見つけて、それで――」


 それで、どうするというのだ。明里には詩織の言わんとしていることが分からなかった。いや、分かりたくなかったのかもしれない。

 詩織は人を見つけて、犬の意識を逸らそうとしていた。怒りに燃える瞳は、これまでにないほど爛々と残酷に輝いている。

 それが自分達のためと分かっていながらも、自らの生命を助けるために他人を危険にさらすだなんて、できるはずがない。明里の胸に重い霞が掛かる。


 黙り込んでしまった詩織。彼女は明里の腕をしっかりと掴んでいた。置き去ってしまわないよう、あるいは逃がさないよう、がっしりと掴んでいた。力強いはずのそれが、どこか弱々しく感じる。どこへ逃げるべきか、途方に暮れているのかもしれない。

 明里ははっとする。心細げな背へ向けて叫んだ。


「詩織、お店!」

「え?」

「お店に入ろう!」


 ここは商店街だ。その名の通り、店がたくさん並んでいる。現在明里らが走っているのは路地裏だが、大きな通りに出さえすれば、逃げ場は余るほど存在するに違いない。「そうか」と詩織は感嘆交じりに呟いた。

 とにかく大通りに出ようと、角を曲がった――その時。


「こっち!」


 自分たちを呼ぶ聞き覚えのある声。どこから聞こえてくるのか――町中を見回すと、遠くに人影が見えた。商店街のほぼ中央に位置する、噴水のある大きな広場。そこで大きく手を振るそれは、もう一度叫ぶ。


「こっちに来て!」


 犬の唸りが飛躍した。背中に爪をたてようと、獲物を引きずり倒そうと、飛びかかってきた。明里はそれを避ける。横へ転がるようにして、爪から逃れる。冷たい石畳へ強かに身体を打ち付けたが、痛みを感じる余裕はない。詩織の足が止まっている。こちらを振り向く。差し出された手をもろとも押し出すようにして、明里は地を蹴った。

 五十メートルもないはずの距離が長く思えた。手を振る人物が道を開ける。道の傍らが小さく歪む。


 他とは異なる色の石畳。それを踏んだ瞬間に、視界の端を何かが掠める。切ない断末魔が鼓膜を打つ。唸りと爪の音がぱったりと途絶える。先程の悲鳴が犬のものであることは明白だった。

 助かった。もう恐怖は追ってこない。耳の奥で心臓が鳴っている。血管がはち切れてしまいそうだ。こんなに走ったのはいつ振りだろう。高校生ともなると、走る機会はそれ程ない。だから余計に胸が苦しく感じるのであろう。


「よく頑張ったね。もう大丈夫だよ」


 その人は、優しく明里の背を撫でる。激しく上下する背をなだめるかのような仕草だった。


「もう大丈夫って……何が、どうなって……」


 絶え絶えの息の中、やっとのことで声を出すと、明里は顔を上げた。

 明里と同じ白地に緑の襟を付けた制服。胸元は青色のリボンで飾られている。ふわふわとした栗色の髪は春風に遊ばれ、温かい瞳は安堵したように細まっている。

 思わずはとする。その顔は見知っているものだった。柔らかそうな髪といい、優しい目といい、幼い頃に見たそれと同じだった。


「莉乃……ちゃん?」


 水谷莉乃みずたにりの。明里のにあたる人物である。

 どうしてこんなところにいるのか――そんな問いが浮かんできたが、思考力を取り戻しつつあった頭が、その答えを探り当てる。


 数年前、親戚が集まって話しているのを見た。妙に沈んだ声で、どこか軽蔑を滲ませて、はとこの転校や編入の話をしていた。その記憶は、それほど遠いものではない。人々の表情、重々しい空気――それは今でも生々しく、鮮明に覚えている。

 当時は、なぜ暗い表情をしているのかと不思議に思ったものが、ようやく合点がいった。

 水谷莉乃の転校先は桜学園だったのだ。母が嫌い、親戚が忌んだ能力者の巣窟とも言える場所。そこに血縁が送られることになるのだから、重苦しい雰囲気にも納得がいく。


 明里はちらりと相方の様子を窺う。彼女は噴水の縁に縋りつくようにして蹲っていた。見たところ、怪我はないようだ。

 明里はほっと息を吐くと、今なお明里の背を撫で続ける親戚へと問う。


「それより莉乃ちゃん……」

「うん?」

「あれは――あの犬は、どうしたの?」


 わずかに莉乃の眉が動く。ひそめられた眉の下で、その目はちらりと、明里の後ろを見る。それを追い、明里も首をひねる。


「……見ない方がいいかも」


 そこは血の海だった。白い体毛を赤く染めた犬が、灰色の石を侵食していく。その傍らには少女――手には硬い筒を持ち、髪も頬も服も、全身を真っ赤に濡らしている。映画のワンシーンのような光景に、すべての音が遠退いた。


 血の気が失せる。全身が冷え込む。薄れゆく意識の中で、目前の少女は軋むように笑った。

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