2話 桜学園と白い犬-2

 目的の商店街は、学園の敷地内にある。

 範囲こそ、それほど広くはないものの、生活用品から娯楽物資に至るまで、ありとあらゆるものが販売されているようだ。


 満面に咲き乱れる桜並木を通り過ぎ、寮を横目に歩いて行く。さりげなく寮の方へと逸れてゆく詩織の手を引きつつ、十分ほどをかけて、ようやく商店街へと辿り着いた。


 整然と並べられた石畳。ガス灯を模した街灯。西洋風の明るい街並みを敷いた、かわいらしい景色。その景色は、どこかで見かけた映画の背景にも似ていた。


 写真好きの父でも連れてきたら、それはもう、周りのことなど目に入らないほど歓喜するに違いない。ひょっとしたら乱舞して、カメラの容量を使い切ってもなおシャッターを切り続けるかもしれない。今頃何をしているだろうか。


 ぶらぶらと歩く街並みは、あまりにも閑静なものだった。小洒落た景観に立ち並ぶ店々にもゲームセンターにも、人っ子一人いない。てっきり行事を終えた上級生や同級生らが出歩いているとばかり思っていたのだが、そうではないらしい。白地に緑色の襟と金のボタンがついた制服も、接客に精を出す大人たちも、まったく目にすることはなかった。

 まるで撮影の済んだセットだ。主役も脇役もエキストラも、スタッフも機材も、すべてが撤収してしまった現場。自分達だけが取り残されてしまったかのような感覚――しかし、なぜか寂しいとは思えなかった。それどころか、その街並みが、どこか特別なもののようにも感じる。


 不意に詩織が足を止めた。暗い色の瞳が、じっとガラスの中を覗きこんでいる。曇り一つないガラスの中には、いくつもの食品サンプルが並んでいた。スパゲッティやピザなどの食事類からスイーツ類、飲み物等も多く置かれている。


「どうしたの?」


 明里が尋ねると少女は食品サンプルを示す。


「ここのパフェ、美味しいって話題になっていたよ」

「へえ、ここが」


 改めて、その店を見上げる。他の店と比べると小柄なそれは、洋風とも和風とも取れる中性的な外装をしていた。ほどよく日焼けしたレンガには白い柱が挟んであり、屋根には丸い採光窓が設けられている。その縁はリースにも双頭の龍のようにも見える青銅色の彫刻で装飾されていた。


「そういえば、クラスの子も言ってたね。いちごとチョコのパフェが美味しいとか」

「さっさ食べて、さっさと帰ろう」

「そんなに帰りたいの? もっとぶらぶらしようよ~」


 苦笑をしつつ、明里はそっと財布を取り出す。

 買い替えたばかりの真新しいそれには、道端で拾った石と麓の街で作った、金メッキに塗られた記念品が収まっていた。細かく区切られた、何に使うのかも分からないスペースには、薄桃色に花を模したマークが描かれたカードが差し込まれている。桜学園内にのみ流通するカードである。明里はそれを取り出した。


 桜学園における金銭のやりとりはカードにて行われる。月初めに三千円が支給され、それを消費することにより、生活用品や娯楽物資を購入することができる。現金もカードも消え失せた外界からやって来た当初には、それを不便と感じたこともあった。

 今月――四月の始め、明里のカードにも三千円が振り込まれた。だが手元のカードには、もう五百円も残っていない。四月の中旬にもなっていないというのに、過去の自分は一体何に使ったというのだろうか。


 ひょっこりと詩織が覗きこんでくる。彼女は明里のカードを見るなり、呆れたように息を吐いた。


「ぬいぐるみとか服とかペンとか、たくさん買うからだよ。使わないのに」

「だって、可愛かったんだもん! この学園、品ぞろえが良すぎるんだもん」


 明里は肩を落とす。自業自得とはいえ、この仕打ちには憐憫の情さえも覚える。美味しそうなスイーツを目の前にしていながら、味わうことができないだなんて、まるで生き地獄だ。

 ガラスの向こうに燦然さんぜんと輝く食品サンプル。きゅうと鳴く腹。急かされる判断に、明里は顔を上げた。ぴしりと詩織の方を向き、その瞳を見つめる。


「詩織さん」

「うん」

「パフェ食べたい」

「うん」

「お金貸して……」

「仕方ないな」


 詩織は困ったように笑った。有り余る歓喜に思わず飛びつくと、細い身体がよろける。すぐ近くに置かれていたメニューボードが、かたんと音を立てた。


「――あれ」


 詩織の肩越しに、明里は見つける。メニューボードの下からちょろちょろと、小さな生き物が這い出てきたのだ。手のひらほどのサイズもない、小さなネズミ。鼻を地面にこすりつけ、やがて後ろ足で立ち上がる。胸の前で垂れ下がった前足が何とも可愛いらしかった。

 どうしてこんなところにネズミが。明里はじっとそれを見つめた。


「明里、ちょっと……」


 離れてよ、と彼女は身じろぎをする。明里は腕を緩めることなく、それどころかより体重をかけるようにして目を細めた。


 鮮血を垂らしたかのような赤目がぷっくりと、灰色の短毛から覗いている。どこか水場でも通ってきたのだろうか、手足と腹の毛が濡れていた。

 一見すると可愛いらしい容姿をしている。しかし、それはどこかただならぬ雰囲気を纏っていた。動物的本能が叫ぶ。真っ赤な警告ランプが脳裏をよぎる。得体の知れない恐怖が、背後から忍び寄ってくる。

 何か妙だ。生き物なのに、生き物とは思えない。それに詩織も気づいたのだろうか。明里の胸を押しつつ、ふいと首を回した。


「あれ、ネズミだ。可愛い」


 詩織は言う。やっとのことで明里の腕から逃れた彼女は、ネズミの前にしゃがみ込むと、小さな鼻先に人差し指を差し出した。


「ちょっ、噛まれるよ!」

「大丈夫だよ、噛まないから」


 ネズミは小さな鼻をひくひくとさせ、詩織の指先に近づく。その動きは小動物のそれと何一つ変わりなかった。あの感覚は気の所為だったのだろうか。小さな頭に円を描くようにして、友人はネズミを撫でる。その手つきは、随分と小動物慣れをしているように見えた。


「飼ってたの?」

「うん、昔ね。猫もいいけどネズミもいいよね」

「そ、そうかなぁ……」


 詩織は今までに見たことがないほど、嬉しそうな表情をしている。いつもは無愛想な彼女でも、こんな風に笑うのだ。これを見たことがあるのは、おそらく、クラスの中でも明里だけだろう。それが何となく誇らしかった。

 明里も詩織の隣に膝を付く。


「私も触っていいかな?」

「もちろん」


 詩織はそっと手を退ける。それと入れ替わりに、明里はネズミへ手を延ばした。

 小さな頭に手を触れると、想像していたよりもずっと柔らかな感覚が指を伝わってくる。ぐりぐりと指で押すと、目を細めたネズミは、まるで痛いと抗議するかのように鳴いた。


「意外とかわいいね」

「でしょう?」


 そう言う詩織は、どこか誇らしげだった。

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