1話 桜学園と白い犬-1

 薄暗い講堂の中には、緊張にも似た吐息が渦巻いていた。

 大きな講堂の一列を埋める同級生は、ざっと見る限り三十人ほどだろうか。成宮明里が以前まで通っていた学校の、およそ一クラスに相当する。本当にこれだけなのかと疑ってしまうほど、少ない人数だった。

 確かに、この学び舎は辺境の地にある。かといって極端に低い認知度であるというわけでもない。それどころか、いわゆる「名門校」に分類され、名前自体も知れ渡っている。

 だが、名門校と言われる学園ではあっても、入学するにあたって、高い知性は要求されない。知性どころか、これまでの生活態度も業績もすべてが白紙に塗り替えられる。それらとは全く異なるものが、何よりも重視されるのである。

 そういう意味では、この学園は日本国にとっても稀有な存在であった。


「今回入学なさる皆さんを含め、ここ、桜学園に籍を置く生徒は、何かしらの力を持っています」


 穏やかな声が流れる。だだっ広いステージの上。スポットライトを浴びた女性は、口元の皺を深くした。光に照らされ、白銀の髪が穏やかに輝く。


「私――桜学園の長、早乙女椿さおとめつばきの目には、みなさんの中に眠る素晴らしい素質が映っています。すでに開花させている人にとっても、そうでない人にとっても、この学園における生活は、きっと有意義なものとなるでしょう。そうなると、信じています」


 女性の言う「力」、あるいは「素晴らしい素質」が、この桜学園に入学するにあたって最も優遇される。個人特有の、唯一にして二つとない個性とも取れるそれ。限られた者にのみ授けられる力。そんな力が、いつからかこの世界には生まれ始めた。

 その歴史はそれほど浅くはない。しかし、それが文献に見られるようになったのは、ちょうど徳川幕府の権威が揺らぎ始めた頃だった。詳しい話は成宮明里自身も知らない。そもそも、この学園が求める力――俗称『能力』についても、ほとんどが知識にないのだ。


 柔らかな色合いの着物に隠れた胸へ手を当て、桜学園理事長早乙女椿は、じっと新入生を見まわした。穏やかな双眸が肌を撫でていく。媚びるわけでも、同情するわけでもない。慈悲深く、ただ受け入れてくれる聖母のごとき瞳。心地よいそれに、明里は安堵する。ずっと前から知っているような、奇妙な親近感を覚える。そのような目をする人は初めてだった。

 女性は、穏和に締めくくった。


「皆さまに幸多くありますよう――」


   □   □


 孤島に置かれた学園の入学式は粛々と、大した時間をかけずに終了した。本土にある学校と何一つ変わらない、至って普通の式典。学園長やその他上層部より送られる、ありがたくもない祝辞。生徒会長の歓迎の言葉。長く退屈なそれらが、明里にとっては少しばかり残念でもあった。


 特別な力、『能力』を持つ人間の学園と称するのだ。それを利用して、派手なパフォーマンス要素を存分に含ませた、華やかで楽しい入学式になるのだろうと、大きな期待を抱いて参加した入学式ゆえに、それを裏切られたという点では残念である。だが、そんな静かな入学式には、桜学園が持つ校風が現れているかのようで、聞いていた話よりもずっとよい学園――明里に合った学園であるように思えた。


 桜学園は成宮明里の母の母校である。それゆえに学園についても、よく話しに聞いていた。しかし、それらの中によい印象を与えてくれるエピソードはなく、ただ辛かったと、悲しそうな目をして語り聞かせてくれた。その理由は未だに分からない。分からず仕舞いのまま、彼女はこの世を去ってしまった。

 できることならば学園の事も『能力』の事も、多くを教えてほしかった。明里の内なる願いを故人が知ることも、ましてや、この学園の関係者が知らせてくれるはずもない。右も左も分からず、誘われるがままにやってきた明里にとって、それだけが唯一引っ掛かった。

 だが、それも自ずと見えてくるだろう。『能力』の事も、母が桜学園を嫌った理由も。


「さて」


 明里は勢いよく立ち上がった。がたんと大きな音を立て、先程まで自身の尻に敷かれていた椅子が後ずさる。

 淡々と流れる入学式を終え、教室へ戻って来てからも、長々と気の重くなる話を聞かされた後である。クラス中がぐったりとしていた。中には、もうこんな所には居たくないと言わんばかりに、手際よく帰る準備を始めている者もいる。


 今日の行事はこれにて終了だ。これ以降は放課後となる。しかし、このまま帰宅するのも勿体無い。どうせなら様々な場所へ遊びに行きたい。これから生活の主体となる敷地を探検したい。そんな欲が明里を突き動かす。

 滾る感情のまま、明里は机の間を縫う。そして一人の少女へ話しかけた。


「詩織、商店街に行こうよ!」


 霧生詩織きりゅうしおり。明里の同級生にして、ルームメートである。

 桜学園には寮制度が敷かれており、明里は入学式の日より数週間前に、この島へと上陸した。三年という長い期間を家族と離れて暮らす事には寂しささえも覚えたが、それよりも、家族のいない新生活に対して抱く期待の方が大きく優っていた。

 そんな心境の当時、強い興奮と共に自室となる部屋へ足を踏み入れた明里を出迎えたのは、冷めた目をした霧生詩織だった。それからというもの、明里は多くの時間を詩織と共に過ごしてきた。

 寝る時も食事の時も、特に何をすることもない時間も、近くにはいつも詩織がいた。


 もはや家族同然の彼女は、ぴたりと手を止める。今日配布されたばかりの資料に膨らんだクリアファイルを机に置くと、暗い瞳を以ってこちらを見上げた。ひそめられた柳眉が面倒だと訴える。


「商店街? 何をしに行くの、そんなところまで」

「ずばり探検だよ。入学式前にも何度か行ったけど、まだ見つけていない、隠れた名店があると思うんだよね。というわけで、今日は路地裏を攻めよう!」

「嫌だよ。人、いっぱいいるし」

「東京より人は少ないよ。なんたって学内の商店街だからね!」

「そうだけど……」


 そう渋る詩織の鞄を、明里は拾い上げる。何が入っているのか、随分とずっしりとしていた。


「一緒にお出かけしようよ。お願い、詩織」


 そう両手を合わせるも、彼女は明らかに嫌そうな顔を作った。

 早く帰りたいのに。そうぼやく詩織だったが、やがて仕方ないと言わんばかりに首を振る。


「やっぱり勝てないなぁ、明里には」

「私に勝とうだなんて一年早いよ」


 明里は笑う。友人も柔らかな笑みをこぼした。

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