11話 幡田暁美と地下小夏-5
教室には明里達だけが取り残されていた。
クラス中が食堂か購買へ行き、あるいは各々の時間を過ごしているのだろう。元々がらんとしていた教室が、より広く感じられた。その一方で、壁を一枚挟んだ廊下からは、賑やかな声が聞こえてくる。
きゅう、と腹が捻る。明里は、今なお渋る詩織の手を掴んだ。
「さ、早く行こう! ご飯、食べそびれちゃうよ」
「私はいいよ。……明里たちだけて行ってくれば」
「黙らっしゃい、詩織さん。さあ、行きますよ!」
声を喉の奥に響かせつつ、そのままぐいぐいと引っ張る。ようやく観念したのか、詩織は椅子から腰を持ち上げる。
詩織と友人らの席は離れた所にある。顔を合わせた事はあっても、名前を把握している保証はない。友人らの前に詩織を押し出す。逃げられないよう、その肩を掴んだ明里は、にっこりと笑顔を作った。
「この子、霧生詩織。私の友達だよ!」
よろしく、と朗らかに迎える暁美。一方の地下小夏には、どこか陰りが見えた。
まるで今まで見た事のないモノと対面したような、警戒と不安を滲ませている。その奇妙な様子に、明里は首を傾げる。明里の様子が目に入ったのか、はとしたように、小夏は口角を持ち上げた。ぎこちない笑みだった。
「よろしく――ええっと、詩織さん」
こくり、と詩織はうなずく。彼女は微笑を浮かべていた。初対面にしては珍しい。明里は思わず詠嘆した。
およそ一か月の間、霧生詩織という人間を見てきたが、彼女が初対面の人間に対して笑みを見せる事はほとんどない。皆無に等しいかもしれない。
成宮明里に対してもそうだった。
揚々と飛び込んだ部屋にいた彼女。まるで疑るような視線を注いでいた少女。彼女がいつから寮に入っていたのかは定かではない。ただ、明里より先にいた、という事だけは事実だった。
当時の詩織といえば、話し掛けても帰ってくる声は一言二言で、まともに視線合わせてはくれなかった。挨拶も、こちらがしない限りは口にしない。「おはよう」も「おやすみ」もなかった。
いつからだろう、詩織がここまで明里に対する警戒を緩めたのは。他者に対して、例え猫被りであっても、柔らかい物腰を取る事が出来るようになったのは。
友人の成長が見られた事は嬉しくあった。しかしそれと同時に、どこかもやもやとする事も確かだった。
自分だけが知る顔が少なくなっていく――それに対する不安と嫉妬。胸の内で渦巻く、醜い黒色。明里は必死にそれを蹴り飛ばす。
友人にも友人の人生がある。彼女の交友を制限できるほど、自分は親密ではない。その権利を持ってはいない。そうと分かっていながら、ぞわぞわと湧き上がる感情は薄まる事を知らなかった。
□ □
食堂はホームルーム等の設置してある教室棟とは少し離れた位置にある。
水の噴き出る中庭に面した広間。壁一面にガラスを使用し、天井も高く、開放感に満ちた造りとなっている。そんな食堂には、多くの机とそれ以上の数の椅子が並べられていた。
とはいえ、それだけの数の机や椅子を食堂で確保していたとしても、複数人を引き連れて食事を摂る際には、人数分の椅子を揃えるのにも苦労する。一つの机に四つの椅子が置かれた場所を、二人の生徒が占拠している場合もあるのだ。声を掛け、椅子を譲って貰えば全く問題はないのだが、生憎、友人の内にそれができる人はいなかった。相手が先輩であれば尚更である。
席が空くまで待つしかないか。
多くの生徒を収容した食堂を見、明里は肩を落とした。しかし、今日は運がよかった。窓際の、よく日の当たる席がちょうど空いたのだ。先ほどまで座っていた上級生が大して離れていないにも関わらず、暁美は直ちにその席を取りに走る。
椅子を縫い、人を避けて行く彼女は、白い机にとんと手を置くなり、誇らしげにニッと口角を上げて見せた。
「席は取っておくから、三人共ご飯買ってきてー!」
「あーちゃん、何にする?」
「えっとね、ラーメンがいいぁ」
「売り切れていたら?」
「日替わりランチで~」
そんな暁美と小夏の会話を耳に、明里はちらりと、詩織の方へ目を向けた。まるで借りてきた猫である。助けを求めるかのように、視線を右へ左へと転がしている。このような挙動をする詩織は初めてだった。
「そんなに緊張しなくていいのに」
「緊張なんかしてないよ」
「嘘だぁ。眉間に
「余計なお世話だよ」
「もー、そんな事言わないで。ほら、笑って笑って」
「余計なお世話だってば」
嫌がる頬を掴み、ぐいと持ち上げる。酷く不機嫌そうな顔。その頬上下に動かし、あるいは外側へ引き延ばす。眉間に皺を寄せた彼女は、言葉を成さない音を、口の端からこぼした。
一通りそれを楽しむと、ようやく少女の頬を解放した。その途端に、詩織の手刀が横腹を突く。「ぐふ」と、まるでアニメか漫画のような音が自分の腹から絞り出された。
「明里。やっていい事と悪い事があるの、知ってる?」
「す、すみません……調子乗りました……」
「分かればいい」
静かに言う詩織。いつもと変わらないその様子が、かえって恐ろしかった。
そこへ地下小夏がやって来た。どこか軽い足取りの彼女は、指に小さな紙を挟んでいた。すでに食券を確保したのだろう。嬉しそうな色を浮かべた彼女だったが、ふと首を傾げた。
「明里さん、何でお腹押さえてるの?」
「調子に乗ったからだよ」
明里の代わりに応じる静かな声。詩織は明里の肩を叩いた。
そんな様子を見た小夏は口元に苦い笑みを作る。
「詩織さんが怒るなんて、そんなに酷い事をしたのかな……。よくないと思うよ明里ちゃん」
「待って待って。やった事よりもずっと重い罪を着せられているような気がするんだけど!」
自分の罪を軽くするべく、明里は慌てて手を振る。
詩織にリラックスをしてほしかった。ただそれだけなのに、なぜここまで非難されなければならないのだろう。確かにやり過ぎたとは自覚している。だが、暴力を振るう必要はなかったのではないか。
じっとりと詩織がこちらに視線を注ぐ。まだ根に持っているのだろうか。明里は詩織の肩に縋った。
「ごめんってば、詩織~!」
「分かった分かった」
詩織は踵を返して、券売機の方へと向かう。
所々にペケのランプが見える券売機。この学園に来るより前は滅多に見る事のなかった箱の前で、明里は詩織と揃って、ボタンとボタンとを比べ見る。
「何選ぶの?」
背後から声が掛かる。明里の手元を覗き見る小夏の目は、好奇心に輝いていた。
「こんなにメニューがあると、迷っちゃうな。どれがオススメ?」
「うーん、どれも美味しいからなぁ。あ、カレーは美味しいよ!」
「カレーかぁ。いいね」
勧められたカレーのボタンに目をやる。幸いな事に、ペケのマークは光っていなかった。明里は揚々と自分のカードを近付ける。桜学園において金銭のやり取りの際に使用する、クレジットカードを機械に読み取らせ、食券を買おうとする。
しかし。
「あれ」
鋭い音が券売機から成り、取り付けられた液晶に文字が映る。
『お金が不足しています。』――無慈悲にもそれは、明里の過去の行いを後悔という形で呼び起こした。
項垂れる明里の肩に温もりが触れる。ぽんと手を置いた詩織は哀れみを滲ませた穏やかな笑みを映す。
「貸すよ」
「ごめんなさい……」
本当に申し訳ない限りである。今後は計画的に金を使おう。
明里はそう心に刻んだ。
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