8話 幡田暁美と地下小夏-2

 ひらひらと白い花弁の降り注ぐ木々の間を通り抜けると、ようやく校舎が見えてきた。

 白寄りの暖色を塗りたくった壁。桜をモチーフにしたらしい装飾と、八時五分を指す時計。城にも似たその外見は、何度見ても美しいものだった。


 整然と並ぶ生徒会役員の挨拶を筆頭に飛び交う言葉達。その中に明里に向けられたものは、一つたりとも見付からない。

 少しばかり寂しくもあったが、入学式を終えた翌日である。時を経れば、いずれは声を掛けてくれる友人も現れるだろう。


 玄関へ入り、爪先の硬いローファーを脱ぎ、自分の靴箱から真新しい上履きを取り出す。代わりに、先程まで履いていたローファーを空洞へ突っ込んだ。

 ふと視線を横にずらすと、幅の広い廊下を真っ二つに裂くように、静かな緑色が置かれていた。

 枯山水と岩と松の敷かれた、伝統的な日本庭園の様式を模した小さな空間――この庭は、兄弟校からの贈り物であるらしい。数年前の改装に合わせて贈与されたという。校舎の雰囲気とはかけ離れた一角ではあったが、どういうわけかほっとする空間だった。


 それを横目に、流れて行く生徒の波に乗って廊下を歩くと、今日の明里にとって関門とも言える長い階段に到達した。

 足踏みをしている間に次々と、軽快な足取りが追い越していく。

 この学校には同い年か、いくつか年上の少女しかいないというのに、ついつい「若いなぁ」とこぼれた。

 それでも、明里は歩くしかなかった。何よりも友人が待っている。静かに見下ろす彼女を巻き込んで遅刻する訳にもいかない。

 降ろすたびに走る痺れに顔を顰めつつ、明里は段を踏み締めた。


「ねえ、明里」


 ふと声が降ってきた。

 踊り場からこちらを見下ろす、澄ました顔。窓からこぼれる光を背負った詩織は、その表情を影の中に落とす。


「昨日の人達、知り合いなの?」

「うん。莉乃ちゃんは私のいとこ――あれ、はとこだったかな? とにかく親戚なんだ。でも、もう一人の方は分からないなぁ。そういえば名前も訊いてなかったよね」


 あの少女――例の犬を殺した張本人かもしれない彼女。

 言葉を交わした仲だというのに、名前すら尋ねていなかった。口ぶりからしても、水谷莉乃の言葉からしても、何かしらの関係にあるようだったが、生憎、この場においては確かめる術はない。


「親戚がいるんだ」

「そうだよ。不思議だよね。莉乃ちゃんがこの学校にいて、お母さんも……あっ、そうそう。実はね、私のお母さんもここ出身なんだよ。私の家系って、能力者の家系なのかな」


 現に明里や明里の母、はとこである水谷莉乃が能力者として、あるいはその予備軍として桜学園へ通っているのである。「能力者の家系」という推測も、あながち間違っていないのかもしれない。


「明里は――そういう家に生まれて嬉しい?」


 思わず目を丸めた。想定外の問いに、明里は言葉を失う。

 考えたこともなかったのだ。しかし、即答できる問いではあった。自分が「成宮」の姓の元に生を受けた気持ちも、その感動も。

 父も母も優しく、親戚や同胞にも恵まれている。金に目立った不自由もなかった。だから「よかった」と胸を張って言える。しかし、それができなかった。目前の少女に、暗く淀んだ瞳に、それをぶつけることはできなかった。


「詩織は嬉しくなかったの? 詩織の――お父さんとお母さんの間に生まれて」

「……それなりに嬉しくはなかった。それよりも、明里はどうなの? まだ答えを聞いていないんだけど」


 その目は悲痛に満ちていた。隠そうとしているのか、口元に作られた笑みが、かえってそれを増幅させる。明里は詩織の顔から視線を外した。


「私は、嬉しかったよ。すごく嬉しかった。お父さんやお母さんが育ててくれたお蔭で、真っ直ぐ育ってきたし、詩織とも出会えたんだから」

 明里はようやく顔を上げる。

「すっごく感謝しているよ」


 詩織はじっとこちらを見下ろしていた。変わらない静かな目。しかしその表情には、もはや痛々しい色は見られない。代わりにどこか照れ臭そうな表情を滲ませている。

 明里はほっと胸を撫で下ろした。


「よーし。それじゃ、さっさと教室へ行こう!」

「明里待ちなんだけど」


 呆れたように言う詩織だったが、彼女の足はゆっくりと、明里に合わせて段を登って行く。

 進むごとに呻く、機械仕掛けの人形のごとき明里。その動きも声も、明里を追い抜く生徒の視線を集めていたが、それは友人の眼中に入っていないようだった。タフな友人は、明里よりも少し進んだ場所で、明里を待ち続けた。


 ようやく辿り着いた一年二組の教室には、ほとんどの生徒が集まっていた。席の埋まり具合を見る限り、どうやら明里達が最後に登校してきたようだ。


 明里たちの属する一年年は、二つのクラスに分けられている。新入生はおよそ半分の十五人ほどに分けられ、それぞれの教室で授業を受けることになる。『能力』が関係している所為か、この学園では少人数の授業体制に徹底しているらしい。

 もちろん、ある程度の人数が必要となる体育や、その他科目は別である。それらの科目ではクラス関係なく、一学年合同で行われるようだ。


「おはよう!」


 そう声をかけると、一瞬、教室は静まり返る。

 驚愕、不信、歓迎――さまざまな視線が一斉に明里を貫いた。時間にして数秒という、ほんの僅かな静寂の後、やがてぽつぽつと声が返ってくる。

 同級生らは、どこか余所余所しくもあったが、すでに「会話ができる人」を作っているようだった。ちらほらと声が行きかっている。大きな声で笑い転げている人もいれば、なごやかに談笑する人もいる。

 一つ一つの人脈が集まり、やがて大きなグループが生成される日も、そう遠くはないだろう。


「それじゃあ、また」


 そう言って、詩織はさっさと自分の席へと向かっていく。明里もまた、自分の席へと歩を進める。

 教卓から見て右列の一番前――教師の髪の毛一本まで見て取れるこの場所は、詩織とも離れてしまう。用があってもすぐに話せないのは少し寂しくもあったが、同時にそれは多くの友人を作るチャンスだった。だが、明里は話し掛けられない。どれもこれも先客がいたり、あるいは自分の用事に精を出している。

 これでは話し掛けられそうにない。明里は、大人しく自分の席に腰を降ろした。


 目的地へ辿り着いた安堵の為か、どっと疲れがあふれてくる。朝は痛みばかりを訴えていた足が、今やそれも鈍くなり、代わりに鉛のように重くなっていた。このまま放置していれば、いずれは疲労も取れるだろう。そうと分かっていながら、ずっしりとした足が気になって仕方がない。明里は慎重に足を揉み始めた。

 不意に肩が叩かれる。振り返った先にはクラスメート――髪を後頭部で一つにまとめた少女がいた。

 姿勢を低く、合掌した手の陰から子犬のような瞳が覗く。彼女は机に張り付かんばかりの低姿勢のまま、口角を持ち上げた。


「マッサージしているところ申し訳ないんだけど、今日、筆記用具とか余分に持っていたりしない?」

「あるよ! ちょっと待ってね」


 明里は急いで鞄の中を探る。そこから拾い上げた筆箱を開け、その中からシャープペンシルと消しゴムを取り出す。

 予備を持っていてよかった。思わず明里の口角が上がった。


 声を掛けてきた少女の名は、幡田暁美はただあけみという。

 近い席を割り振られているためか、入学式以来ぽつぽつと言葉を交わすようになった。外見こそ活発そうではあるものの、その口調も動きも、どこかぼんやりとしている。


「はい、どうぞ」


 要求された品を、それぞれ差し出された手へ乗せる。すると暁美は顔をくしゃりとした。


「ありがとう。いやぁ、実はテストがあるのをすっかり忘れててさ。昨日と全く同じ装備で来ちゃったよ」

「あはは、大丈夫だよ。私もテストの事、すっかり忘れてたから」

「わあ、仲間だね~」


 朗らかな笑みがこぼれる。これほど優しく朗らか雰囲気は久方ぶりだ。

 桜学園を訪れて以来、満面に笑みを浮かべる素直な人とは、多くの接点を持つ事ができなかったのである。鼻につくほど大人しい友人とばかり交流をしていた所為か、暁美の笑みは新鮮なもののように思えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る