9話 幡田暁美と地下小夏-3

「そういえばあかりん、ネックレス着けてるんだね」


 そう暁美は、明里の胸元に目を落とす。不意に現れた「あかりん」という単語を尋ねる間もなく、明里は慌てて自分の胸に手を当てた。


 確かに明里はネックレスを身に着けている。だが、それはきちんと制服の中に入れておいたはずだ。

 その記憶は正しかった。胸に添えた手に冷たく硬い感覚はない。ほっと安堵の息を洩らす明里だったが、目の前の少女はにんまりと、悪戯気に口角を上げて見せた。


「いーけないんだ、いけないんだー! 先生せーんせーに言っちゃおー!」

「それはやめて!」


 これは大切な物なのだ。先生に報告されて没収されでもしたら、目も当てられない。

 慌てる明里。一方の暁美は、憎たらしいほどの笑みを浮かべていた。


「あはは。あかりん、慌て過ぎ! そんなに心配しなくても大丈夫だよ、チクったりしないから」

「それならよかった……。もう、心臓に悪いよ」


 明里は胸を撫で下ろす。にこにこと笑顔を見せる彼女は口の端に満足気な色を映していた。

 首を撫でる優しい視線。彼女はしばらく明里を見つめていたが、やがてネックレスを示すと、


「それだとチェーンが見えちゃうから、もっとちゃんと隠した方がいいかも」

「こう?」


 銀の紐を襟に押し込みつつ、明里は尋ねる。「そうそう」と暁美は手を叩いた。


「ていうか、首に巻かなければいいんじゃない?」


 ふと覚えのない声が聞こえてくる。暁美の隣に座る少女だった。これまで伏せていたのか、頬には布と髪の毛の跡が付いていた。


「あれ。おはよ〜!」


 ひらひらと手を振る暁美に、少女もまた手を揺らして応じる。赤い眼鏡の奥に輝く目が、柔和に細まった。


「え、えっと――」


 明里は戸惑う。誰だったろうか。

 その視線に気付いたのだろう。はっとした様子の彼女は、慌てて手を合わせる。


「ごめんね、話しに割り込んだりして。あ、そうそう――私、地下小夏ぢかこなつ。よろしく」

「シカちゃんは、あたしの友達なんだよ~」


 と口を挟む暁美に、明里は目を瞬かせる。


「シカちゃん?」

「名字が地下でしょう? だからシカちゃん――だよね」


 『シカちゃん』こと地下小夏はうなずく。そしてはにかんだ。頬に残った跡を気にしているのか、小夏の指が自らの頬を撫でる。


「聞いたよ、明里さん。昨日、魔物に襲われたんだって? 大変だったねぇ」

「えっ、どうして知ってるの? 私達が魔物に遭ったって」

「私の情報網を舐めてもらっちゃァ困りますよ」


 誇らしげに彼女は胸を張る。ブレザーの下で、豊満なそれが揺れた。

 口を挟んだ話題の事など、すっかり忘れているのだろう。一転して怪訝な色を見せた彼女は首を捻り、腕を組む。


「それにしても、商店街は封鎖されていたはずなのに、どうして入れたの? 魔物の出現情報もあったし……そもそも出掛けるなんて危険すぎるでしょう」

「えっ、封鎖……情報?」


 明里は急いで記憶を探る。しかし、どこをどう見返しても、封鎖されている様子はなかった。通行を妨げる物も立ち入り禁止の文字列も、どこにも見られなかった。開け放たれた道が、春休みと同様に敷かれていただけである。魔物の出現情報が出されていた、などという事も初耳であった。


「そんなのがあったなんて、知らなかった」

「もしかしてあかりん、タブレット、持ってないの?」


 幡田暁美は、後頭部の尻尾をゆらゆらとさせながら、手に持つ板を振った。


 辞書ほどの大きさの板である。厚みは一センチメートルもないだろうか。暁美が持っているそれは淡いピンク色を基調としたタイプのもので、背面には桜学園の校章が刻まれている。

 そういえば見た事がある。そんな曖昧な記憶こそあれど、タブレットをどこへやったかまでは思い出せなかった。ベッドの上か机の下か、あるいはクローゼットや鞄の中か。

 クラスメート曰く、このタブレット端末には学園組織からの重要な連絡が届くという。その内容には、普段の授業連絡はもちろんの事、魔物の出現や、それに伴った施設や区域の封鎖等の情報も含まれる。


 その説明を聞いて、ぼんやりと思い出してきた。

 入学式の日、ホームルームの最中に、担任の先生が話していた。タブレットには重要な情報が送られて来る。加えて個々の連絡手段にも成り得る。だから、可能な限り携帯しておくように――と。思い返してみれば、タブレットの説明書にも似たような文章があった。

 こうして記憶を探ってみると、様々な場面で注意を喚起されていたのだ。よくもここまで綺麗さっぱりと忘れられたものである。


「タブレット、持ち歩いてないなぁ。すっかり忘れてたよ」


 そう笑うと、暁美は眉尻を持ち上げる。笑い事ではない。そう諫めているかのようだ。


「だめだよ、ちゃんと持っていないと。魔物って、すっごくおっかないんだから」

「それは身に染みて理解しています……」


 明里は小さく肩を揺らす。昨日の恐怖がまだ足元に渦を巻いているようで、気色悪かった。

 椅子を動かし、改めてこちらへ向き直った小夏は椅子に手を付く。そして身を乗り出してきた。上腕に挟まれた胸が、恐ろしい程に強調される。


「暁美ちゃんってば、普段はいろいろ忘れる癖に、それだけはいつでも持ってるよね」

「習慣だもん。ここに来てからずっと世話になってるから」


 その言葉に、明里は目を丸める。

「ここに来てからって――」


 がらり、と扉が開く。それより少し遅れて、チャイムが鳴った。

 硬い靴が床を叩く。賑やかだった教室はやがて声を潜め、生徒達は自分の席へと戻っていく。それを確認した女性は、脇に抱えていた黒い表紙の冊子を教卓に降ろした。一年二組の担任である。


「はいはい。ホームルーム始めるよ」


 そう気怠そうに言うと、担任はぱらりと黒い表紙をめくる。

 昨日の着飾った様相とは一転して、ティーシャツにジーンズという、あまりにも軽い様相で登場した先生は、次々に生徒の名前を読み上げる。その名前と返事をする少女とを目で追いながら、クラスメートの顔と名前を一致させていく。たった十五人のクラスならば、すぐに覚えられるだろう。


 ふと、暁美に貸したシャープペンシルが脳裏を過る。あれには芯を入れてあっただろうか、と。

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