40話 記憶-6
学校戻った頃には十時を大きく過ぎ、十一時と表しても差し支えない時刻になっていた。
校舎はしんと静まり返っていた。普段は煩い程に響く笑声はすっかり鳴りを潜め、自分の足音すら大きく反響して聞こえる。
人っ子一人見当たらない廊下を歩いていた明里だったが、自分の教室にまで差し掛かった時、彼女の足は止まった。
戸の向こうから、先生の解説の声が響いてくる。まだ授業中なのだ。改めてそれを実感した明里は、そっと踵を引く。
「この時間くらいサボっちゃっても怒られないよね……」
誰に確認するともなく呟き、明里はぐっと拳を握る。小さなガッツポーズの末、明里は今しがた通った道を戻って行った。
目指したのは中庭だった。校舎にぐるりと囲まれた広い庭。校庭と見違える程のそれは、昼休みともなると、無邪気に走り回る生徒に溢れ返る。無人の中庭など珍しい。授業を早く切り上げた教師に発見される恐れはあったが、授業を放り出した今となっては、それもどうでもよいことだった。
中庭は一面が青々とした芝生が敷かれ、各所に樹木が植わっている。中央にはさわさわと細やかな飛沫を上げる噴水。そこから四方へ向けて水路が伸びていた。
「水遊びかぁ。小さい頃にしたっきりだなぁ。今度詩織を誘ってみようかな。――ん?」
ふと目を向けた木陰に、緑とは異なる色が見えた。草に埋もれているものの、それは見紛うことなく人の肢体であった。体調が悪く臥せっているのではないか。恐る恐るそれに近寄ると、横たわっていたそれは勢いを付けて上半身を跳ね上げた。
「ひえっ、あ……陽菜先輩?」
「ん、成宮ちゃんか。どーしたの、サボり?」
にっと、その少女は口角を上げる。市松陽菜、学園守護組織ガーディアンズに属する二年生である。
彼女は珍しく髪を解いていた。緩やかなウェーブの掛かる髪が肩を隠し、ツインテールの平生とは異なる大人しい印象を抱かせる。その一方、顔面にはいつも通りの屈託のない、ともすれば凶悪と表し兼ねない笑みが浮かんでいた。
彼女に釣られて持ち上がる口の端を掻きつつ、明里は肩を竦めた。
「サボりって訳じゃないんですけど、実は友達が……ちょっと変になっちゃって」
明里はこれまでの出来事を話した。
何があったのか、どうしてそうなったのか。語るにつれて、胸中に混然と居座っていたモノが列を正していく。あるべき場所へ収まっていく。そうするうちに、当時は抱かなかった感情がふつふつと、
心細く、もの悲しい。そうだというのに、安堵にも似た感情が部屋の隅に蹲っていた。自分でなくてよかった。ひそひそと、そう誰かが囁いている。忌々しい、抱いてはいけない感情。それを必死に押し込めて、明里は前を向いた。
陽菜は険しい表情で自分の髪を結んでいた。慣れていないのだろう、やっとのことで結んだ束はあまりにも貧弱で不格好だ。
「手伝いましょうか?」
「そうしてくれるとありがたい」
陽菜は腕と髪、それぞれに嵌めていたゴムを取ると、明里の手に置く。
飾り一つない濃茶色のゴム。長いこと使われていたのだろう。陽菜の髪留めはすっかり緩み、紐同然だった。何十にも巻かなければ、髪は固定できないだろう。軽くげんなりとしつつ、明里は初めて先輩の髪に触れた。
猫の毛のように柔らかく細い髪。纏めようにも、それはすぐに指の間を通り抜けてしまう。なるほど、これは結ぶに困難しそうだ。
「随分と慣れてるね」
陽菜は笑う。
「友達の髪でも縛ってたの?」
「よくやっていました。それに、私もちょっと前までは髪が長かったので」
「へえ、意外だね」
「陽菜先輩は自分でやらないんですか?」
「いいや、いつも自分でやってるよ。やってるんだけど、一向に上手くなる気配がなくてね。気付いたら誰が直してるんだ」
彼女が生徒会長に付き従うかの如く、彼女にも身の回りの世話をしてくれる人がいるのだろうか。明里は薄ら寒くなる思いだった。もしそうだとしたら、桜学園におけるヒエラルキーは、想像以上に強固として確立されているのかもしれない。
「……あたしもね、聞いたことあるんだ、“暴走”の話」
唐突に陽菜は語り出す。その口調は、懐かしむような気配すら醸していた。
「成宮ちゃんみたいに現場に居合わせた、って訳じゃないんだけど、まあ怖かったよね。一歩間違えれば――いや、今だって、ああなる可能性はあるんだから」
彼女はじっと、彼女の手を見つめる。
魔物を蹂躙し、仲間を守る手。ふっくらとした紅葉のような手の平でありながらも、それはどこか心強い。彼女はぐっと拳を作った。
「自分が能力者ってことで得したことはあるけど、損……デメリットもあるんだよね。“暴走”なんて、その代表みたいなモンだろう? 全く、嫌になっちゃうよね。どーして神様は、こんな力を与えたんだろうね」
そう吐く彼女の目は、自嘲を滲ませていた。人智を超えた力、それを持ってしまった自分を、漠然と責め立てている。
いつもは弱音の一つも漏らさない気丈な陽菜であっても、不安に胸を掻き乱すこともあるのだ。思わぬ収穫に明里はついつい微笑んだ。
髪をいつものように束ね終えると、陽菜は確認でもするかのように、そっと自らの髪に触れた。根元から毛先へ、ツとなぞってから、
「お。綺麗に結べてんじゃん。ありがとう」
「どういたしまして」
陽菜は満足気だった。頭の両端で揺れる束を何度も撫でつけ、その調子を確かめる。
どうやら納得したらしい。彼女は面を上げて、校舎の壁に埋まった大きな時計に目を向ける。授業の終了までには、まだいくらか猶予がある。
「最近どうよ、みんなの様子は」
「みんな?」
「ガーディアンズのみんな。ほら、あたし、最近顔を出していないから。二年はともかく、他の人は見かけないんだよねー」
生徒会役員内で勃発した下剋上事件以降、陽菜は、その被害者とも言える生徒会長に付き添ってばかりいる。さすがに授業中は護衛できないからと、こうして暇を持て余しているようだ。
明里は陽菜の傍に腰を降ろす。隣人の姿勢を真似て膝を伸ばすと、
「友芽先輩も春佳先輩も元気そうですよ。最近魔物が出て来ない所為で、少し退屈そうですが」
「ああ、そういえば見かけないね、魔物。そっちが即行で倒してたって訳じゃなかったんだ」
「陽菜先輩が倒して……もないみたいですね。じゃあ、本当にいないんだ」
この学園にとって害虫とも言うべき人外。ガーディアンズの狩猟対象である魔物は、いつしかぱったりと姿を見せなくなった。
生徒の健全なる活動を邪魔する鬱陶しい存在であったが、いざ見掛けなくなると、それはそれで不安を煽る。我々の目の届かぬ場所で悪事を働いているのではないか――そのような想像が浮かんで止まないのだ。
「まあ、出て来ないなら出て来ないで平和なんだけどね。……ああ、そっか。ひょっとしたら、もう全滅したのかも」
その可能性もある。どこからともなく現れる魔物が、本当にどこからともなく、自然発生的に出現するのでなければ、完全には否定できない推測だ。だが、そうと決めつけるには証拠に欠けている。
熱を持ち始める頭を明里は叩く。そして軽く笑った。
「魔物のことを考えると、頭、痛くなりますね」
「だね。頭脳労働は別の人に任せないと、すぐにへばっちゃう」
「頭脳労働も肉体労働もどちらもできない私なんかより、ずっといいじゃないですか」
「ははは。まあ、成宮ちゃんよりは役に立っているだろうね、戦力としては。でも、成宮ちゃんがいてくれてよかったなぁとは思うよ。魔物はすばしっこいからねぇ。足止め役がいないと、本当に時間が掛かるんだよねー」
あたし、足はあまり速くないんだ。陽菜は、そうはにかんだ。
「さーて、そろそろ行かないとだね。授業、終わるよ」
空を仰ぎ、身体を伸ばす。彼女の言った通り、間もなくしてチャイムが鳴った。絡み付いていた静寂が解け、柔らかい空気が帰ってくる。窓に授業を終えたらしい教師や生徒の影が現れ始めた。
「先輩、またサボる気ですか?」
「バレた? へへ、最近授業に付いて行けなくてねぇ。どうにも出る気になれないんだ」
「それ、サボってるからじゃないですか?」
「かもね。何て言うんだっけ、これ。
「かっこいい!」
陽菜の足は、教室棟とは全く反対側を見ていた。宣言通り出席しないつもりらしい。このままでは、ますます授業に置いて行かれそうだ。少女が無事卒業出来るのか、かなり心配だった。
「あ、そうだ」
陽菜は足を止める。こちらを顧みた彼女は口角を上げ。
「今日も集会所には行けないから、代わりに伝えておいてほしいんだけど――」
その表情はまるで、スクープを目の当たりにした新聞記者のようだった。
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