32話 図書守と-4

 幡田暁美と地下小夏。桜学園へ入学して以来、交友を持った人物だ。だがつい先日地下小夏は自ら命を絶ち、それ以降、幡田暁美は姿を見せなくなった。


 戸を叩いても返事はなく、学校にも顔を出さない。時折、食事の席に現れたとの噂も聞くため、親友の後を追ってはいないようだったが、いつ実行へ踏み切るか、気が気でない。


 ほんの一瞬、ほんの一度でいいから、顔を見せてほしい。そうは思いつつも、明里は未だに閉ざされた戸を壊せずにいた。


 どうしたら暁美は、もう一度外に出てくれるだろう。


 親友を失った傷は、そう容易く癒せるものではない。仮に明里が親友を――霧生詩織を喪ったとしたら、引き籠りたくもなる。出会って二、三ヶ月とはいえ、毎日同じ屋根の下で暮らしていたら情も移る。


 明里ですらその状態なのに、数年の付き合いであるという友人と引き裂かれた少女の痛みは計り知れない。


「明日、日のあるうちに出直したら?」


 友人の提案は的確だった。現在は夜、夕食と湯浴みを終え、残すイベントは睡眠のみとなった夜である。人によっては、もうベッドに入っている人もいるだろう。


「そうだね。そうしよっかな」


 明里は頷いた。


 詩織はいつでも冷静に助言をしてくれる。明里が見ていない隅々まで観察し、判決を下す。彼女の目は重宝に値する。


 もしも彼女が『能力』に目覚めていたら、迷う暇なく学園守護組織ガーディアンズに誘い入れただろう。いや、できることならば、『能力』を開花させていない今でも仲間に加えたい。詩織ならばきっと役に立つはずだ。烏合の衆も同然の少女等の監視塔、あるいは司令塔にも成り得る人材である。


「あーあ、詩織が欲しいなー」


「誤解され兼ねない言い方、やめよう?」


「誤解って? どこが?」


「…………。省略しないで、ちゃんと必要な言葉を補いましょうねって話です」


「ガーディアンズに詩織が欲しい」


「よろしい」


 霧生詩織が秘める『能力』。それについては、これまでに想像したこともなければ、彼女自身と話し合ったこともない。彼女はどのような『能力』を求めているのか――皆目見当も付かない。


「詩織、『能力』が何か分かったら、ちゃんとガーディアンズに来てね! 予約したからね!」


「はいはい」


 自室に戻って来ると、嗅ぎ慣れた香りが肺を満たす。いつ嗅いでも安心できる香だ。


 どっと溢れる疲労に、明里はそのままベッドへと腰を降ろした。勢いよく飛び降りても、布団は優しく受け止めてくれる。相変わらず学園支給の布団は心地よい。


「今日も疲れた、疲れた! 頭脳労働は疲れるね」


「頭脳……?」


 明里は襟を扇ぐ。風呂に入った後から付き纏っていた熱が、空気に触れる度に引いて行った。


「明里、いつもそれを着ているけど……何なの?」


「え、これ?」


 暗い目がなぞる、自身の服。明里はくいとそれを引っ張った。


 黄色の布地に、四肢の先端を染める茶色。明里の胸に当たる位置には、にっこりと純粋無垢に微笑む顔のマークがついていた。寝間着の中でもお気に入りに分類されるこれを詩織の目前に晒してから早数ヶ月、ようやく訊く気になったのかと、明里は自らの服をひけらかした。


「これはね、『バナナ症太郎』っていうんだよ」


「バナナ?」


「そうそう。でも、実際はバナナじゃなくて人間なの」


「に、人間がバナナに変装した姿を明里が着ているの?」


「えっとね、バナナが好きな男の人が、バナナが好き過ぎるあまりバナナになっちゃったんだ」


 詩織は怪訝そうな顔をする。まるで駅のホームに落ちていたマグロを目にしたかのような困惑ぶりである。


 そんなに気味悪がらなくてもいいのに。明里は唇を突き出した。


「……明里の趣味って、本当に変わっているよね」


「そうかな? 普通だと思うけど」


「一度、『普通』の意味を調べておいで」


「ひどい! そんなに馬鹿だと思ってるの? 『普通』くらい、ちゃんと意味知ってるもん!」


「……どうかなぁ」


 憤る明里の一方、友人は愉快そうな表情を浮かべる。


「その『知ってる』は本当に知ってるのかな?」


「また揚げ足みたいなこと言って! バナナビーム食らわせてやる!」


「バリア」


「うわっ、ずるい!」


 再び明里はバナナビームを打つべく両手を突き出した。しかし詩織のバリア――胸の前で交差した腕は、一向に解かれる様子はない。ならばと背後に回り込むと、相手もまた身を翻してそれに応じる。


 人類とバナナとの饗宴は、隣室の少女が苦情を言いに来るまで続いた。


   □   □


 暗い。もっと明るくならないだろうか。そう思った瞬間に視界は開け、見慣れた教室が照らし出される。


 一年二組。総勢十五名、現十四名が椅子を並べて、共に授業を受けているクラスルーム。


 平生と異なる点と言えば、窓ガラスが間抜け面を映す鏡に置き代わっている点と、教卓に小さな白い鳥が留まっている点だけだった。他は何一つ変化ない。秒針は時を刻み、小綺麗な机も椅子も、寸分違わず昼間と同じ位置に据えられている。


「おはよう」


 爽やかな声が響いてくる。鼓膜を介さず、直接脳に語りかけてくるような音だ。明らかに自身が発したものではないが、他に声を発するような者もない。


 だが挨拶をされたのだ。それに返さずにいるのも悪いと、すぐさま「おはよう」と言葉を紡いだ。一体何が語りかけてきたのか――右へ左へ、視線を動かす。


「好きなんだね。アタシも好きだよ、学校」


 少しだけ焦れたような声だった。その質は、先程挨拶を投げ掛けたものと似ている。存在を知らしめるように、教卓の上にある白い鳥が羽根を大きく動かした。


「ぬいぐるみなのに、学校が好きなの?」


「ぬいぐるみであろうとなかろうと、好きなものは好きだよ」


 白い鳥の体毛がもくもくと膨張する。元のサイズと比べると二倍程の大きさになったそれは、軽く押すだけでも転がってしまいそうだ。


 毛玉と称するに相応しい容貌は気に食わなかったのか、鳥は、体格にしては短い翼を啄む。白い毛が、ふわりと宙を舞った。


「ところで――そうだ、こんなことをしている場合じゃなかった。あなたのお友達は元気?」


「元気だよ、みんな元気。シカちゃんは?」


「うん? ……ああ。元気、元気」


 ぐるぐると首を回転させるそれは、黄金に輝く目で何かを追い続ける。その目は教室の中央に立つ自分を追っていた。感覚の同調は続く。


 背景が回転する中でただ一人、見慣れた顔だけがぼうっと突っ立っている。


 外跳ねの目立つ毛先に満面の笑み。それをどれだけの間眺めていただろう。吐き気にも似た浮遊感と共に、白い鳥が視界に戻って来た。


「あとね、ついでに言うとね、今のアタシはトリだよ」


「改名したんだね」


 景色が流れていく。


 桜学園の商店街の中に自分の家が現れ、畳張りの茶の間では父と母、弟が、桜学園のマスコットキャラクターが映るテレビ画面をにこやかに眺めている。こちらに気付く様子はない。やがて壁が消え、身体はぐるぐると光の帯を登り始めた。


「高いなぁ。ここから落ちたら飛べそう」


「やってみる?」


「嫌だよ。下に水があるもん」


 鳥は毛の塊のような羽根を動かす。そっとそれに手を伸ばすが、予想していたような感触は得られなかった。ただ何となく「そこにある」と分かるばかりで、柔らかくも温かくもない。


「あのね、こんなのを触っても楽しくないと思うよ。どうせ分からないでしょ」


「ふわふわじゃないの、つまんない」


「悪いけど、『ふわふわ』はアタシには適応されないからね。あくまでこれは、アタシの意志に沿って描かれているのであって――」


「えへへ、もふもふしないー」


 鳥が文句ありげに口を動かす。しかしそれは何を発することなく首を振った。


「今日はここまで」


 顔はこちらに向けたまま、鳥は器用に後退を始める。その姿が小さくなっていく。光の帯は遠退き、世界は次第に闇へと飲まれていく。


 白い鳥がどこかへ行ってしまう。消えてしまう。妙な焦りが心臓を騒めかせた。


「どこに行くの? そっちは違うよ」


「あの子のこと、よろしくね。何をやらかすか、分かったモンじゃないから」


 景色が跳ね上がる。暗くなり、闇に包まれ、何一つなくなった。


 思考も視界もない。ただ怠惰への強い欲求が、明るくなりゆく視界を手繰ろうとするだけだった。

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