37話 記憶-3

「彼女ならいないよ」


 声は淡々と事実を告げる。発したのは明里ではなかった。友人、霧生詩織がその責務を負ったのである。


「詩織……なんで……」


「出て行く所が見えたから追って来ちゃった」


 ちゃった、とどこかおちゃらけた口調だったが、それには感情がない。少女は機械的だった。まるで感ずる心を全て圧殺したと、そう言わんばかりだった。


「――本当に、何も覚えてないの」


 暁美は応じなかった。ぽかんと口を開けて、団栗眼を瞬いてる。あまりの衝撃に、声も出ないのだろうか。明里は噛み締めた奥歯を解放して、喉を濡らす。


「ショックかもしれないけど、詩織の言っていることは本当なの。……ごめん、秘密にしてた訳じゃなくて、その……」


 声は聞こえない。息遣いも耳に入ってこない。押し殺したような気配だけが、ひしひしと肌を這う。


 互いに言葉を発することなく、時間だけが過ぎていく。次に何を言うべきか。言葉を求めて、明里の口はもぞもぞと動き始める。しかし、尤もらしい慰めもお悔やみも、何一つとして出て来なかった。


 ちらり、と視線を送った先、詩織は暁美の反応を見詰めていた。綺麗な横顔は、変わらずの無。また甘えてしまった。明里は拳を更に固める。


 突然、笑い声が聞こえてきた。


 暁美が肩を震わせていた。目元を歪ませ、その奥には冷え切った軽蔑の光を湛えている。


「やめてくれないかな、そういうの。洒落にならないよ」


「ちっ、違う。冗談なんかじゃ――」


「じゃあ、いないって何。どういうこと。シカちゃんはどこに行ったって言うの。シカちゃんがあたしに何も言わずに消えるなんてありえない。馬鹿にしないで!」


 頑として言い切る暁美に、明里は口ごもる。視線が下がっていく。それを掬い上げるように、彼女は強く机を叩いた。


「はっきり言ってよ! どうして何も教えてくれないの。シカちゃんはどこ。今何をしているの」


 強く責めたてるような口調の一方で、暁美の眼光は弱々しかった。


 それも当然であろう。今の暁美にとって、明里は情報源なのである。暁美の「空白の一ヶ月」を、親友がいかにして過ごしたのかを知るための、唯一の手掛かりと言ってもよい。しかし、それは明里には知る由もない。すでに活動を止めた人物など、観察のしようがないのだ。


 明里は下唇を噛む。変わり果てた友人の目に、明里の中のざわめきが一段と強くなった。


「教えてあげようか」


「うるさい!」


 詩織の助け船を、暁美は一蹴する。


「私はあかりんに訊いてるの! もじもじもじもじ……そうやって詩織さんの後ろに隠れて。話してくれるんじゃなかったの? そのためにここに来たんじゃないの?」


 じっとその目が見詰めてくる。


「ねえ、教えてよ。あかりん……」


 今度はそれから目を離さなかった。縋るような瞳。雨に濡れ、震える子犬のような瞳。それをじっと捉え、明里は声を絞り出す。


「シカちゃんは、死んだの」


 それさえ出してしまえば、後の情報はもはや事務的であった。


 地下小夏の死体が発見された五月十日以降、何があったのか。とはいえ、明里が友人に伝えられた情報は、ほんの僅かだった。地下小夏関連の情報が開示されていないことも然る事ながら、そもそも事件の大半が今尚謎に包まれている。


 爪先程の小さな足跡。それをいざ口に出してみると、これまでの葛藤は何だったのかと脱力する程に呆気なかった。


「シカちゃんが、死んだって?」


 暁美の顔は凍り付いていた。開かれた目の中に、じわじわと、拭いようのない闇が広がる。


「嘘だ、そんなこと」


 頭を抱え、少女は身体を丸める。


「嘘だ……」


 背が波を打つ。嗚咽が洩れ始める。明里にはそれを慰めることができなかった。ただじっと、涙を流す少女を見詰める。その胸中は罪悪感と困惑に満ちていた。暁美に何が起こっているのか、まるで理解できなかったのである。


 彼女はタイムスリップをしたと言っていた。しかしそれはあり得ない。常識に基づいて考えるならば、時を遡ることは不可能なのだ。だが事実、暁美は忘れようがない事柄――親友の死を知らなかった。覚えていなかった。


 暁美ちゃん。そう呼びかけようとした直後、少女は勢いよく、意を決したように顔を上げる。それは先程までとは打って変わって激しい怒りに、憎悪に燃え盛っていた。



「あの笛だ。あの笛の所為で、シカちゃんはおかしくなったんだ!」


 笛、と言われて、明里の脳裏には記憶が蘇る。故地下小夏が発見される昨晩のこと、明里は確かに自らの笛の音を聞かせたのである。悪夢に悩まされているという少女に安眠を授けるべく、子守歌を奏でた。それは紛れもない事実だ。


「全部あかりんが悪いんじゃないか! あかりんが笛を聞かせなければ、シカちゃんは死なずに済んだ。それなのに、余計なことをするから――」


 言葉も視線も、明里の身体を硬直させるには十分過ぎるものだった。


 どうして。そればかりがぐるぐると脳を駆け巡る。明里の『能力』は人には無害であった筈である。幾度となくガーディアンズの面々に聞かせても、一つとして悪影響はなかった。それを聞いて苦悶するのは、魔物のみである。


 笛の音と少女の死。それに因果関係があるかすら不明の現状で、なぜ叱責されているのか。身に覚えがない筈なのに、明里の身体はみるみる内に強張っていく。


「もう少しすれば、そんなものを見なくなったのに。あとちょっとの所で邪魔するから、シカちゃんがおかしくなったんだ」


「あとちょっとって――」


 暁美は明里の問いに応えることなく、ぐっと唇を噛みしめる。オオカミのようだ。敵意を剥き出しにした、縄張りを争うリーダーのごとき表情。それを以って明里を睨みつけると、彼女は勢いよく立ち上がった。少女の後ろで椅子が倒れる。鞄を掻っ攫い、踵を返した。


「ま、待って、暁美ちゃん!」


 明里は急いで彼女の服を掴む。


「覚えてるの? ねえ、小夏ちゃんがいなくなる前のこと!」


「覚えてるも何も……だって、見てたもん」


 険しかった暁美の顔に困惑が過る。だがそれをすぐに引き締めると、


「……あたしは、悪夢を見た後に『能力』の開花を知った。だからもう少し待てば、シカちゃんもきっと悪夢も見なくなって、シカちゃんの『能力』が何なのかも知ることができた。だけどあかりんが、その笛が邪魔をした」


 再び思い出されるのは、あの晩だった。生きた地下小夏との最後の会談、あの時、幡田暁美は語っていたのだ。自身の『能力』がどのようにして目覚めたのか、その経緯を。少女が言うには、『能力』が開花する前兆として、悪夢を見るのだとか。


 しかし明里は、彼女の論に賛同を示すことができなかった。明里自身が『能力』と対面するにあたって、「悪夢を見る」などといった予兆を体験することはなかったのだ。


 悪夢の体験は、開花一般に影響する訳ではなく、おそらく個人差があるのだろう。あるいは因果関係上にあると錯覚しているか。それを指摘しようにも、暁美は自らの経験と、それに基づいた論に固執しているようで、とても明里の声に耳を傾ける気配はない。


「人殺し」


 明里の身体から空気が抜けて行く。手から零れ落ちた少女の服を、再度掴む気も起きない。


 自分が地下小夏を――友人を殺した。違う。殺していない。そう言い聞かせても、頭ではそう分かっていても、自らの『能力』が、「自分を殺しる」力が他人に作用しないとも限らないのである。無意識の下、殺害に関与していたとしたらお手上げだ。


 項垂れる明里の視界で、見慣れた上履きが踵を返す。遠ざかる。そうかと思えば、「あれ」とやけに気の抜けた声が聞こえてきた。


 恐る恐る顔を上げると、そこには、どこか遠くを見詰める暁美の姿があった。彼女の視線を追っても何があるという訳ではない。ただただ静かな空間が広がっているだけである。


 暁美は尾を揺らし、右へ左へ顔を向ける。そしてようやく明里、詩織に目を遣った。


「二人とも、何やってるの?」

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