38話 記憶-4
「二人とも、何やってるの?」
明里は目を丸くする。それを真似するかのように、暁美もまた目蓋を持ち上げた。
「どうしたの? 変なこと言った?」
「へ、変だよ! さっきまで私達、話しを――」
「話し……どうして? というか、ここ、食堂だよね。どうしてこんな所にいるの?」
早く教室に行こうよ、と暁美は明里の手を取る。薄ら寒い予感が、明里の中に湧き立つ。明里は引っ張られる腕に抵抗すると、尾を揺らす背を目掛けてて叫ぶ。
「暁美ちゃん、今日は何日?」
「え。何、急に」
暁美は足を止め、思案顔を作る。先刻の激高を彷彿とさせる険しい表情だった。
「えっと、確か四月の……この前入学式だったから、中旬くらい? 十九日?」
明里は愕然とした。彼女が口にする日にちが、離れつつあったのだ。
先程までは、少なくとも明里が地下小夏に笛を聞かせた日――つまり、五月十日の前日までを記憶していた。だが現在の彼女の回答は、それよりも一ヶ月近く前の日付けだった。
「……これ、研究所に連れて行った方がいいかもね」
そう詩織が呟く。明里は思わず「えっ」と声を洩らした。
「研究所? 研究所って、あの?」
桜学園の置かれた山の麓に位置する異能力研究所。あそこで明里達は、『能力』の恐ろしさを聞かされ、人知を超えた力を持つ者としての心得を学んだ。
「何しに行くの? それより、先生に言った方がいいんじゃ……」
「一刻を争う可能性がある。だから、先生に伝えるより直接連れて行った方がいいと思う」
「そんなに危ないの?」
腕を掴んだままの暁美が、不安そうに俯く。明里はその手を握り返して、友人を見据えた。
「なら、私行ってくる」
「うん。先生には私から伝えておくから。……お金ある?」
「ちょっとだけ! 往復分なら足りると思う!」
「そっか」
目元を和ませ、詩織は手を挙げる。明里もそれに応じた。
「何かあったら連絡するね」
「うん、待ってる」
明里は友人の手を引いて、食堂を後にする。残された友人に深い笑みが映っているとは、まるで察知することもできなかった。
□ □
運のよいことに、桜学園敷地内に設けられた停留所には、すでにバスが停まっていた。だが、天が味方する
不安を感じる余裕すら、明里は手放しつつあった。「知らない人に連れられている」という暁美の現状を、いかに刺激せずに伝えるか。それが眼前の課題だった。
やっとのことで辿り着いた研究所。数ヶ月振りとなるそこは、まるで時の流れから切り離されているかのように変化がない。
相変わらず病院みたいだね、そう傍らの少女に語り掛けようとした所で、明里は踏み留まる。冷たい寂寥が、胸中を吹き抜けた。
受付に用事を告げ、目的の人を呼び出してもらう。しかし五分経っても、その人は現れなかった。まさかどこかで倒れているのではなかろうか。不健康そうな男のことだ、そのような事態になっていても、おかしくはない。
もう一度受付に話を聞こうと思ったその時、慌ただしい足音が辺りに反響した。
「ごめんね、遅くなって」
弾んだ息が、そう呼び掛ける。男は白衣に腕を通しながら、一段一段踏み締めるように階段を降りていた。
「お待たせ。どうしたんですか、二人共。もしかしてサボりかな? いいと思うよ。最近の子は真面目だからね。もっと遊んだって……」
「ち、違います。遊びに来たんじゃなくて、実は――」
明里は事の顚末を語った。出来る限り詳しく、事実と違えないよう慎重に。その間、並木は驚くどころか納得した様子で、明里の話に聞き入っていた。
「そうか、もうそんなに。大変だったろう。ありがとう、連れて来てくれて」
「あの……暁美ちゃんに、何が起こっているんですか?」
「そうだね。“暴走”と少し似ているかな。……もう少し話を聞かせてもらえる?」
明里は頷いた。
それを見届けた並木は手招きと共に、降りて来たばかりの階段を戻って行く。明里は、不安げな暁美の手を引きながら、その背を追った。
導かれたのは、研究所二階に設けられた一室だった。子供の落書きのような絵に飾られた廊下、その奥にある古めかしい扉。戸の横には「並木修一」と書かれたプレートが掲げられていた。
並木は蝶番を軋ませて戸を開く。しかしすぐにあっと声を上げると、
「ごめん、ちょっと待ってて」
彼の部屋は、お世辞にも綺麗とは言い難かった。明里が暮らす部屋の半分程の空間に、机と棚、ダンボール、さらには色褪せた本や雑誌が大量に詰め込まれているのである。淀んだ空気には
積み上げた本に躓きながら、彼はやっとのことで窓にまで辿り着く。カーテンを開け、窓を押し開いた。
さっと流れ込む潮の香り。纏わりつくような空気が塗り替えられていく。外気と光が入るだけで、部屋の雰囲気は一変した。
並木は慌ただしく動き回り、散らかった物々を片付けていく。書物は机へ積み、衣服は椅子に掛ける。明里や暁美が座るだけのスペースを確保すると、安堵の表情を露わにした。
「ごめんね、待たせちゃって。あまり綺麗じゃないけど、どうぞ」
招かれるままに、明里はソファーへと腰を降ろす。
合成革ゆえの弊害か、ソファーの表皮にはヒビが入っていた。体重を掛けるだけで広がり兼ねない。重心の置き場に困っていると、暁美の尻が容赦なく黒革を押し潰した。ピリ、と破ける音がどこからか聞こえてきた。
並木はというと、オフィス机に積まれたファイルを崩していた。先程積んだばかりの本もろとも床へ落とし、何かを探っている。汚部屋となる所以が判明したような気がした。
「ええっと……幡田暁美さん、でいいんだよね。で、あなたは――」
「成宮明里です。暁美ちゃんとは同級生で……」
ふむ、とその人は椅子を引き出す。物置の如き部屋には似つかわしくない、高級然とした椅子。それを腰下の位置に据えて、男はじっとこちらを見つめていた。その間も下りつつある腰は、やがて座標を見誤ったらしい。尻が淵を滑り、床と衝突を果たした。
だが、そうなっても尚、並木の視線が外れることはない。そこまで食い入る要素があるだろうか。明里の首が傾いていく中、彼はポンと膝を叩いた。
「ああ、あの綺麗な子か。いやぁ、会えてよかった。制御訓練は順調?」
「はい、先輩に教えてもらって……。い、いや、それより暁美ちゃんは? 大丈夫なんですか?」
「正直に言うと、大丈夫じゃないかな」
並木は改めて椅子に座り直すと、ファイルを手にする。「能力者カルテ」――青い表紙には、そう書かれていた。
「そんなに悪いんですか?」
「最悪とまではいかないものの、多少はね。どう表現するべきかな。……そう、傾斜に車の玩具を置いた感じだ!」
「えっと……?」
「つまり、“暴走”への向かい始め。そう言えば伝わるかな?」
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