36話 記憶-2
「あ、暁美ちゃん?」
明里は立ち上がり、それに駆け寄る。明里の姿に気付いたのか、暁美は大きく手を振って迎えてくれた。
「本当に来てくれたんだね、嬉しい!」
「いやぁ、心配を掛けちゃったみたいだね。なんだか随分と長い間眠ってたみたいで……びっくりしちゃった」
今にも溶け出してしまいそうに破顔する暁美。その表情は以前とまるで変わりない。安堵すると同時に、明里は妙な違和感を覚えた。
「眠ってた?」
「うん。笑っちゃうでしょう? 身体中ガッチガチだよ。部屋のカレンダーは五月だけど、タブレットには六月ってあるし、みんな衣替えしてるし、またタイムスリップでもしちゃったのかな」
暁美はケラケラと、大それた問題でもないように笑っていた。当の本人は他人事のように捉えているというのに、他人の明里は、まるで自分の身に起こったかのような混乱の中にいた。
暁美がタイムスリップなどありえない。明里と同じ時を刻んでいる筈なのだ。いくら能力者――ヒトを超えた力を持つことを許された者とはいえ、太古より続く時空の
「そういえば、シカちゃんを見なかった? 朝からずっといないの」
明里の目が丸くなる。
シカちゃん、もとい地下小夏。暁美が探し求めるその少女は、もう二度と、彼女の前に現れることはない。それは、暁美自身も知っている筈である。親友との永遠の離別を悟って、部屋に閉じ籠ったのだから。
それなのに目前の少女は、まるで親友の死そのものが丸々と消えてしまったかのように平然としている。
「もう。シカちゃんってば、どこで道草を食っているんだか。あたしには遅刻するなっていつも言うくせにさ」
暁美は下唇を突き出す。冗談を言っているようには見えなかった。
「あかりんだってそう思うよねぇ。シカちゃん、酷いよねぇ」
へにゃりとする彼女は明里の横を通り過ぎる。気取った様子もなく、ただただ自然体のまま。
明里の胸中は
どうすればいい。何が正しい。
明里の目は、自然と友人に助けを求めていた。霧生詩織――誰よりも冷静で誰よりも賢い助言者である彼女。それはじっと暁美の姿を追うばかりで、こちらには気付きもしない。
感情を押し殺した瞳、そこには夜よりも暗い黒が沈んでいる。そのぞっとする程に沈着とした眼差しに、明里の強張りが解かれていくように感じた。
「暁美ちゃん」
明里は、たった今自分の席に着こうとしていた友人を呼び止める。明里の席の一つ後ろ。かつて芯の入っていないシャープペンシルを貸し出した席。その場所で振り返る彼女は、ことりと小首を傾げた。
「なぁに、あかりん」
「お話ししない? 食堂にでも行ってさ」
「あーっ、悪い子だ。授業サボる気でしょう。いいよ、乗った!」
机の横に掛けた鞄を掬い上げ、暁美は揚々と足踏みをする。明里もまた、急いで自分の荷物を纏めると教室を出た。
どうするべきなのか、正解が分からない。模範解答が見当たらない。だが、仮に明里が真実を話さずにいたとして、いずれは彼女も知ることになるのだろう。親友の不在と広がりつつある噂を。そう考えてみると、暁美にとっては事実を早く知るか遅く知るかの違いでしかない。その筈だ。
純粋に、理性的に思考するならば、たったそれだけの差なのだ。
明里はただ、怖かったのである。
□ □
対談の場として設定した食堂はガランとしていた。昼食時には煩い程聞こえる食器同士のぶつかる音や、溌剌としたおばさんの声もない。無論、キャッキャと笑声を挙げる生徒の姿も見当たらなかった。
誰一人、音一つとしてない広々とした空間は、まるで異世界のようだ。
「静かな食堂なんて珍しいねぇ。なんだかワクワクしちゃう!」
「そうだね」
暁美は窓際の適当な席に鞄を置く。明里もまた、向かいの席に腰を掛けた。
空虚とした場に日の光が降り注ぐ。それは異様でありながら、穏やかで落ち着いた雰囲気を醸している。その中で、暁美は物珍し気に窓外を眺めていた。キラキラと曇りなく輝く瞳に、葉を茂らせた木々が映り込む。その目に真実を打ち明けることは、どうしても気が引けた。
「桜、もう散ってたんだね。気付かなかったよ」
「六月だからね。春はとっくに過ぎちゃったよ」
そう言うと、暁美は形容し難い表情を浮かべる。居心地が悪いのか、それとも意図しない形で時の進行を実感したのか、顰められた眉からは不快が読み取れた。
「そっか、六月なんだよね。一ヶ月消えちゃうなんて……こんなに長いのは初めてだよ」
「前にもこんなことがあったの?」
「うん、何度か。気付いたら日にちが過ぎててね、とうとう時を駆けちゃったかって、びっくりしたものだよ。だけど……いつ体験しても、やっぱりショックだね」
暁美は肩を竦める。しかしすぐにその表情を晴れさせると、
「ところで、何か面白いことはあった? シカちゃんは病気、してなかった?」
声が絡まる。明里は胸が締め付けられる思いだった。一体どうするべきか。一度は始末を付けた筈の決意が、再び揺らぎ始めた。
これほど重要な役割を、自分が背負う必要はないのではないか。先生や、別の立場にある大人が伝えるべきでは。自分には重すぎる。あまりにも、あまりにも――。
拳が石のように硬くなる。ギリギリと、手の平に爪が食い込む。だが、明里は知っている。答えを求めて彷徨う苦しみを。答えがあっても、それに届かない悲嘆を。
分からない。
分からない。
伝えたい。でも伝えたくない。
明里は奥歯を噛み締めていた。
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