18話 悪夢-2

 放課後、成宮明里は友人の部屋を訪れていた。


 歓迎する幡田暁美の一方、そのルームメートは、まるで明里の訪問に気付いていないかのように、じっと足元を見つめていた。ベッドに座り込み、心細げに膝を抱える少女。その目元には暗い隈が滲んでいた。


 やっとのことで捻出した僅かな金で用意した菓子や飲み物を広げる余裕も、彼女にはなさそうだった。持参した紙袋を壁際に下ろし、明里はベッドに近付いた。


「小夏ちゃん、大丈夫?」

「ああ、明里ちゃん……来てたんだ。ありがと、大丈夫だよ」


 そう微笑む地下小夏。その表情はどこか弱々しかった。


「いつから寝てないの?」

「覚えてない。でも確か、“暴走”の話を聞いた日に変な夢を見て、それから何度も……。どのくらい寝てないんだろう」


 張りのない声はもぞもぞと小夏の身体を揺らす。眠いのだろうか、彼女の瞼は降りることを望んでいるようだった。


「眠いなら寝た方がいいんじゃ……」

「寝たくない」

「どうして?」


 小夏は応じない。代わりに暁美が笑って、


「シカちゃん、怖い夢を見るから寝たくないんだってさ」


 まるで子供のようだと顔を歪める暁美だったが、その表情は苦しげだった。


 怖い夢を見るから寝たくない――それは、高校生にもなった少女が口にするには、あまりにも幼稚な理由だった。だが、当の本人は至って真剣のようだ。自らの手の甲を抓り、必死に眠気を押し殺している。

 それが哀れで仕方ない。何かできることはないだろうか。


「どんな夢を見るの?」

「闇が迫ってくるの。暗くて深くて、変に温かいやつ。近付いて、私の足を掴んで、だんだん上がってきて……最後には全部、飲み込まれちゃうの」


 小夏は言う。そして重々しい溜息をもらした。


「ごめんね、こんな事に巻き込んで。私の問題なのに」

「大丈夫だよぉ。同族のよしみなんだから、支え合っていこう」


 ね、と暁美が同意を求めてくる。明里もそれに応じた。


「そうだよ。困った時はお互い様でしょ?」

「……ありがとう、二人共」


 ようやく小夏は口角を上げる。以前と変わらない優しげな表情に、明里はほっと胸を撫で下ろした。

 多少の気晴らしになったのだろうか。抱えていた足を解放した小夏は、ぶらぶらと足を揺らす。床すれすれにまで垂れ下がった布が、小さな衣擦れの音を立てる。


 しばらくそうしていた彼女だったが、やがてふと顔を持ち上げた。


「あーちゃんも、こういう事あったんだよね」

「あったっけ?」


 暁美は首を傾げる。それに小夏は苦い笑みを浮かべた。


「あったって言ってたじゃん。一時期、ずっと怖い夢を見ていたことがあるって」

「そうだっけ?」

「そうだよ。残念だな、もう一度聞かせてもらおうと思ったのに」


 肩を揺らす小夏に対して、暁美は首を竦める。そして、ごめんね、と呟いた。


「いつの話? 頑張って思い出すから……もうちょっと待って」

「いいよ、そこまで。私が覚えてるから。それに、もう慣れっこだしね」

「ううう、ごめん〜」


 暁美はよく忘れる。物を忘れる時もあれば、予定や話した内容が記憶からこぼれ落ちてしまう事もある。

 地下小夏に言わせれば、それは出会った当初からのことであるという。

 幡田暁美曰く、小さい頃からだという。


 暁美が落とした記憶は、小夏が代わりに拾い集めている。それは今でも変わらない。半ば依存する形ではあったが、その関係に、お互い満足しているようだ。


「あーちゃんはね、さっきも言った通り、しばらく悪い夢を見ていたんだって。犬に追いかけられたり、運動会で使う大玉がたくさん転がってきたり……。でも、その直後に、あのメールが来るようになったんだって」


 そこまで言うと、突然暁美が声を上げた。手を叩き、思い出したと叫ぶ。そしてくしゃりと、極上の笑みをこぼした。


「思い出した! ねえねえ、思い出せたよ、シカちゃん!」

「はいはい。偉いね、あーちゃん」


 小夏の手がきっちりと結われた頭を撫でる。犬と主人のようだ。明里は思わずくすりとした。


 先程、小夏が口にしたメール――おそらく、明里にも届いている『能力』の制御訓練の案内書の事であろう。桜学園の麓にある異能力研究所から送られてくる、“暴走”を抑える手段の提示。その到着はすなわち、自らの『能力』の開花を意味した。


 悪夢の後に『能力』が開花する。暁美の例に倣うならば、そういう事である。つまりそれは、小夏の『能力』も開花を間近に控えている可能性があるという事だ。


「ええっと……だから、つまり、もしかしたら私もかなって思っていたりするんだけど、明里ちゃんの時はどうだった?」

「どうって――」


 予兆はなかった。少なくとも、暁美のように「悪夢」という形で、兆候が顕現することはなかった。


 だが、明里はそれを正直に言うべきか迷っていた。

 希望を持ち始めた小夏を、わざわざ元の場所まで突き落とす必要はあるだろうか。このまま――暁美の前例に憧れるまま、眠気に伏するその日まで、過ごさせた方がよいのではないか。


「……そっか」


 小夏は察したのだろう。明里が答えられずにいたからこそ、抱いていた希望に陰りを見出してしまった。

 明里は肩を竦める。


「多分、人それぞれなんだと思うよ……?」

「そうだね、そうかもしれない」


 小夏は笑う。明里も、できる限りの笑顔を作る。


 すると突然、小夏が動き始めた。ベッドの足元に寄せていた布団を手繰り、足を入れる。

 それにいち早く反応したのは暁美だった。目を大きく輝かせ、歓声をあげる。


「シカちゃん、寝るの?」

「うん。怖がっているのが、何か馬鹿らしくなっちゃった。それに、これだけ我慢していたんだもん。そろそろ夢を見なくて済むでしょ」


 もぞもぞと布団に入り込む小夏。素早く髪を解いた暁美も、同じ布団に潜った。

 羽毛布団が蠢く。その端から、軽く波のついた髪を流した少女がひょっこりと顔を出した。


「ねーねー、あかりん。子守唄! 何か演奏して!」


 嬉しそうに暁美は言う。すると、その隣で眼鏡を外していた小夏が、困ったように笑った。


「私からもお願いできないかな、明里ちゃん。あーちゃんのベッド、使っていいから」


 もちろん明里は快諾した。

 明里は胸元に下がっていたネックレスを取り外し、念を込める。銀色の下地に金の装飾――それは長さを変え、形を変える。ネックレスは、フルートになった。


 何を演奏しようか。明里は考える。頭の中を音が駆け巡る。ようやく一つの楽譜を取り出し、下唇を楽器に添える。


「ねえ、明里ちゃん」


 ふと、小夏が問い掛けてくる。明里は目を持ち上げた。


「リクエスト、ある?」

「そうじゃなくて。……明里ちゃん、霧生詩織さんとは友達なんだよね?」


 突然何を言い出すのだろう。明里は目を丸める。

 ルームメートにしてクラスメートの少女、霧生詩織。今日は自室に置いてきた少女。今頃は何をしているのだろうか。いつものように本でも読んでいるのだろうか。


「もちろん、親友だよ!」


 明里は応じる。心の底から答える。それに小夏は、安堵したような様子を見せた。


 穏やかな寝顔。それを横目に、明里は改めて息を吸う。そしてゆっくりと、今度こそ、筒の中に吹き入れた。

 静かになった部屋の中に、明里の音が響き渡る。周囲の部屋への影響を考える暇はなかった。自分のできる事を、歌える音を、全力で奏で続ける。


 ありがとう。そんな声が聞こえたような気がした。



 ――その翌日、地下小夏は遺体となって発見された。

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