34話 スローイング手袋-2

 先日まで枠内の大半を埋め尽くしていた白桃色が、いつしか緑色に塗り替えられていた。木の葉が芽吹き、成長したのである。


 季節の変わり目ともなると、窓外の景色は日を追うごとに変化する。毎日、毎日、微小ながらも、植物は生を紡いでいるのだ。それを目敏く捉える暇人は、この学園にどれだけ存在するだろう。


 香澄の胸中に、郷愁の景が湧き上がる。


 家の傍ら、道路と敷地とを隔てる位置に、桜の木が植わっている。祖父母の代よりずっと前からそこに立っている大樹は、香澄の成長を、誰よりものんびりと見守っていた。


 監視塔は、時に少女の遊び相手でもあった。


 花が散り、やがて葉が茂ると、さくらんぼのような小さい実を震い落とす。それを拾い上げては土に埋め、気まぐれに口の中に放り込み、毎日のように水を与えていた。


 いつか親と同じ背丈まで成長し、そして同じように実を結ぶだろう――想像を膨らませた童女は、無邪気にも象型のじょうろを毎日のように抱えていた。


 あの木は結局どうなったのだっけ。香澄は一人、記憶の引き出しを開ける。


 桜の大木の周囲には、数本の若木が育っている。それが幼児期に植えた実から芽吹いたものであるかは定かではないが、大木の家族が増え、親戚一同大喜びしている映像だけは頭に残っていた。


 あの木々は、今も尚凛として立ち並んでいるだろうか。香澄は懐かしくも物寂しくもある風を胸の内に感じた。だが来年になれば、否が応にも顔を合わせることができるのだ。しかしそれは同時に、桜学園との別れを示す。


「もう一年もないんだね」


 零れた言葉を拾い、亜紀は顔を持ち上げる。怪訝、その表現が似合う顔付だった。


「何、急に」


「来年は桜学園にいないんだなって。それに、任期だってもう半年もない。十月には生徒会選挙があるでしょう? つまり、私たちの仕事もそこまでってことで……なんだか早かったなって」


「十月に引退とは言っても、まだ大仕事が残っているでしょう。気が早いわよ」


「あ、そっか。まだ文化祭が残ってたね」


「正確には文化祭兼運動会ね。そういえば、まだ企画書を挙げていなかったわ」


「そのくらいは自分でやるって宣言してたのに!」


 しかし、亜紀のは今に始まったことではない。忘れていたことに気付いたのであれば、いずれはきちんと構想を纏めてくれるだろう。多少の不安は残るが、件の行事は今期生徒会執行委員にとって集大成となる。一から十まで香澄が処理するべきではない。


 そう自分を落ち着けて、香澄は空になった湯呑を見下ろした。


「亜紀ちゃん。お茶のおかわり、いる?」


「ええ、お願い」


 机の端に寄せてあった盆を手に取り、湯呑を二つ、そこに乗せる。


 依然として炬燵に入ることなく、黙々とゲームを続ける長谷川澪にも同じ問いを掛けるが、彼女には必要ないようだ。ひらりと手を振って返されてしまった。


 電気ポットには、半分程の湯が残っていた。温度はおよそ六十度。煎茶を淹れるには少し低温である。


 軽く湯を温めながら急須の茶葉を入れ替え、小さな手洗い場で湯呑をゆすいでいると、突然ガラリと戸が開いた。


「あ、神先輩じゃん」


 にやにやと、澪は笑みと共に少女を迎え入れる。


 立っていたのは生徒会庶務職、二階堂由希にかいどうゆきだった。いつもならば間髪入れずに応じる由希であったが、今回ばかりは様子が異なっていた。吊り上った眉尻に、動き回る蚊を捉えたが如き厳しい目。緊張か憤怒か、力のこもる全身からは、燃え上がる激情が読み取れる。


「やっほー、先輩。ねえ、返事してくれたっていいじゃん。ねえねえ、神せんぱ~い」


 澪をはじめ、生徒会役員の多くが二階堂由希を「神」と呼ぶ。それは敬意ではなく、どちらかと言えば揶揄を含んでいることは確かだ。


「神先輩、激おこ? 上履きの中に藁人形を入れておいたの、気に入らなかった?」


「やっぱりあれはお前か!」


 今朝方耳にした悲鳴は彼女のものだったのか。香澄は密かに同情を覚えた。


 それにしても、由希は随分と玩具にされているらしい。昨日も一昨日もその前も、何かしらの被害に見舞われているようで、たびたび元気な怒声を聞いた。


 初めこそ微笑ましいと思っていた戯れ合いだったが、事実、それは時を経るにつれてエスカレートしており、時には怪我をさせる直前にまで到達しようとしていた。


 いつからだったろうか。彼女等の遊びが、不穏とした気配を纏うようになったのは。


「――まあ、いい。澪ちゃんに構っている程、ゆきも暇じゃないんでね」


「はあ? 何々、また世界でも救いに行くつもり? そんなことしなくても、日本は平和ですよ」


 澪の言葉は嘲笑を孕んでいた。いつもならばそれに由希が突っ掛かり、幼稚な舌戦に発展する場面だ。しかし今回は違った。由希は澪を軽く一瞥するだけで、すぐに歩を進めたのである。視線の先には早乙女亜紀――退屈そうに雑誌をめくる怠惰の女王がそこにいた。


 机の上に置かれていた紙がふわりと床に舞い落ちる。


 由希の接近に気付いたのか、森最奥の泉の如き瞳が持ち上がる。感情は一つとして読み取れない。


 長いこと彼女等は対峙していた。その間流れ続けたゲームの背景曲によって、幾分かの角は取れていたが、肌に伝わる張り詰めた空気は誤魔化しようがなかった。


 沈黙を破ったのは由希だった。彼女は、まるでメンコのように何かを叩き付ける。それは白い封筒だった。次いでポケットから取り出した軍手も、炬燵に向けて投げた。


 まさか新しい遊びだろうか。安堵しかけた香澄を嘲笑うかのように、由希はひどく強張った声を亜紀にぶつける。


「受け取らないと、今度こそ怒るからね」


「……何のつもり」


 亜紀は半身を起こす。その声はいつもと変わらず平坦で、動揺した様子を見せない。


「何って――そのままの意味。ここで決着を付けようと思っただけ。他に理由なんてない」


 由希の髪が、スカートが揺らぐ。どこからともなく吹いてきた風に弄ばれる。


 まるで別人だ。普段の陽気な彼女からは想像もつかないほど美しく、気高く、そして真剣そのものだった。


「早乙女亜紀。私はあんたに、決闘を申し込む」

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