3章 追求!エネミー

35話 記憶-1

 六月。桜学園高等部への入学から、もう二ヶ月が経とうとしている。衣替えも次第に始まり、学園の中にはジャケットを羽織った冬服とシャツのみの夏服、その中間に位置するベストを身に着けた生徒が入り混じっていた。


 次から次へと明里達を追い抜いて行く少女を眺めていると、不意に傍らの友人が大きな欠伸あくびをした。明里が見ていないとでも思ったのか、ぽっかりと開く口を押さえることなく。


「眠そうだね。よく寝られなかった?」


「うん、ちょっと」


 友人、霧生詩織は目元を擦る。その仕草は鼻を擽られた猫のように素早かった。


「考え事をしていたら、いつの間にか朝になってて……」


「詩織ってば、うっかりさんだね」


 物思いに耽り、夜を過ごす。それはまるで異世界の話のようだった。布団に入った途端に意識の失せる明里にしてみれば、一度は憂いてみたい事柄ランキングの上位に食い込む。だが、当の本人にとっては迷惑極まりない話であろう。


 今日は自分がノートを見せる側になりそうだ。明里は密かに胸を弾ませた。


「授業中、眠くなったら寝ちゃっていいんだからね」


「嫌だよ。授業受けたいもん」


「ノートなら私が見せる!」


「それはとてもしゃく


「なんで!」


「あ。見て、明里」


 明里の抗議を無視して、詩織は前方を示す。追撃を企てていた少女は思わず口を閉じ、白い指を追った。


 彼女が指す方向には道が伸びている。いつもと変わらない通学路。寮から学び舎へ向かうための、数百メートルの道。その両端は、眩い程の緑に覆われていた。先日までは白桃に彩られていた筈なのに、今ではすっかり若緑色に染まっているのだ。


 風に吹かれるたびにサワサワと音を立てては、煉瓦調の敷石にいくつもの木漏れ日を揺らす。その様子は夏の訪れを予感させていた。


「夏休みってあるのかな」


 独り言同然に発したそれに、詩織は考え込む素振りを見せる。


「あると思うよ。学年暦にも書いてあったし――確か一ヶ月くらいだったかな」


「一ヶ月かぁ。それだけあれば、家にも帰れそうだね」


 夏休み中に帰省するとなれば、約四ヶ月ぶりの我が家となる。家族は元気にしているだろうか。


 父と弟、そして今は亡き母。脳裏に忘れ様のない面々が浮かんだ。その時、光景が稲妻のように蘇る。明里は勢いに任せて詩織に顔を向けた。


「なっ、何?」


「家族で思い出したんだけど、この前話した夢、あるでしょう?」


 先日訪れた、短くも不思議な夢。今となっては記憶の断片しか残っていないものの、その「断片」が脳深くに食らい付いて離れない。しかし、それが示唆するものは、今尚解せずにいた。ただの夢だったのか、それとも価値を見出し得るのか。


「夢が……どうかした?」


「夢に出てきた白い鳥――あれがね、詩織が持っている本に出てきた鳥に似ていたの」


「本?」


「そうそう。あの……白と黒の」


 詩織の所有物には書籍が多く含まれている。その中でも特に年季が入っていた物が、白と黒、それぞれの鳥が表紙に描かれた絵本だった。


 初見時は、てっきり愛読書かと思っていた。しかし彼女は、これまで一度も――少なくとも明里の前では――その本を開いてはいない。枕元に置く、表装を撫でるなど、慈しむ様は見せるが、中に目を通すことはしないのである。明里はそれが不思議で仕方なかった。


「ああ、あれね」


 詩織は頷く。


「夢で見たの、家族だけじゃなかったんだ。でも、何で明里の所に?」


「分かんない。何でだろうね。私、表紙しか見たことないのに」


 余程印象的だったのだろうか。特別、そのような感想は抱かなかったが、無意識の下に感ずる所があったのかもしれない。首を捻る明里は、結局結論には至らなかった。


「でもね、でもね。久し振りに家族に会えて嬉しかったんだ! お母さんも生きてたんだよ!」


「はいはい、何度も聞いたよ」


 一見ぞんざいに扱う詩織だが、その口元は緩やかな弧を描いていた。彼女も内心は祝福しているのかもしれない。明里は胸の内に仄かな温もりを感じた。


 通学路も終盤を迎え、とうとう巨大な校舎が見えてきた。生徒の流れも次第に詰まり、それに釣られて明里達の歩幅も縮まる。


 今日は妙に混んでいるな、そう訝しんだその時、明里の耳に聞き慣れない声が飛び込んできた。


「号外ー、号外ー!」


 校門の前で、少女が声を張り上げている。手には紙束――それを抜き取っては、校内へと吸い込まれていく生徒に配り散らしている。


 新聞部か委員会か、少女の正体は判別付け難かったが、異常事態が発生したことは確かだった。


 詩織が配布者から紙を受け取る。明里もまたそれを覗き込んだ。


 新聞の一面には、でかでかと文字が書かれていた。「生徒会庶務、惨敗」――記事によれば、生徒会長と生徒会庶務職の少女が決闘を果たしたのだという。そしてその結果、生徒会長が勝利をぎ取った。


 内輪揉めだろうか。活字を読み進める明里の一方、詩織はやけに見下げた様子で息を吐いた。


「くだらない」


「そうかなぁ。決闘だよ! かっこいいと思わない?」


 同意を求めるも、詩織はただ紙面に視線を這わせるばかりで、応じることはなかった。先程まで、少なくとも平生通りだった顔色が、どこか憂いを含んだ色合いに変化している。


「先輩、怪我してないといいなぁ」


「『能力』で人を傷付けるのはご法度だから……いくら決闘とは言え、生徒会長も配慮していない訳がないでしょ」


「そうだよね! よかった!」


 能力者同士の決闘。それはいくら能力者が集う学園であっても、頻繁に起こることではないようだ。尤も、頻発されても困るのだが。


「最近多いよね、こういうの」


 そう声を発したのは、明里でも詩織でもない。道を行く、名も知らぬ生徒だった。彼女は友人に語りかけていたようだが、明里は内心同意を示す。


 確かにこの所よくない噂を耳にする。


 万引きや喧嘩、イジメ。学級崩壊を起こすクラスすら出て来たとの話も聞く。さらに悪いことに、これらは「呪い」によって引き起こされたとする説もあった。語り口によれば、先日自ら身を投げた少女、それが我々生者を祟っているのだとか。


 しかし少女を知る明里からしてみれば、それは冤罪と言わざるを得ない。友人がそのようなことをするとは、とても思えなかったのだ。そう強く主張を続けても、濡れ衣は事態の原因として、しんしんと根を張りつつあった。明里一人の力では、それを食い止めることはできない。


 今ならば実感できる。清涼であった筈の空気が濁り始めていると。この島に来た当初の澄み切った気配は見る影もない。自然の浄化も追いつかず、穢れを強めている。


 この学園で何が起こっている。誰も理解できぬまま、悪化は進む。それが心地悪かった。


   □   □


 底知れぬ不安を抱えたままやって来た教室は、いつもと変わらぬ活気に溢れていた。


 入学当初の予想通り、少女達は各々趣味の合うグループを作り、学園生活を満喫している。教室からいなくなった二名の生徒のことなど、すっかり忘れて。


 昨日、改めて友人の部屋を訪ねてみた。結果は言うまでもなく惨敗。門前払いを食らってしまった。だが、声は聞くことができた。誰とも話したくない――届けられたのは拒絶の言葉ではあったが、無言のまま凌がれていた過去と比べると、目を見張る進展である。


 明里が授業の支度をしていると、突然、教室中に静寂が降り立った。チャイムもなければ、教師が来た気配もない。和やかな気配は身を潜め、困惑が渦巻いている。


 彼女等の視線は一様に教室後方、それも引き戸に集められていた。


 どうしたのだろう。釣られて明里も、その視線を追った。


 開け放たれた戸の前で、少女がくるくると辺りを見回している。頬をそばかすで飾り、髪は後頭部できっちりと結んでいる。それは見紛うことなく、待ちわびた少女、幡田暁美だった。

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