14話 炎の少女-3
あっと研究員は声をあげる。身を乗り出して、化け物を追おうとする。それでも届かない。届くはずがなかった。
騒ぎを聞き付けてやって来たらしい白衣に、並木修一の切羽詰まった顔が叫ぶ。「エイジに連絡を」――確かにそう聞こえた。
そうこうしている間にも、化け物の背は小さくなっていく。前足に少女を掴んだまま、こちらには目もくれない。
泣き叫ぶ少女。パニックに陥る教室の中で、誰かが懇願する。あの子を助けて。私の友達なの。食べられちゃう――お願い、助けて。
しんしんと、切羽詰まったその言葉が染み渡る。胸が熱くなる。真っ白に塗られた脳が、急激に回転を始めた。思考を伴わない、空回りの発熱であった。
「助けなきゃ」
助けなければならない。そんな義務感が明里を襲う。しかし義務に燃える一方で、明里はその術を持ち合わせていなかった。
地を歩く人間にとって、空を駆けるものへの手出しは困難極まる。止まっている相手ならばまだしも、絶えず動き回っているモノに対抗する手段となると、それも限られてくる。
やはり有効な手は飛び道具だろうか。だが、ここには飛び道具も、それに代わる物はない。あったとしても、標的を撃ち抜くだけの技術も持ち合わせてはいない。あの化け物を落とすには、それらの点を克服する何かをぶつけるしかない。
では、どうすればいい。何を使えば、あの化け物を引き留められる。
「音――」
誰かがそう呟く。脳から直接、あるいは頭蓋骨を介して伝わってくる。無謀でありながら、その手段はどこか確信を含んでいた。
音ならば発生源から円形に広がる。目には見えない波を作りながら、空気から空気へと伝わりながら、遠くにまで届かせる事が出来る。それならば狙いを定める必要もない。音の届く範囲に対象が存在すればよいのだ。
胸元から小さな音が聞こえた。焚き付けるような正義と義務。助けたい。助けなければならない――それに呼応して、明里のネックレスは熱く振動していた。
今は亡き母から貰ったネックレス。銀の下地に金の細やかな装飾が施されたそれ。大好きだった楽器を模したプレゼントは、何かを囁いていた。
明里は走りだした。椅子と机を陳列した講堂を出、戸惑う少女の間をすり抜ける。恐ろしく白い廊下を走り、階段を駆け上がる。悲鳴も静止の呼び掛けも、どんどん後方へと逃げていった。
いつだったか、母は言っていた。明里の奏でる音には特別な力があると。その音は闇に光を差すためにあるのだと。その言葉は、明里が自身の音に対して抱く感情とは全くかけ離れていた。
特別な力なんてものは持ち合わせていない。光を差す力もない。仲間の足を引っ張るだけの、耳障りな音に過ぎないとばかり思っていた。そんな落ち込んだ思考に亀裂を入れたのは、他でもない――母であった。
重い扉を押し退け、ようやく目的の場所にまで辿り着いた。
朗らかな陽気が瞳孔を刺す。明里は目を細め、薄汚れたタイルを踏みつけた。
研究所の屋上は広々としていた。高いフェンスに囲まれた屋外ファン。いくらかの緑の生えた小さな菜園。
辺りを見渡せる高台からは、目的の物もすぐに確認できた。
太陽の傾く方向――桜学園の置かれた方角へ向けて羽ばたく化け物。だが、その背を追うにはまだ遠い。加えて低い。
もっと上へ行かなくては。明里はフェンスを乗り越え、梯子を登る。そして、やっとの事で屋上の中で最も高い位置、貯水タンクの上に這い上がった。
風が強い。痛いほどにざわめいている。それに混ざって潮の香りが吹き付ける。
ふとした出来心から下を見遣ると、妙な浮遊感が明里の足元を揺らした。灰色の地面に置かれた車も自転車も、さらには木も、小さく低く見える。
足を滑らせでもしたら、余程の奇跡が起こらない限り、助かりはしないだろう。
だが、それに恐怖を覚える事はなかった。それどころか高揚している。興奮に歓喜に、全身が打ち震えている。
いつの間にか、手の中には笛があった。銀の下地に金の装飾が施された横笛――フルート。なんて懐かしい形状だろう。明里はぽっかりと空いた吹き口に、そっと下唇を添えた。
ある時から、音楽とは距離を置いていた。音楽が、楽器が、フルートが好きで好きで仕方なかったのに、そこから離れていた。相棒を封印し、楽譜を隠し、手入れ道具からグッズから何もかも、視界から打ち消した。その決別は、十五年と数か月の人生の中でも一番の決断であったかもしれない。
もう二度と、フルートを吹くことはないだろう――そう覚悟していた。
それなのに、あるいはだからこそ、明里は奏でる。今の気持ちをあるがままに、好きなように。喜びを湛え、感動に震え、優しく柔らかく、しかし堂々と。精一杯の呼気を吹き込む。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベン作曲『交響曲第九番』。
フルートの独奏。かつてのように他の音も合唱隊もない。だがその音は明里の脳裏に染み付いていた。ここはステージかと錯覚するほど明確に。
風のざわめきの中、明里は朗々と吹きあげる。
心成しか、化け物のスピードが落ちたように思えた。耳障りな金切り声が響く。苦しんでいるのだろうか、力強かったはずの飛行体制が乱れた。
どうして自分は非常事態だというのに、落ち着いてフルートを吹いていられるのだろう。これが何になると言うのだろう。
冷静な自身が問いかけてくる。それに母の言葉が応える。
嘘だとは思いつつも、どこかで確信していたのかもしれない。自身の音が持つ力に。人知を超えた『能力』の存在に。
突然、轟音とともに、視界の端から柱が迫り出した。青々と澄み渡る天目掛け、一直線に昇っていく。よく見ると、その先端は燃えていた。正確には炎を纏った少女が、そこに乗っていた。やがてそれは大きく飛躍し、化け物へと飛びかかる。
炎の一閃が化け物の横腹を抉り焼く。甲高い絶叫が空気を揺らした。化け物はぐらりと体勢を崩し、猫の手から女子生徒をこぼす。炎を纏う少女は上手くそれを抱き留めると、新たに迫り出してきた足場へと降り立った。
他の場所から柱が立ち上がる。何本も何本も、まるで悪い夢でも見ているかのように、それは化け物に向けて先端を突き出した。尖った薄茶色が一斉に、体勢を整えようとしていた化け物を捕らえる。
胴を羽根を、あるいは頭を貫き――いや、正確には磨り潰したのかもしれない。ゴリ、と硬い物が擦れる音が響いてきた。
土柱の間から覗いていた羽根の破片が、ずるりと地上に落下した。黒い雨が森林に降り注ぐ。それを追うように、接触した柱と柱とがはらはらと互いの土をこぼした。
いつの間にか音は止まっていた。突如として現れ、瞬く間に化け物を排した少女と柱。演奏する事をすっかり忘れて、ただただそれを、呆然と見守っていた。
気持ち悪い。ふとそんな言葉が、思い出したように脳裏を過る。
ふと、炎の少女と目が合う。目が合ったように感じた。
「いい演奏だった!」
木霊するその声。好奇心に煌めいた、元気な声。その声の主と思しき少女は、まるで存在を主張するかのように手を振る。明里もそれに返した。腕を振り、感謝を伝える。
その少女はほどなくして数本の土柱と共に下降していった。
すっかり落ち着き払った風が頬を撫でる。
手の中にあったフルートは、いつの間にか手に収まるほどに縮小していた。
今は亡き母から貰ったネックレス。銀色の下地に金の装飾――それは紛うことなく、明里の胸元を飾っていた物だった。そっと胸元に手を当てる。案の定、いつも身に着けている物はない。指先には厚い布が当たるばかりである。
明里は笑う。大きく笑声をあげる。この上なく、清々しい気分だった。
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