29話 図書守と-1

 わずかに雲掛かった放課後。成宮明里は、友人霧生詩織を連れて図書館を訪れていた。


 先日聞いた話によれば、図書室には菓子が置かれているという。ソファーは惰眠を許し、滞在していれば、自分で用意せずとも茶が出て来る。


 なんて幸せな空間だろうか。胸をときめかせた明里は、念願叶って極楽へと足を踏み入れた。


「やめなよ、その動き。泥棒みたいだよ」


 友人の声が辺りに広がる。


 所狭しと本棚が並ぶ空間は、声を潜めてしまう程の静寂に満ちていた。その間を、明里は隠れるように進んでいた。


 図書室は公共の場だ、足音も姿も忍ぶ必要はない。しかし隣人の息の音すら聞こえてしまいそうな程の静けさの中にあると、それに倣いたくなってしまう。これも日本人の性だろうか。


「シッ、静かに。どこに敵がいるか分からない。注意して進むよ」


「敵ねぇ……」


 その声は明らかに呆れ返っていた。


 明里は棚の間から顔を出す。視線の先にはカウンターがある。しかし、平生図書委員や司書が陣取っているであろうそこは無人だった。


 蔵書の管理者であるコンピュータも、リボンと画用紙の散乱した木目の台も、つい先程まで人がいたかのような気配を湛えている。だが、肝心の主が見当たらない。その様は、まるで入学式後の商店街のようだった。当時の不安が、じわりと蘇ってきた。


「図書館の封鎖情報、出てないよね?」


 そう詩織に尋ねるも、通知は来ていないと言う。自分のタブレットを確認しても答えは同じだった。


 いくら過疎地とは言え、司書や図書委員会の者の姿さえないとなると心配になる。知らぬ間に異世界に迷い込んでしまったかのようだ。


「すみませーん、誰かいませんかー?」


 呼び掛けても、返事はない。もう帰ってしまったのだろうか。明里はプクと自分の頬を膨らませた。


「詩織が先生に呼び出されるから」


「何度も言うようだけど、私、何もしてないからね?」


 図書館への訪問が放課後にずれ込んだのには理由がある。それは、予定をしていた昼休みの間、どこを探しても詩織の姿が見当たらなかったからだ。曰く、先生に呼び出されていたらしいのだが、その原因は定かではない。詩織は何も話そうとしないのだ。ただ心当たりがないの一点張りである。


「出直す?」


 肩を竦めた詩織は、そう問うてくる。明里も友人の真似をして、肩を揺らした。


「そうだね、また来ようか」


 その時だった。低い唸りと共に、カウンターから腕が飛び出してきた。


 指をめいっぱい開き、明里を捕らえんばかりに迫る。喉を切り裂く悲鳴と共に、明里は無様にも尻餅をついた。


「お、おばっ、け――」


 明里を、人差し指がぴたりと示す。そこに小さな花が咲いた。


 五枚の花弁が付いた桜。指紋が見える程に透き通った薄紫色は、自然界のそれをそのまま変換したかのように精巧だった。


「な、ぬ……?」


 混乱の最中、妙な声が明里の喉から洩れ出る。それに応じるかのように、くつくつと押し殺すような声が降って来た。


 カウンターに身を乗り上げ、男が肩を震わせている。その顔は、右半分を黒の覆いで隠されていた。


 先日出現した怪鳥の撃退に貢献した、荒々しい男だった。七瀬春佳が「いい先生」と評価した桜学園の司書、並木先生。彼は悪そうな顔をくしゃりと歪めた。


「面白い反応をするなぁ、嬢ちゃん達。一年生か?」


 先生は腕を引くと、空いた右手で花を隠してしまう。その手は、見るからに冷たい金属の装甲を纏っていた。


「よーく見てろよ?」


 無骨の指先はすいと引き延ばすような仕草を見せる。指先から枝が伸び、分かれた枝先に幾輪かの花が咲く。およそ前腕程の長さの枝が、男の手の中に出現した。


「……へ?」


 呆然とする明里の前に、淡い色の枝が差し出される。明里は恐る恐るそれを手にした。


 重みは一欠片もなかった。ただ冷たく硬い、しかし滑らかな質感だけが皮膚を刺激する。だがそれは、あまりにも微々たるものだった。時間が経てば、手にそれが乗っていることすら忘れ兼ねない。


「ほら、立て。いつまでそうしているつもりだ? 用があるなら、ソファーで待ってりゃァいい」


 菓子でも持って来てやる。そう先生は身を起こすと、カウンターの奥にある小部屋に消えていった。


「お菓子くれるって。よかったね、明里」


 尻を付いた明里とは対称的に、詩織は不動だった。それどころか、穏やかな笑みを湛える余裕さえ感じられる。先生の茶目っ気を予見していたかのようだ。


「あー、もう。びっくりした。心臓止まるかと思った」


 差し出された白い手に桜細工を乗せ、明里は身を起こす。


「驚き過ぎだよ、明里」


「逆に、何で詩織は驚いてないの?」


「……驚く要素、あった?」


「大ありだよ!」


 文句を糧に、明里は立ち上がる。


 スカートに付いた埃を払いながら、視線を巡らせると、すぐにソファーが目に付いた。


 窓際の一角に、半ば潰れかけた黒色のソファーがある。向かい合い、一対を成す二脚の間には背の低い机。その上には、久方振りに目にする紙束が放り出されていた。


「わあっ、懐かしい。新聞だよ!」


「そんなに大声出さなくても聞こえてるよ」


 新聞の一面を飾っていたのは、見覚えのある写真だった。煌びやかな衣装と、まばゆい程に照るライト。それを纏う麗しい女性。若者を中心に注目を集めているという歌手だった。


「ねね、詩織。見て見て」


 手招きをすると、詩織は紙面を覗き込む。その反応は芳しいとは言い難かった。見る見るうちに曇り、やがて眉間には深い皺が刻まれる。


「この前テレビでやってた人だよ。声、綺麗だったよね。今度CD買ってみようかなぁ」


 桜学園に来てから、およそ二か月。外部の情報は殆ど仕入れていなかったためか、浦島太郎にでもなったかのような気分である。


 女性がその一例だ。最近になってテレビでも取り上げられるようになり、敷地内に設置されている商店街でも、その女性を扱った雑誌や書籍等を見かけるようになった。


 世間では余程の人気を博しているのだろう。それが窺える程、世俗から離れたこの島にも、『歌姫』と称される女性歌手の浸透が始まっていた。


 紙面を眺めていると、やがて背後から足音が近付いてきた。カウンターの奥に引っ込んでいた先生が戻って来たらしい。片手は菓子の入った籠を、もう片方には三本の湯気が立ち上るお盆を乗せている。


「何か面白いモンでもあったか?」


「いえ」


 短く応じる詩織は、明里から新聞を取り上げる。一方の先生は籠と三つのマグカップを机の上に置いた。茶渋の滲む白色の器には、薄緑の液体が注がれていた。


「で、何の用だ。菓子でも食いに来たのか?」


 向かいのソファーに腰を降ろし、背もたれに全身を預ける。半ば見下ろすような姿勢の先生ではあったが、それに高圧的な様はなかった。


「はい、そうです!」


 偽りなく応じると、先生はくつくつと笑う。


「素直でいい子だなぁ。あのクソガキ共にも見習わせたい」


 くすぐったかった。「素直」という語は聞き慣れているが、十五歳になると「いい子」と言われることは殆どない。だから嬉しくあり、同時に気恥ずかしくもあった。


 明里は手にした銀色の包装紙を破り、楕円の板を取り出す。


 一つ口に含んでみると、ざくりと硬い感覚。同時に甘い香りが鼻腔を駆け上がる。どうやらこれは、ホワイトチョコレートを被ったラスクであるようだ。甘過ぎず、程よい塩気が効いている。明里の頬はついつい緩んだ。


 早々にラスクを平らげ、次なる菓子へと手を伸ばそうとしたその時、傍らの友人――包装の一ミリも破っていない詩織が口を開いた。


「先生は、最近自殺した生徒がいることをご存知ですか?」

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