百年のワッフル
百年のワッフル-1
その日センの出社が遅れたのは、いつものような理由――前日に飲みすぎて朝起きるのが辛かったとか、夜遅くまでゲームをやっていて朝起きるのが辛かったとか、特に理由は無いが朝起きるのが辛かったとか――からではなかった。むしろその反対で、朝起きるのが何時になく早かったのがその理由だった。
今朝目覚めたてのセンは、とりたてのリンゴのように新鮮でしゃきっとしていた。これはほんとうに珍しいことで、ことにメロンスター社に勤めだしてからはほとんど初めてといってもよかった。ベッドにも未練はなく、思考の進路は知能改善手術を受けたネズミのようにスタートからゴールまで一直線に進んだし、髪の毛さえもすばらしくすんなりまとまった。そして外は雲ひとつなく晴れていて、暑さ寒さの心配のないかんぺきな気候だった。というわけで、さすがのセンの気分もクリームのようになめらかだった。
いつもの朝の身支度をしてもまだまだ時間がありあまっていたので、センはこの時間を利用してワッフルを焼くことにきめた。いつも朝食を食べる時間はなく、まれにあったとしてもそれは食べる時間ではなくかきこむ時間なので、こうして朝食を作るところから始めるなんておそろしく贅沢なようにセンは感じた。
といっても、ワッフルを焼くこと自体にそれほど時間はかからないはずだった。センの持っているワッフルメーカーは会社の去年のパーティーで当たったもので、専用のパウダーと水をセットしさえすれば材料をまぜたり温度を調節したりする必要なくワッフルができるという代物だった。いちばんいいのは自動洗浄機能つきで食べたあとの片付けもする必要がないというところで、この機能は世間でも好評を博していたしセンの中でも好評を博していた。もらった直後の休日に何度か使ったことがあったし、パウダーと水のセットの仕方はちゃんとわかっていた。
最初はうまくいっていた。前にやったとおりにパウダーと水がワッフルメーカーの中に飲み込まれていき、ややあって生地の焼ける音と匂いがただよってきた。だがもう少しすると、音にはワッフルが焼けるときには出しそうもないような種類の音――ごがごが、とかがりゃりゃ、とかぽどぽど、とか――が混じりだし、匂いは香ばしさから炭らしさへのグラデーションを辿った。
センは不安になり、焼くのをやめさせようとした。ボタンを手当たり次第に押してみた。真ん中の一番大きいボタンを押すと株価指数が流れ出した。『ベガネットワークは続落……』という声を聞きながら、センは最終手段、つまりはあちこちをやたらめったらに叩くという手段に出た。三度目に叩いたとき、ワッフルメーカーは勢いよくばんと開き、中のワッフルになる前の生地、これからワッフルになろうとしている生地、ワッフルになりたかったが途中で進路を誤った生地が勢いよく飛び出てきた。
その後センは精一杯やったが、皮膚を冷やし、顔を洗い、服を取り替えるまででタイムリミットを迎えてしまった。会社の椅子に座り、なんとか遅刻をまぬがれようとして酷使した身体をいたわっていると、一台のシュレッダーロボットが寄ってきた。
「セン、このごろ人間の間では髪の毛のあちこちにべたべたしたものをつけるのが流行ってるの?」
「そうだよ」とセンは答えた。センの精神はすでにじゅうぶんすり減った状態であり、シュレッダーロボットに対して朝の出来事をいちいち説明する余力はなかった。それに時間がなくて取れなかったワッフルの生地を髪から取り除くという、それほど楽しくはないであろう作業もまだ残っているのだ。
「そうだと思った。人間の流行りってだいたいそういうかんじだもんね」
「そういうかんじって?」
「ないほうがぜったいスムーズに生きていけるのに、なぜだか存在するってこと。たぶん人間ってスムーズに生きるのが好きじゃないんだね」
電源を入れられてから現在までに得たデータからの演繹を披露した後、シュレッダーロボットは第四書類室を出ていった。センはそれを見送った後、髪についたべたべたしたものの取り方と、ワッフルメーカーのサポート窓口を調べ始めた。
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