パイの果てへの旅-4

『パイの製造にあたり、内包物(pie-filling)の選定は、対象パイのスコアに大きく影響する。現在では、パイスコアの測定は一般にフェミリエートパイ度測定器により行われているが……』


 アブストラクトの一行目で、センはその論文(『パイのフィリングとスコアの関連性に関する分析』)を投げ捨てた。ページにぎっしり並ぶ親しみにくい文字や、後ろに見える知らない文字ばかり使われている数式が明らかに読み取られるのを嫌がっていたので、その意思を尊重したのだった。そういう意味でセンは昔から数式だの分子構造だのに対して優しかったし、今後もそうするつもりだった。


 なので、昨日急に与えられた仕事――果物を使ったパイの試作――については、今までの経験をもとに臨むことにした。いくつかの果物を注文し、届けられたものをそのまま焼き込んだり、煮たり焼いたり、焦がした砂糖やバターを加えてみたりした。


 朝出社して、シュレッダーロボットの面倒を見て、それからキッチンに向かって試作を繰り返す。それを何日か続けるうちに、なかなかよさそうなものがいくつかできた。フェミリエートパイ度測定器の使い方がわからないセンには、パイの味わいを調べるには実際に食べてみるしかないのだが、中にクリームとイチゴを入れたもの、チョコとバナナを入れたものなどはなかなかおいしかった。これらを提出し、さっさとこのプロジェクトとの関わりを断ち切ろうとセンが考えていると、TY-ROUがころころと社内キッチンに入ってきた。


「あれ。どうしたの」

「仲よしのホワイトボード清掃ロボットが修理に行っちゃって、ひまなんです」


 TY-ROUは前に起こした事故の関係で日常業務を禁じられており、いつも社内のあちこちをうろついては時間をつぶしている。不憫に思ったセンは、TY-ROUをキッチンペーパーでふいてやった。


「あ、そうだ」


 その時、センはふとこの前の休日に見た動画を思い出した。


「TY-ROU、ちょっと頼んでもいいかな」

「はい、なんでしょうか」


 センは果物のあまりがごちゃごちゃに置かれた場所から、リンゴを一つとった。そしてほんの少しだけ皮をむき、その端をTY-ROUの投入口にかませ、スイッチを押した。


「あわわわ」


 戸惑いの声を上げながら、TY-ROUはリンゴの皮を細断していった。しかも刃がちょうどよくリンゴに当たり、くるくると皮がむけていく。わずか数秒ほどで、リンゴの皮はそっくり取り除かれ、中身だけが残った。


「おお、ほんとにできた」


 『シュレッダーロボットの裏機能!? 驚きの結果とは……』の動画を見たときには半信半疑だったのだが、実際にきれいに皮のむけたリンゴを見るとセンは心底感心した。その場でぐるぐるしているTY-ROUの紙くず受けにたまったリンゴくずを捨ててから、しかしセンはこのリンゴの処理に困ることに気がついた。何度もパイを試食をしたせいでお腹は減っていないし、シュレッダーロボットで皮をむいたリンゴをそのまま食べるのにもなんだか心理的抵抗があった。


「うーん……捨てるのもな……パイにするか」


 予定にはなかったが、センは急遽リンゴのパイを作ることにした。やや衛生面での不安があるので先にリンゴを煮ておき、パイにつめて焼き上げた。試食もせず、センはすでに作っておいたものと一緒の箱に詰め、『パイプロジェクト』の部屋に持っていった。


「お疲れ様ですー。パイの試作を持ってきました」


 ホワイトボードには色々な数式やビジネス用語がごちゃごちゃと書かれており、テーブルの上には各種資料、プロジェクターは色分けされたグラフを写している。その中でセンに親しみがあるのはフリー素材のイラスト(人の概念を表しているものが箱を売っている絵)だけだった。たまたま皆が不在にしているタイミングだったらしく、部屋の中にはだれもいない。よかった、とセンは資料をどかして箱を置き、そこにあった社章型のふせんに『パイの試作が出来ました。試食お願いします。セン』と書いて部屋を出た。眼の前で評価をくだされるより、テキストメッセージかなにかを間に挟んだほうが心理的負担が軽いと考えたからだ。


 センが第四書類室に戻ろうとエレベーターに乗っていると、突然がくんと衝撃が走った。いきなりエレベーターが止まったのだ。


「わあ」

「わあ」


 センとエレベーターは同じタイミングで声を上げた。


「え、どうしたの……」

「えっと……急にあなたを上に連れてこいっていう指令が来たっぽいです。でも急停止は寿命が縮むから、やめてほしいんですけどね。でもエレベーターの要望なんてどうせ通らないですからね」


 センは戸惑いながら、エレベーターが上昇に転じたのを感じた。


「え、なんで」

「さあ。なんでエレベーターにそんなことがわかるんです?」


 ぐちぐちとここぞとばかり日頃の不満をこぼすエレベーターの言葉を聞きながら、センは気持ちが下降していくのを感じていた。

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