パイの果てへの旅-5

 それからの日々は、センにとっては入社以来初めて、いや生まれて以来初めてと言ってもいいような怒涛の日々だった。あの、シュレッダーロボットで皮をむいたリンゴで作ったパイが、試食されるやいなやチーム内にセンセーションを巻き起こし、それはすぐさま会社じゅうに広まった。その様子は一ヶ月も雨の降らなかった草原で焚き火をしたときのことを思わせた(これはセンがまだ学生のころの話だったが、幸い近くに野生の消防車がいたため事なきを得た。当時は消防車がより性能がよく小回りがきく消防ドローンに置き換えられているところで、仕事にあぶれた消防車が野良化し、バーベキューやケバブ屋台を勝手に消火するのが社会問題になっていた。このことがあって、センはそれからしばらく野良消防車保護団体の販売する消防車クッキーや消防車グミを購入するようになったが、あまりおいしくなかったのでいつもそれほど親しくない知り合いに分けるようにしていた)。


 センは本来の仕事そっちのけで社内キッチンにこもってはリンゴを切り、パイ生地を練り、試作を重ねた。出来たものはメロンスター社の研究チームがすみずみまで分析を行い、センとは仲良くなれなそうな式をたくさん書いた。平行して生産部がラインを確保し、量産体制が整えられた。複数の部署が関わるプロジェクトがこうまでスムーズに進むのは、もちろんエリアマネージャーが背後に控えているという共通認識もあったが、ほうぼうに試作品として配られたアップルパイが潤滑油の役割を果たしていたことは間違いなかった。そのためセンは多忙をきわめ、家には帰って寝るだけになっていたし、休みもろくにとれないほどになっていた。


「そこに名前を書いてください」


 書式も完璧に揃えられた書類の最後のページに、センはただ名前だけを書いた。試食のパイ(砂糖の重量を0.1グラム減らし、リンゴを1.5パーセント増やしたもの)を作っている途中だったので、名前のそばにパイ生地のかけらがついた。


「これは何の書類なんですか?」


 ペンを置いて、センは書類を揃えている法務部の社員にたずねた。こうやってわざわざ他の社員がセンのところへやってくるというのも、今までだと考えられなかった。たいていセンのほうが呼び出されるか、ロボットが呼びに来るか、ロボットに呼び出されるかだったのだ。


「このリンゴのパイの特許を申請しますので、その手続きに必要な書類です」

「特許。こんなので特許なんて取れるんですか?」

「当たり前ですよ。これはまったく新しい料理だし、その上とても魅力的だそうですからね。ところで、手続きに必要なのですが、このパイを一皿いただけませんか?」

「どう必要なんですか?」

「やはり特許局への申請を行う上で、この品がどのような点で新規性があるのかなどを理解しておく必要がありまして。ああ、ありがとうございます」


 センはできたての一切れを切って紙皿に載せて渡した。書類と皿を持って出ていった法務部の社員は、しばらくして再度社内キッチンに顔を出した。


「あの、すみません。こちらの発明物を検討した結果、もう一切れ実物が必要だという結論に達しました」


 センは黙ってもう一切れを切って与えた。



 二切れ分の効果があったのか、手続きは順調に進んでいき、ほどなくして『新製品パイ試食会』の日を迎えた。一参加者として申し込みをしていたセンだが、製造ラインで作られたパイのチェックをし、会場に並べ、列の整理をし、追加分を搬入し、列の整理をし、争いを仲裁し、とへとへとになるまで働いた。


「いやあ、すごい結果になったよ」


 試食会が終わり、会場の隅の椅子でぐったりと座り込んでいたセンに、アトルが笑顔で話しかけてきた。


「このアンケートを見てくれ。『とても良かった』が97パーセントだよ。『アップルパイというものがとてもおいしかった』『アップルパイがすごくよかった』『もっとパイを!』だってさ。』残りの3パーセントを見ても『パイが取れなかった』『会場が混みすぎている』『今日あるのを忘れてたのでもう一回開催してほしい』『お皿が足りなかったので星2つです』とかだし。こんなに高評価だったのは今までないくらいだ。こりゃあ発売が待ちきれないね」

「それはよかった」


 疲れのため、センはいつでも使えて何の影響も及ぼさないフレーズしか口にできなかった。しかしアトルはそれに構わず、興奮した様子で続けた。


「今日の試食会で広報の予算が大幅増額されることも決まってね。あの素粒子ゴルフのマスターズ中継でCMを流せることになったよ。素晴らしいだろう? 君のおかげだよ、ありがとう」


 アトルにそう言われたことにセンは驚いた。そして差し出された手を握り、二人は握手をした。

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