パイの果てへの旅-8

 センは表情が自然とゆるむのを抑えられなかった。今朝やっと待望のものが届いたのだ。『お急ぎ便』に別料金がかかることを知らずに注文してしまったので、ボーナスのほとんどが消えてしまったが、その事実もこの眼の前の光景に比べればどうということはない。


 センの机の上はいつになく片付けられ、その上にミニチュアサイズのクッションが乗り、そしてさらにその上に鎮座しているものがあった。黄色いゴムのアヒルだった。先代のゴムのアヒルとの悲劇的な別れから、センはずっとカウンセリングに通い、その日あったことを話したり箱庭に人形を置いてみたりしていたが、それももう必要なさそうだと思った。何しろここに本物のゴムのアヒルがいるのだ。もちろん先代のキイロアヒルとそっくりそのまま同じではないが、キイロアヒルの魂は近くにいて自分を見守ってくれているとセンは信じていたし、それでも埋めきれない部分をこの新しいアヒルが補ってくれるだろう。センはしばらく考えて、新しいゴムのアヒルの名前を『ウスキイロアヒル』にした。すこしゴムの黄色が薄かったのだ。


 しかしウスキイロアヒルの力をもってしても、あのパイのプロジェクトに対するセンの怒りは収まらなかった。あのプロジェクト証券オプションのことを、誰も何も教えてくれなかった。アップルパイを作ったのは自分なのに。もしそれを受け取れていれば、ゴムのアヒルを十匹も並べた上に、ランチをもっと豪華に――デザートやドリンクをつけたり――できたかもしれない。それにディスカウントストアで買った缶入りのビールやカクテルを家で飲むのではなく、毎日バーに行って値段を気にせず飲みたいものを飲めたかもしれない。時折行くバーで気になっているメニュー、『アルファ・アンド・オメガ』も頼めただろう(『アルファ・アンド・オメガ』はその名の通り森羅万象を表現したカクテルで、ありとあらゆる酒をまぜこぜにするのがそのレシピである。そのためバーの品揃えによってはうまく混じり合わなかったり、文化衝突が発生したり、多数派の酒が少数派の酒の排斥運動を起こしたりする。そのため『アルファ・アンド・オメガ』をうまく作れることは利害関係の異なるグループをうまく共存させられる証であるとして、バファロール星で有能なバーテンダーはその後政治家としてセカンドキャリアをスタートさせることが多い)。


 しかし、とセンは机の上に積んでいた本を取り上げた。タイトルは『はじめてのビジネス教科書――今日からできる! と思われる方法――』。社内の資料室から借りてきたのだ。あのオプションを逃してしまったのは、こちらに知識がなかったことも一因だ。証券だの投資だのなんだのについてもよくわかっていなかった。そういう用語は突き詰めれば金に関することを言っていて、そしてその金のほうはあまり自分が好きではないのだろうとセンは考えていたので、今まではそれらについて学ぶ気がおきなかった。そちらがそういう態度ならこちらにも考えがある、というわけだ。しかし、今回はあちらのほうで譲歩を見せてきた。それに、受け入れがたいことではあるし、実際センははっきりと自分自身の中にそういう考えがあると認めているわけではなかったが、『有能なビジネスパーソン』という姿にはある種の魅力があった。高い能力、人脈、地位、高額の給与。この世で受けられる栄光のほとんどすべてがそこにはある。それなら、自分でもそれを得ることができるかどうか、試してみても悪くないだろう。何しろ自分はアップルパイの作者なのだ。チャンスはまたすぐ訪れるだろう。そのときには以前と違い、料理だけでなくビジネス方面にも明るいというところを見せ、成功を勝ち取ればいい。センは猛然と『はじめてのビジネス教科書――今日からできる! と思われる方法――』に取り組んでいった。




「ねーねー、セン。はやく『ウェズン・サーガ』を読んでよ。僕は八本足のエリークがどうなるのか知りたいんだ。他のシュレッダーロボットは八本足のエリークは伐星者のオラブに負けちゃうだろうって言ってるけど、僕はエリークのほうが勝つと思うんだよ。だってエリークは八本も足があるからね」

「何言ってるの、オラブのほうが絶対強いよ。オラブは今まで五個の星を滅ぼしてきたんだよ。しかもその中の一つは隕石で粉々になってアステロイドベルトにまでなっちゃったんじゃないか。エリークなんてただ足が多いだけだよ。足がいくら多くても隕石にはかなわないからね」

「違うよ。足が一、二本じゃ無理かもしれないけど、四本もあればだいじょうぶだよ。そりゃ二、三本は蒸発しちゃうかもしれないけど、それでもあと半分以上スペアがあるってことなんだからね」

「またこれだ。セン、早く続きを読んでよ。ちゃんと隕石のほうが足より強いってことをこいつにわからせないと」

「ちょっとまって、今忙しいんだから」


 センは『はじめてのビジネス教科書――今日からできる! と思われる方法――』と首っ引きで、金融商品情報ダッシュボードを調べるのに全精力を使っていた。ダッシュボード上には様々なグラフが表示されている。それぞれ視認性を最大限に考慮し、さまざまな指標をわかりやすくまとめており、その増減、構成比、分散、相関などがひと目で理解できるようになっている。問題としては、センにはその指標がそもそも何を示しているのかが理解できないことだった。


 やがてセンは理解を諦め、ダッシュボードのあちらこちらを無秩序に眺め始めた。『はじめてのビジネス教科書――今日からできる! と思われる方法――』は、現代の金融が持つ重要性について多くのページを割いて語っていたのだが、読者がその重要性を理解する重要性についてはあまり重要と思っていなかったようだ。有能なビジネスパーソンへのロードマップが早くも瓦解し始めたのをセンは感じたが、しかし『金融にはそれほど明るくないけれども有能なビジネスパーソン』へのロードマップを新たに構築しなおすことにしてその場を乗り切った。


 ぱらぱらと表示されるグラフの中で、ある一つのチャートがセンの目に留まった。足元で隕石と足の代理戦争を始めたシュレッダーロボットたちを抑えながら、そのチャートを見る。指数関数的に急上昇しているそのチャートのタイトルは、『アップルパイ・トラスト・ファンド』だった。ウスキイロアヒルが、ころりとクッションの上から転がった。

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