パイの果てへの旅-9

「……なるほど?」

「わかったかい。つまりこの場合、アップルパイの時価評価額は、アップルパイ取得時の価格を帳簿上の価格とその時点での損益を足したもので割ることで算出できる。もちろんこれはある時空の一箇所でのバリューを示すものだから、シェダル-カフ-ツィー式を用いて銀河標準額を出し、これに惑星偏差を考慮すると……」


 ホワイトボードに、アトルはさらさらと数式を並べていく。『シェダル-カフ-ツィー式』の時点ですでにホワイトボードの上から三分の二は埋め尽くされていたのだが、アトルは容赦なくさらに字を加えていった。


「おっと、これだと少し字が小さいかな? 読みにくくないかい? スペースが足りなそうでね」

「だいじょうぶです、おかまいなく」


 それは事実だった。字が針の先ほどに小さかろうがビスケットほどの大きさだろうが、センの理解度には何の影響もなかった。


 アトルはホワイトボードの一番最後まできっちり埋め、「こんなところかな。どうだい、これでいいかな?」とたずねた。「ええまあ」と答えたセンは、その間に今夜のメニューのことを考えていた。今夜のメニューはすぐ考えついたので、翌日の朝食、昼食、おやつ、夕食とずっと考え続けていった結果、おそろしく栄養バランスの取れた一ヶ月の食事表が完成した。


 センがどうしてアトルを訪ねたかというと、『アップルパイ・トラスト・ファンド』についての情報を得たかったからだった。本当はアトルとはあまり顔をあわせたくなかったので、最初はコノシメイのところに(開発部のフロアに踏み込むという)危険を冒して向かった。しかしその時コノシメイはマネキンチャレンジの動画撮影のため硬直剤を開発しようとした結果、備品管理に厳しい総務社員にたいへんな叱責を受けている最中だったので、仕方なくアトルに聞くことにしたのだった。


「要約すれば、『アップルパイ・トラスト・ファンド』というのはアップルパイの取得権を担保とした証券を裏付けにした担保証券をメインの運用資産としているファンド、といわけだ。今銀河B地区で一番といってもいいくらい勢いがある」

「とてもよくわかりました」と今年一番に純度の高い嘘をついたセンは、ホワイトボードにならぶ文字を何かしらの呪文のようだと思った。類似した例として、かつてアクルックス星系に存在した惑星K1729は、土着のゲル状生命体による彼らの宗教書はすべて数式で記述されていたというのが有名である。彼らの祈りや箴言、預言、福音、黙示録にはきちんとした証明こそなかったが、新しい発見や未解決問題への解答などが多数含まれており、経典を求めて多数の数学者がK1729を訪れた。しかしながら秘蔵の経典を得るためにはまずは僧侶としての修行を積まねばならず、結果としてK1729の僧侶数は膨れ上がり、一大勢力となった彼らは軍事力と結びついて巨大な威力を持ち、『天の川の渦、波動関数の収束、K1729の法師』は思いのままにならないもののたとえとしてよく使われた。しかしながらK1729が周辺の有力惑星とぶつかったとき、もともと数学者であった僧侶たちはなんの戦力にもならず、結局K1729は焼き討ちに遭いその軍事力と経典を喪失してしまった。


「あ、でもちょっと待ってください。証券化といえば、従業員プロジェクト証券オプションについて聞きたいことがあったんですよ。なんでも従業員プロジェクト証券オプションとやらを購入しておけば、ずいぶん利益をあげられたそうじゃないですか。でも、私には誰も一言もそんなことを……」

「え? ボットから通知がこなかったかい? 従業員プロジェクト証券オプションの対象になれば自動で通知がくるはずだよ」

「ボットってグループウェアのやつですよね? 来なかったですよ、まったく」

「おかしいな。証券購入資格があれば絶対来るはずなんだけど。証券購入資格は持ってるよね? 一応試験はあるけど、落ちるほうが難しいってくらいだし、社員はほとんど全員取ってるはずだよ」

「資格」

「そうそう、入社時に受けただろ? あれだよ。おかしいな、一度問い合わせてみなよ」




『発行する株式の全部を発起人だけで引受け設立することを何というか、次のうちから正しいものを選べ』


 センは模擬試験の紙をびりびりとやぶき、風に乗せて捨てた。証券購入資格の試験は、センが入社後一ヶ月のタイミングで受けたもので、センはしっかりと落っこちていた。今見直しても、どうも門は糸が通れるくらいの大きさくらいしかないようで、センは従業員プロジェクト証券オプションについてははじめから聞かなかったことにすることに決めた。


 バルコニーは、セン以外の社員の姿はなかった。カフェテリアで買ってきたサンドイッチと無料のコーヒーが置いてあるベンチにセンは座った。サンドイッチの横にはミニクッションが、その上にはウスキイロアヒルが置いてあった。ボーナスももう消え、また今までどおりの昼食代にも困る日々が戻ってきた、とセンは考えた。


 でも今までとは一つ違うところがある、とセンはウスキイロアヒルを見ながらサンドイッチを噛んだ。サンドイッチを食べるのも一人ではないし、仕事をしていても見守ってくれる。ウスキイロアヒルのつぶらな瞳を見ていると、ファンドだの証券だの資格だのはどうでもよくなり、あたたかな気持ちが広がってくるのを感じた。


「一人でこんなところで食事ですか?」


 和んだ気持ちでいたところに急に声をかけられ、センは驚いた。声のするほうを見ると、一つ上の階の窓のふちに、エリアマネージャーが立っていた。


 エリアマネージャーはなんでもないようにして上の階からひょいと飛び降り、センの座っているベンチのそばへとやってきた。センは慌てて口の中のサンドイッチを飲み込み、コーヒーで胃の中におしこんだ。


「どうしたんですか? 何か仕事でも……」

「ちょっと気になることがありましてね」

「何ですか?」

「アップルパイ・トラスト・ファンドは知ってますか?」

「いや、はい、そりゃあもちろん。だってアップルパイを作ったのは私ですよ。で、そのファンドがどうかしたんですか?」

「ええ、そのトレンドがですね」


 エリアマネージャーはそこで一旦言葉を切り、ウスキイロアヒルに目を向けた。


「ちょっと、そのゴムのアヒルを持ち上げてみてくれませんか?」

「え? あ、はい。どうですか、いいでしょう。ウスキイロアヒルちゃんっていうんです」

「えーと、そうやって手のひらに乗せるのではなく、あなたのその二本の指ではさんでもらえますか。そしてもう少し上、の少し右、そのまま前に、そうです」


 よくわからないまま、センは言われたとおりにウスキイロアヒルを持ち上げた。その瞬間、爆発音とともに手にものすごい衝撃が走った。肩に外れるのではないかというほどの力がかかり、腕がしびれた。少しの後、気づくと手に持っていたウスキイロアヒルは姿を消し、代わりに地面に黄色いしみができていた。


「やっぱり狙撃ですね。そうそう、話を戻すと、アップルパイ・トラスト・ファンドがあまりに急激に値上がりしているために過激な手段で利益を得ようとしている一部の勢力が観測されるようになってきましてね。たとえばオリジナルのアップルパイの製作者を殺害して、混乱に乗じて空売りによる売却益を得るとか。このままだと混乱を招く一方なので、なんとか事態を収拾しようと思いまして、やってきたわけです」


 エリアマネージャーのその言葉は、地面にひざまずいて黄色いしみをなんとかはがそうとしているセンには届かなかった。

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