第6話 女神エルミーアと雫川日名子
定刻通りに現れた女神エルミーアにそれとなく訪ねた前払いの件については、豊満な胸と透け透けレースのセクシードレスと、そして曖昧な言葉で濁されて終わった。
結局のところ予定通り日名子さんの推薦を行う事になり、ハンバーグの画像を見せて「まあ美味しそうですわ!」と叫んでもらい、涎を垂れ流してもらった事でほぼ決まりである。
俺は心のどこかで、女神エルミーアが日名子さんじゃ駄目だと言ってくれはしないかと、小さな期待を抱いていた。その期待が正しい物なのか、誰かを幸せにする期待なのか、もしくは不幸にしてしまう期待なのか、全く判断が付かなかった。
だから、そんな期待を抱いている事など微塵も表には出さず、ただ淡々と交渉を済ませようとしている。
「女神エルミーア、実はですね、今日ここに雫川日名子さんに来ていただいてます。お会いになられますか?」
俺のその言葉に、女神エルミーアは目をキラキラさせて頷いた。
「ぜひお願いしたいですわ。あんなに美味しそうなハンバーク、わたくしも味わってみたいものですわ~」
もう既に頭の中はハンバーグ一色の様子である。
俺は応接室の戸を開けて顔を出し、日名子さんを呼んだ。
「女神エルミーアがお会いになりたいそうです。どうぞ」
「あ、はい!」
日名子さんは緊張した様子で応接室へと足を踏み入れた。
目の前にいる女神に、足が震えている。
「ふふふ、そんなに緊張なさらないで。ヒナコさん」
「はい……女神エルミーア様」
日名子さんは深く一礼し、俺の隣へ腰掛けて女神エルミーアと対面する。
「ヒナコさんは素敵な女性ですわね。流石にリコさんには敵わないかもしれませんけど、とても可愛い女性ですわ。それに、心が綺麗」
「心が……ですか? 私の心が?」
信じられないとでも言いたげな日名子さんに、女神エルミーアは小さく頷いた。
「ええ。傷ついて、ボロボロになってしまっても、ヒナコさんの心は綺麗なままですわ。魂が潤っているのは……ミスター神野威のお蔭かしら?」
少々悪戯っぽい笑みで俺と日名子さんを交互に見遣る。
この女神、全てお見通しなのだろう。そこら辺はやはり神、俺達人間ではどうにもならない。
「ヒナコさん、本当によろしいの? ミスター神野威のような魅力的な人間はそうそういませんことよ? 女神のわたくしでさえ、この身を捧げてしまいたいと思う事もありますもの」
おいおい何を言う。
「そうなんですか……モテるんですね。でも、私は大丈夫です。昨夜から神野威さんと一緒に過ごした時間を、私の一番素敵な想い出として、一番新しい想い出として、鮮明なうちに、色あせないうちに、お別れも済ませたい」
日名子さんはそう言うとちらっと俺の方をみて微笑み、また女神エルミーアへと向き直って言葉を続けた。
「私は弱いから……このまま生きていたらきっと、辛いことが沢山あって、色んな事に負けて、逃げて、今の幸せな想い出も色あせて、自分を嫌いになっちゃう」
そしてテーブルに頭が付くんじゃないかと思うほど、頭を深々と下げた。
「だから……女神エルミーア様、お願いします! 私を、異世界に転生させてください!」
「ヒナコさん、顔をお上げになって。貴女の言葉、わたくし重く受け止めましたわ」
女神エルミーアは笑顔で日名子さんの手を取った。
「少しばかり安心材料を差し上げますわね。ヒナコさんが行く予定の異世界はほのぼの系ですの。残酷な事象は殆どありませんのよ。それから、ヒナコさんにはお姫様になってもらいますの」
「お姫……さま?」
顔を上げた日名子さんの視線を覗き見るに、既に焦点が合っていない。
これは異常事態というわけではなく、女神エルミーアが何かしらの映像を見せているのだろう。
「そうですわ。緑豊かで、平和で、美しい国の、とても賢い王様と、とても美しい御妃の間に生まれる、それはそれは美しく華やかなお姫様ですわ」
「美しく……華やか……」
女神エルミーアは日名子さんの様子を注意深く観察しながら、優しい視線で見守りつつも言葉を続けた。
「そのお姫様にはやがて……いいえ。ここまでにしておきましょう。明日の事は分からないほうが、人は素敵に輝けますものね。でも、だから安心なさって。ヒナコさんは絶対に楽しい人生を送りますわ」
「楽しい……人生……」
焦点の合っていない日名子さんの瞳から、一筋の雫が零れ落ちた。
女神エルミーアは日名子さんの手を優しく握り、一息ついて俺の方へ視線を向けてこう言った。
「そして、絶対に幸せになる。いいえ、このわたくしが幸せにしてみせますわ」
「女神エルミーア……感謝します。日名子さんを、宜しくお願いします」
「あれ……私……あの」
映像を見終わったのか、日名子さんが正気に戻る。
「ふふふ。二人ともお似合いですのにね。でもヒナコさんにはもっと素敵なイケメン皇子をご用意してますのよ」
「イケメン皇子!?」
食いついた日名子さんに、女神エルミーアはハッとなって口許に手を当てた。
「あらいやだ。ついポロッと出てしまいましたわ」
明日の事は分からないほうが素敵だと言いつつ、言いたくて仕方のない様子である。
女神エルミーアは続けた。
「ところでミスター神野威、ヒナコさん。わたくしから一つご提案がありますの」
「なんでしょう」
「はい」
女神エルミーアは、今度は豊かな胸がポロッと出てしまいそうなくらい前かがみになると、顔を寄せて小声で言う。
「これはここだけの話ですけれど、ヒナコさんを今の姿のまま、一度転移させたいと思っていますの。よろしいかしら?」
「どういう……事ですか?」
「転移?」
日名子さんはさっぱり分からないといった雰囲気である。
「わたくしの世界へ一度転移していただき、わたくしの世界で生を終え、私の世界で転生していただきたいの」
その提案に、俺は何か違和感を覚えた。そうする理由など一つもないからだ。
「女神エルミーア、それはちょっと」
俺の言葉に、女神エルミーアはさらに顔を近づけてくる。
内緒話風味にする必要など何処にもないのだが、本人がそうしたいのだから仕方がない。
「ミスター神野威、わたくし、どうしても……」
少し間をおいて、頬を赤らめて続けた。
「早くヒナコさんのハンバーグが食べたいんですの。お料理が出来る年齢に成長するまで待つなんて、とてもとても耐えられませんわ!」
なんたる我儘。
人間一人の生を終わらせるという会話に、なんたる不謹慎。
「女神エルミーア、そんな事は――」
言いかけた俺の言葉を、日名子さんがさらってしまう。
「女神様、わかりました。今日中に行けるように身の回りを整理します!」
「まあお話の早い事。流石はわたくしの見込んだヒナコさんですわ。さっそく今晩、お迎えにあがりますわね!」
「はい!」
当人同士がここまで合意している以上、ただの仲介役である俺に出る幕はない。
「ではミスター神野威、ヒナコさんは一度転移させてから、わたくしの世界で転生させる事に致しますわ。人間界での事はご心配には及びません事よ。わたくしの力と、わたくしが使役する見習いの神々にフォローさせておきますわ」
行方不明として騒がれる事がないように、人間界で神の力を使うつもりらしい。
それは本来、神にとって大きな負担になる事なのだが、それ以上にハンバーグが食べたいという事か。
「分かりました。日名子さんがそれでいいなら、私に止める権利はありません」
「ミスター神野威、流石ですわ。それではお支払いとまいりましょう、お手を」
女神エルミーアが差し出した手に誘われるように、俺は右手を差し出した。
「少しばかりの幸福をお届けしますわね」
そう言って両目を閉じると、俺の手に触れている女神の手が光りを放ち、それは徐々に俺の方へと移り消え去った。
「ミスター神野威、これで貴方に少しばかりの幸福が訪れますわ。昨日前払いして差し上げたのは、私からのキスだけ。あれはただ、ほんの少しミスター神野威に喜んでもらいたかっただけですのよ」
早い話が、俺を少しばかり誘惑したということか。
いや、それよりもだ。
昨日の前払いは、あの行為そのものが幸福だったとするなら、昨日の日名子さんの行動に神の影響力は無関係という事になる。
「神野威さん、私と会う前に女神様にキスしてもらったんですか? ちょっと幻滅です」
「いやいやいや、あれは挨拶みたいなものでしょ。ほら、外人さんがよくやる、ね? 女神様だってさ、大きなくくりで言ったら外人さんみたいなもんだし」
しどろもどろになる俺を見て、日名子さんは随分と楽しそうだ。
同じく、女神エルミーアも楽し気に笑う。
「ふふふ。ではミスター神野威、ご機嫌よう。ヒナコさん、今晩十時頃でよろしいかしら?」
「はい! ばっちり準備しておきますね。食材も買っておいたほうがいいですか?」
「ふふ、お任せいたしますわ。わたくしの世界で食材の召喚も出来ますけど、ヒナコさんが調達した方がイメージ通りの物が出来ますものね」
「はい! どうせもうお金も必要ありませんし、パーっと奮発しちゃいます!」
見違えるほど元気いっぱいになった日名子さんの姿を見て、俺は自分に「これでよかったんだ」と言い聞かせる。
そうして女神エルミーアが扉の向こうに消えた。
日名子さんはせわしなく帰り支度を開始してる。これでもう、この子に会う事もない。本当のさようならの時間。
応接室を出ようと戸の前にさしかかったところで、日名子さんが振り向いた。
「神野威さんっ」
そして思い切り両手を広げて俺を誘う。
「忘れてません? 約束のハグ!」
「ああそうだった。合格おめでとう、日名子さん」
それは、異世界へ転生しようとする希望者と、転生させようとする者とが交わすには、少々きつすぎる、深い想いの詰まったハグになった。
「じゃ、私、帰りますね。身辺整理しないと」
ゆっくりと離れる。
名残惜しいのはお互い様だろう。
それでも少なくとも俺は、日名子さんよりも十も年上で、男でもあるし、社長でもあるし、色々あって情けない顔は出来ない。
「そっか。うん。いってらっしゃい」
「はい。いってきます!」
日名子さんは元気よく言うと、里琴ちゃんとも爽やかに挨拶を交わして事務所を後にした。
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