第4話 転生候補者面接の重み
彼女が異世界渡航希望カードの発行を希望したのは、去年の暮れの事である。
当時の発行希望理由の文章には、父親から性的虐待を受けて育ち、それを知った母親に連れられて埼玉に移り住んだ事。それから六年後の去年、その母親をガンで亡くし、そして本人は重い心的外傷後ストレス障害の症状と、双極性障害に悩まされているという事。
その他にも幾つか、どうにも明るく話せるような内容ではない、そんな文章がぎっしり詰め込まれていた。
俺はそんな彼女に電話をかけたその足で、すぐに埼玉県に一人で住まう彼女の部屋を訪れていた。
「すいません、態々足を運んで頂いて」
体調が良くないのだろうか。
青白い顔でコーヒーを出してくれた彼女の名は、
二十歳になったばかりの日名子さんは特別美人というわけではないが、一般的には可愛い部類に入る容姿を持っていると思われる。そうではあるのだが、表情はあまりに暗く、生のオーラを感じられない。それ程までに心を病んでしまっている様子だった。
「いえ。気にしないでください」
異世界転生を奨めるという事は、その人に死を奨めるという事である。
これ程気の重い仕事は無い。
「始めに申し上げておきますが、私は神ではありませんので、私には何の決定権もありません。ただの仲介者である事を忘れないでください」
「はい……」
そして、早々ではあるが最も大事な質問を投げかけた。
ここを避けては通れないのだ。
「今の生活に、未練はありませんか?」
「ありません」
即答だった。
このまま放っておけば、彼女は自ら命を絶つような決断さえしかねない。
「分かりました。ですが一つだけ忠告しておきます。異世界に転生したとしても、今よりも幸せな日々が約束されるわけではありません。それどころか、今よりも辛い境遇になる可能性さえります。それでも貴女は、異世界への転生を望みますか?」
「はい……お願いします」
彼女にとって希望とは、既にこの世界には存在しないのかもしれない。
「そうですか。分かりました」
俺は一言だけ答えると、一枚の誓約書を取り出した。
もう既に、彼女に選択肢はないのだろう。
「ここにサインを頂ければ、後は神がどうするかを判断します。もし、神の意向に沿うようであれば、一度私のほうから日名子さんに連絡を入れます。その後、異世界へ誘う神からコンタクトがあるでしょう。我が社の会員が異世界転生する場合、神々には特別な処置をしてもらっています。それは、苦しむ事のない死です。そこだけは私が約束しますので、安心してください」
俺の言葉を受け、日名子さんの両目から涙が零れ落ちた。
「有難う御座います……」
人に死を奨め、感謝される。
この仕事を始めるまで、それがどんな事か、どれ程重く、どれ程辛い事かを考えてはいなかった。
だが俺がこの仕事をする事で、神々の勝手な都合で幸せな生活を奪われる人間が一人でも減るのであれば、俺が辛い事など構わない。今となっては本気でそう思えるようになっている。
日名子さんは涙を拭いならが、誓約書の署名欄にサインした。
「……こんな私でも、神様に選んでもらえるのでしょうか」
選んでもらえなかったら、日名子さんはどうするつもりなのだろうか。
だがそんな事は聞きたくない。せめて、異世界へ転生できるという明るい希望を持っていてもらいたいのだ。
「大丈夫。今回の依頼は女神エルミーア様という、ほのぼのとした雰囲気の優しく美しい女神様からです。私とはそこそこ長い付き合いでして、私がお勧めすれば選んでいただけると思いますよ。約束は出来ませが、精一杯、私も頑張ります」
そして俺は、一つのお願いしてみる事にした。
「日名子さん、一つ私からお願いがあるのですが、聞いて頂けますか?」
少し驚いたような表情を見せ小さく頷いた彼女は、恐る恐るといった雰囲気で口を開いた。
「あの、遠慮なく言って下さい、何でも構いません。異世界へ転生できるのであれば、何でもします。私……あの、何でもします。シャワーもすぐに使えますし、本当に、何でも」
これは拙い。
いらぬ誤解をされたようだ。
だが日名子さんのこの言葉で、俺は彼女がどんな人生を送って来たのかを想像してしまった。きっと彼女の悲し気な瞳には、男性というのは一様に、女性を性のはけ口として考える生き物に映っているのだろう。
「いえ、そういった種類のお願いではありません。まあしいて言うなら、転生が決まったらハグくらいはしておきましょうね。でもお願いはそうじゃないんですよ」
俺は持参の鞄から、ここへ来る途中にスーパーで買ってきた食材を取り出した。
「得意料理、ハンバーグと書いてあったので材料を買ってきました。私に作ってみて下さい。写真に撮って、女神様にも見てもらいましょう」
なるべく優しい笑顔を添えて、彼女の目の前に食材が入ったスーパーの袋を置いた。
すると日名子さんの両目から再び、今度は更に大粒の涙が零れ落ちた。
「ごめんなさい……私てっきり、エッチな事を頼まれるのかと思ってしまいました。本当にごめんなさい!」
泣きながらも、はっきりとした口調で頭を下げる。
「気にしないで下さい。さ、どうします? ハンバーグ、手伝いましょうか?」
「大丈夫です。女神様が『美味しそう!』って叫ぶくらい、素敵なハンバーグを作ります! ちょっと待っててください!」
少しだけ生気が戻った瞳で、涙を流し続けたまま、日名子さんはとびっきりの笑顔を見せてくれた。
なんだ、まだそんな顔になれるんじゃないか。
俺はそんな事を想いながらキッチンに立つ後ろ姿を見つめ、日名子さんの新しい人生に、多くの幸が訪れる事を願わずにはいられなかった。
異世界を司る神々が、この世界の人間を連れて行く事は珍しい事ではない。
当人が望もうと望まなかろうと、勝手な都合で連れて行ってしまう。
中には、連れて行く人間が見当たらなかったというそれだけの理由で、たまたま目に付いた誰かに死を提供するような神までいる有様である。
そして決まってこう言うらしい。
『こちらの手違いでこうなってしまった。大変申し訳ない。お詫びに別の世界で新たな命を与えよう』
特に然したる理由もなく、勝手都合で死を与え、はなから異世界に送り込むつもりで死を与え、それを『手違い』だと言い切り、挙句の果てに恩着せがましく新たな人生を与えるのだと宣う。
神というのは全くふざけた存在である。
そんな神々にしてみても、異世界へ行く事を希望する人間というのは実に都合がいいらしい。それはそうだろうと思う。
心の準備が出来ているだけではなく、異世界に行くという事につてい様々な予備知識を得ているのだから、神が説明する手間も省けるし、本人も異世界で上手く立ち回るであろう。
俺のやっている仕事は、異世界へ行きたい人間と、異世界へ人間を呼びたい神の、いわばマッチングを担当しているようなものだ。
「あの、神野威さん……タネを少し寝かせるのに時間がかかるので、もしよかったら少しお話しませんか? 私、その、男の人とゆっくりお話した事がなくて、正直に言うとちょっと怖かったんです。でも神野威さんなら……」
エプロン姿の日名子さんからの提案に、俺はゆっくり頷いた。
「いいですよ。今日はこのあと特に予定もありませんし、時間は気にしないでください。それとですね、私、お話だけは得意なんです。それ以外に取り柄が無くて」
出来るだけ明るい雰囲気になれるよう、少しお道化てそう答えた。
「よかった……椅子だと疲れちゃうので、よかったらソファーにしませんか? 一時間くらいかかりますので。あ、お酒召し上がりますか? 私は飲まないんですけど、母が残したワインがあるのです」
亡くなったお母さんが残したワイン。
この世を去る決意をした彼女にとって、そのワインはどんな意味があるのだろうか。
俺はゆったりとしたソファーに腰を下ろし、手渡されたワインボトルをまじまじと見つめた。ワインの銘柄なんかを羅列出来る程グルメではないが、そのラベルがコンビニで手に入るような物ではない事くらいの判別は付く。
「いいんですか? お母さまがお好きだったワインだったりするのでは?」
「はい。母はワインが大好きで大好きで。父と離婚した後は、思い切りワインを楽しめると喜んでいました」
そんなお母さんが残したワインを、俺に出してしまうのか。
少し考えていた俺に、日名子さんは言葉を続けた。
「神野威さんさえよろしければ、神野威さんに飲んでもらいたいのです。母は亡くなるまで、ずっと私の事を心配していました。こんな私に、希望を、新しい命を、新しい人生を、神野威さんは運んでくれるわけですから。母も感謝してくれるんじゃないかと思います」
重いな。
言い方を変えれば、俺は日名子さんに死を運んできた死神だ。
日名子さんのお母さんが、俺に感謝なんてするのだろうか。
いや、する筈もない。
「そうですか、有難う御座います。では、遠慮なく」
そうだとしても、このワインは日名子さんの想いとして頂こう。
お母さまへの贖罪になるだなんて烏滸がましい事は思っちゃいないが、日名子さんの想いは全部叶えてやりたい。
正直、ワインはあまり飲まない。
悪い酔いするから苦手なのだ。
これを一本飲み干すとなれば、明日の女神エルミーアとの面談は二日酔いと戦いながらになるだろう。
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