第5話 間違えてしまう事もある
窓から差し込む陽射しに、気怠い身体を起こそうとする。
だがそうもいかない現実に直面した。
これは完全にやってしまった。
俺はどんなに酔っぱらっても記憶を失う事がない。
どれ程醜態を晒そうとも、すべて覚えているから恐ろしい。忘れてしまえる人間が羨ましいと思った事も一度や二度ではない。
少し動揺しつつも、枕元に置いてあったスマホに右手を伸ばし、時間を確認した。
既に午前九時を回っている。
左腕に乗った日名子さんの頭を動かさぬよう、右手だけで操作して里琴ちゃんにメッセージを送る。
――ごめん、午後からいきます。
そのメッセージに既読が付いた瞬間、画面が一瞬で切り替わった。『西村里琴』の表示と共に、着信を知らせる画面である。
仕方ない。
「もしもし、おはよう里琴ちゃん」
『おはようございます。体調悪いんですか?』
「うーん、ちょっと飲み過ぎたかな。ごめん、女神エルミーアとの面談までには行くよ」
『はーい』
たったそれだけの会話だが、当然のように日名子さんを起こしてしまったようだ。
起き抜けの第一声がどんなものになるのか、少しばかり気がかりである。
「おはよう神野威さん……今の、彼女さんですか?」
「お、おはよう。いや、うちの事務員さんだよ」
俺がそう答えた瞬間、日名子さんの左腕が衣服を纏わない俺の背中にきつく絡まった。
「ふーん。そうなんだ」
それだけを言って俺の胸に顔を埋める。
「あのさ、今日の事なんだけど。午後一時から女神エルミーアとの面談があるんだ。もしよかったら一緒に来ない?」
俺の内心は焦りに満ち溢れていた。
日名子さんを傷つけるつもりは毛頭ない。こうなってしまった以上、日名子さんが俺との関係に未練を抱き、異世界転生をキャンセルする可能性も十分に考慮しなければならないだろう。
そうなった場合、俺は日名子さんを大切にしつつ、別の候補者を探さなくてはならない。
「会えるんですか?」
「ああ、別に会わないからといって不利になるとかはないよ。どうする?」
「一時ですか?」
「うん。何か予定あった?」
俺の問いに、日名子さんは小さく首を振るだけで何も答えなかった。
言葉の代わりだろうか、彼女の可愛らしい舌が俺の胸を這い、そのまま首元へと上がって来る。
「神野威さん、午後まで時間ありますよね」
「う、うん」
昨夜の日名子さんとは違い、妙に妖艶な気配を漂わせる。
「じゃあ……私の好きにさせてもらいます」
まいったな。
女神エルミーアが前払いした幸福、こんな形で発揮されてしまったのだろうか。
こんな刺激的な朝は、いつ以来だろう。
昨夜、俺は相当酔っぱらった。
そもそも晩酌をするタイプではないので、久しぶりのお酒だった事もある。
その上酔いが回りやすいワインで、それを日名子さんがガンガン勧めてくるものだからついつい飲み過ぎた。
記憶を失う事はないが、判断力が鈍る事はままある。
とても美味しいハンバーグだった。それは間違いない。
食事の後、彼女は食器を手にキッチンへと向かった。
俺は洗い物をするのだとばかり思っていて、ふわふわした頭でぼんやりとテレビを見ていたのだ。
だがしばらくして戻って来た彼女は、シャワーを浴びてバスタオル一枚の状態だった。キッチンに運ばれた食器は、当然ながらシンクに放置されたまま。彼女が洗ったのは食器ではなく、自分自身だったという事だ。
そして一糸纏わぬ身体を預けられた俺は、そこから大いに踏み外して今に至り、そして今また、朝から完全に踏み外してしまった。
日名子さんの部屋から我が社の事務所までは一時間程度。だが女神エルミーアとの面談前に飯は済ませておきたい。
結局、刺激的な朝はその後多少の忙しさとなり、交互にシャワーを浴びた後は小走り混じりに駅へと向かって歩き出す。
その道すがら、日名子さんは実に清々しい笑顔でこう言った。
「私、死ぬ前に一度でいいから、素敵な男性に優しく抱かれたいって思ってたんですよ。それが叶いました。これでホントに未練がなくなっちゃいました」
少し照れくさそうに、頬を染めてそう言った日名子さんの横顔は、とても可愛くて魅力的だった。
思わず「行かないで」と言いたくなってしまうような、そんな日名子さんと俺との物理的な距離は付かず離れず、昨夜や今朝の関係が嘘のように、昨日初めて会った時と変わらなくなってしまっていた。
若い子の考えている事はいまいち分からない。難しい。
他愛もない会話が弾み、ファストフードで雑な食事を済ませ、秋葉原の雑居ビルに辿り着く。
「ここの二階が事務所なんだ」
「女神様と会えるんですね。緊張してきました」
はにかむ日名子さんを気遣いながら狭い階段を登り、事務所のドアを開ける。
「おはよー」
「おはようございます。社長……おろ?」
「あ、お世話になっています。雫川と申します」
ペコリと頭を下げた日名子さんに、珍しく驚いた様子の里琴ちゃんが慌てて椅子を奨める。
「あら、ごめんなさいどうぞ座って。希望者さんですよね、事務員の西村です」
リストに上がった名前を把握しているあたり、優秀な事務員さんだ。
「今日、出来れば女神エルミーアと面談させたいと思っているんだ」
里琴ちゃんは日名子さんにお茶を出し、なにやらそわそわと落ち着かない。
「そうだったんですね。私てっきり……いや、何でもないです。それより社長、エルミーア様と面談するなら、ヒゲ、綺麗にしてらっしゃい」
「ん、そうだね。ちょっと剃ってくるわ」
洗面台でシェービングジェルを手に取ると、事務所側から二人の会話が聞こえてきた。当人たちは俺に聞こえていないつもりなのだろうか。
「あの……西村さんって、その、彼女さんだったりしないんですか?」
「彼女? 誰の?」
「神野威さ……社長の」
「まっさかあ。今の所、私には彼氏三人と彼女が二人いるけど、残念ながら社長はその中に入ってないの。これ内緒よ?」
「彼氏さんと彼女さんですか……凄いですね」
「まあねぇ~」
そんな話を聞かされている日名子さんは、どんな表情をしているのだろうか。
髭を剃り終え、事務所に戻り、改めて昨日書いてもらった誓約書を手に取る。
もう一度聞かないといけないだろう。
「さてと。雫川日名子さん。改めて確認します」
俺は誓約書を日名子さんが見えるように持った。
だが、そこで言葉が止まってしまった。ここで確認し、日名子さんが頷いてしまったら、俺は彼女に会えなくなる。かと言って、引き留める事が彼女にとって幸せな事かと問われれば、そうだと言い切る自信もない。
惑う俺を叱責するように、里琴ちゃんの咳払いが響いた。机の下に隠された里琴ちゃんの右手には、あのハリセンが握られている。
俺は一つ大きく息を吸って、意を決して言葉を口にした。
「この世界での生活に、未練はありませんか?」
昨日会った日名子さんとはまるで別人のようだ。
多少の化粧をしているせいもあるだろうが、生気の感じられなかった昨日の彼女と同一人物とは思えない、明るい笑顔で微笑み、迷うことなく口を開いた。
「はい、ありません」
俺は思い切り大きく息を吐き出したくなったが、どうにかそれを飲み込んだ。
「分かりました。では間もなく女神エルミーアが到着します。面談が可能になったら呼びに来ますので、少しこの場でお待ちください」
それだけを言い残し、足早に応接室へと逃げ込む。
これ以上日名子さんの笑顔を見ていたら、俺がどうかしてしまいそうだったからだ。
いい歳して何をやっているんだか。
女神エルミーアが前払いした幸福だとは思えない。これじゃあ少しの幸福どころか、少しの失恋である。
いや、そもそも二十歳の女の子と一晩過ごしただけで、失恋だとか思ってしまう三十歳もどうかと思う。これは明らかに俺が悪い。
予想外にイイ思いした、くらいに、軽く受け流せるような男だったら楽なのだろう。
女神エルミーアが来たら、それとなく前払いの件について聞いてみたほうがよさそうだ。
神々がくれる少しばかりの幸福は、場合によっては凄い力を発揮する事もある。
だから、今回の件がそうであっただけならば、そう割り切れる気がするんだ。
逆を言うと、そうでなければ割り切れやしないだろう。
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