第7話 後悔なんて似合わない

 日名子さんを見送ってからしばらくの間、俺は応接室に留まって心の整理を付けようと躍起になっていた。


 だがよくよく考えれば、整理もクソもない。

 一人の転生希望者を、一人の女神に紹介し、見事なまでのマッチングが成立したという事実がある。ただそれだけだ。


 ただ、それだけ。


 俺はどうにか踏ん切りをつけて事務所に戻ると、そこでは里琴ちゃんが何やらそわそわと事務作業に追われていた。


「どうしたの里琴ちゃん。何かあった?」

「いえ、何も……別に。なんかちょっと落ち着かなくて」


 ここ最近はずっと転移者や召喚者を送り出す仕事が続いていた。


 前回の転生者は半年以上前になるが、無職ニートの大柄なおじさんだった。その前も同じような状況で、寧ろ転生させてあげてよかったと思えるような人だった。

 それよりも前の転生は、もう三年程前になる。重病を患って余命幾ばくもない状況の少年を、ご両親からの依頼で転生させた。これも、転生させるに至って良かったと思える案件だった。


 今回のように見た目が美しく、自分の足で歩き、自分の意思で行動できる人間を転生に送り出したのは初めての体験である。里琴ちゃんなりに感慨深い何かがあっても不思議ではない。


 時計を見ると、間もなく我が社の定時である十七時三十分となる。


「あれ、もうこんな時間か」

「そうですよ社長。……って、ああもう、言っちゃます!」


 里琴ちゃんは腕まくりする真似をしながらズンズンと接近し、俺の胸を突きながらマシンガンのように言葉を並べたてた。


「あのですね、渡航希望者とそういう関係になってしまう事を悪だとは言いませんけど、なるべく自重してください。じゃないとどんなトラブルになるか怖くて想像したくもありません! それと、いい大人なんですからね?」


 実に痛いところを突いてくる。

 里琴ちゃんの言葉は続く。


「女神様に篭絡されるならともかく、二十歳の女の子ですよ? 私と全然変わらない年頃の女の子に手玉に取られて、その上フラれて傷心してるとか、見ているこっちはガッカリしますからね!?」


 痛いところどころか、ほぼぼほ図星だ。


「何で分かったのかな、日名子さん何か言ってた?」


 俺の言葉に、里琴ちゃんはさらに目を吊り上げて怒りを表現した。


「いいえ、雫川さんは何も言っていません。昨夜に雫川さんの御宅に訪問して面談した筈の人が、飲み過ぎたとか言って午前中休んで、昨日と同じスーツ、同じシャツで、しかも、しかもですよ? 雫川さん同伴で首にキスマークまで付けて出社してきたら、気付かないほうがどうかしてます!」


「え……」


 俺は慌てて振り返り、身嗜みチェック用の鏡で首元を確認した。

 だが、何も無い。


「はあ……やっぱりそうじゃないですか。ありませんよキスマークなんて。あったらヒゲ剃った時に自分で気付くでしょう? こんな簡単な誘導尋問に引っかかるなんて、本当にどうかしてます。大丈夫ですか?」


 その時、壁掛け時計が定時を知らせる音楽を響かせた。


「あ、定時!」

「え、この状況でも普段通りな感じ?」

「当たり前じゃないですか。私の定時は社長の失恋より重いんです!」

「ハハ……失恋ねぇ。いい歳して失恋って言うのかねこれは」

「じゃ、お先に失礼しまーす」

「はい、お疲れ様」


 何がどうあっても普段通りの里琴ちゃんのペースに、なんだか少しだけ元気を貰った気がする。


 俺は自席へ戻りパソコンの画面を見つめるも、そのまましばらく思考回路が上手く動作せず、やろうと思っていた仕事に取り掛かるのに三時間以上かかってしまった。


 やはり失恋のショックなのだろうか。

 まだ恋というには早い気もするのだが、ここ数年仕事ばかりで浮いた話が全くなかったのも事実。女性の肌に触れたのは、どれくらいぶりだったのだろう。

 セカンドバージンなんて言葉を聞いた事があるが、俺の場合はセカンド童貞みたいなものだった。


「異世界転生……か」


 かつて異世界という場所へ転移し、その世界を救い、この世界に戻って来た。そんな経験を持つ俺は、異世界という場所に行く事をどこか美化してしまっていた。


「この会社、どうしようかな」


 畳んでしまえばそれまで。

 里琴ちゃんはあの容姿と性格と能力だから、どこでも採用してもらえるに違いない。

 俺は、どうするかな。


 パソコンの液晶画面と向かい合い、里琴ちゃんからのメールに添付されていたファイルを開く。

 作ってくれたカワカド文庫の見積書をぼんやりと見つめ、同じく里琴ちゃんがリストアップしてくれた女神の一覧を見ながら、どの女神に依頼するかを検討してみる。


「異能バトル物とか言ってたよな。うーん……女神ヘステル、いや、こいつはやめとこう」


 マウスのホイールをカリカリと動かしながら、無理矢理仕事をすることで心を落ち着かせようとしたのだが、やはりどうにも無理だった。


「ああもう、やめた!」


 俺は足元にあった鞄に手を突っ込むと、日名子さんの部屋から貰って来た緑色のビンを取りだした。

 昨夜飲みきれなかったワインだ。まだ三分の一くらい残っている。


 俺はキッチンからガラスのコップを持ち出し、自席の後ろの窓を全開にした。

 例によって四角く切り取られた空は雲に覆われ、街の灯りを反射して灰色に染まっている。


「なんだよ、曇りかよ」


 時刻は間もなく十時を迎えようとしている。

 日名子さんの家の方角の空に、流れ星でも見えれば雰囲気もあるってものだが、こうも曇っていたんじゃ感傷に浸れる気もしない。


「ふざけた空だな。まあいいや」


 俺はそう独りごちると、持ってきた味気ないガラスのコップにワインをとぽとぽと注ぐ。

 自席の椅子をくるりとまわし、窓の外を見上げ、ワインで満たしたコップを空へ突き出した。


「日名子ちゃん、有難う。それと……さようなら」


 事務所の時計が十時を告げる。

 味気ない電子音の音楽がランダムで再生されるのだが、何種類かの音楽のうち、選曲が「もう恋なんてしない」だった事については、気が利く時計だと褒めてやってもいい。


 朧げながらに覚えている歌詞に該当するような、いっぱいの抜け殻もないし、二本並んだ歯ブラシもないし、君宛の郵便が届くこともない。残念ながら、俺と日名子ちゃんはその程度の関係性である。


 はたして大好きだったのか、それさえも分からない。

 熱く過ごしたひと夜と、刺激的だったひと朝の、たったそれだけの情事。

 三十にもなって、そんな事でこれだけ凹めれば、我が事ながらまだまだ純粋だと言える。

 そして同時に――


「そりゃ里琴ちゃんに怒られるわ」


 まったく情けない限りである。

 俺はコップのワインを一気にあおり、喉を鳴らして全てを胃袋へ押し込んだ。


「まだあるよ……」


 とぽとぽとワインを注ぎ、間髪入れずに飲み干す。


「これでラスト」


 またとぼとぼと注ぎ、最後の一滴までコップに落とし、それをまた胃袋へ。


「くぅー」


 ひとりで唸る。胃がカーッと熱くなってきた。

 そういえば夕飯まだだった。


「なんだよクソ」


 胃が熱いのと同時に、目が熱い。

 異世界から戻って来て、本当に我武者羅に働いて、稼いだお金を元手に今の仕事を始め、軌道乗り株式会社として法人化するまでになった。


 事務所をこの場所に構え、里琴ちゃんと出会い、多くの人達と出会い。


 そして今、俺はこの仕事を始めた事を後悔しかけていた。


「何やってんだホント」


 とめどなく流れ出る涙は、十二年分なのだろうか。

 ここまでどれだけ辛くても、どれだけしんどくても、涙が出た事はなかった。


 俺は両手で頭を抱え、机の上に落ち続ける自分の涙を見つめながら、怒りとも違う、悲しみとも違う、どうにも釈然としない感情と戦っていた。


 その時だった。

 不意に、事務所の入り口がガチャリと開く。

 顔を上げ、ぼやけた視線を入り口へ向ける。


「やーっぱりいた。日名子ちゃんじゃなくてごめんなさいね。って、それは傷口に塩か」

「あれ……何してんの、里琴ちゃん」


 こんな情けない姿を、一番見られたくない人に見られてしまった。

 かと言って急に涙が止まるわけでもなし、声の震えが止まるわけでもなし、大の大人が何やってんだか。


「何してんのって、そりゃないですよ社長」


 里琴ちゃんはつかつかと俺の所までやって来た。


「私は誰?」


 そう俺に問い、ティッシュの箱を目の前に突き出した。


「里琴ちゃんは里琴ちゃん。神様、仏様、事務員様」


 俺はティッシュを無造作に数枚取り、鼻水をぬぐう。


「そうじゃない。社長言ってくれましたよね? ビジネスパートナーだって」

「ああうん、そうだよ。それは本気で思ってる。ただの事務員さんとか、社員だとか、そうは思ってない。里琴ちゃんは――」


 俺の言葉は途中で遮られた。


 何に遮られたかと言うと、簡単な言葉で言えば里琴ちゃんのおっぱいだ。

 いやそうではなく、椅子に座っている俺を、里琴ちゃんがそのまま抱き締めてくれたわけで、必然的にそうなったという事で、断じて狙ったわけでもないし、里琴ちゃんだっておっぱいで口封じをしようと考えたわけじゃないと思う。


「あのね社長、パートナーだと思ってくれてるなら、辛いときは言ってくださいよ。私だって、一緒に……泣きますから」


 最後の言葉が鼻にかかり、少しだけ声が震えていた。

 どうやら俺を抱き締めたまま、里琴ちゃんも泣いてくれているらしい。


 顔を圧迫するおっぱいと、泣いてくれる里琴ちゃんの優しさに包まれ、俺はなんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになってきた。


「有難う里琴ちゃん。俺が悪かったよ。明日からも元気に頑張るから、約束するから」

「そうですよ。言っときますけどね、選んだのは社長だけじゃないんですよ? そこはお互い様なんです。私も、選んだの。私が選んだパートナーに、後悔は似合わないぞ」


 俺を抱き締める手に、一層の力が入る。そして俺の顔は、さらにおっぱいに沈められていく。

 それからどれくらいの時間が経過したのだろうか。

 お互いに無言のまま、ただひたすら心の奥に届くように抱き締め合ったままだった。


 ここまできたら、今晩は一緒にいてくれとか言ったほうがいいのか、それともこのまま応接室のソファーにでも押し倒したほうがいいのか。なんて思った矢先、里琴ちゃんからの言葉が先手を打つ。


「じゃ、私帰りますね。時間短いですけどこれ深夜残業ですから、しっかり残業代お願いします! じゃ、お先に失礼します!」


 照れ隠しなのか、本気なのか、里琴ちゃんは軽く涙を拭うと、颯爽と事務所を出て行った。

 残された俺は色々な感情がごちゃ混ぜになったあげく、最終的に妙な欲求だけを取り残されるという、色々と意味不明な状況に追い込まれている。


 けれどよく考えてみると、そうじゃないのかもしれない。

 四年も一緒にいて手も触れることが無かった里琴ちゃんが、急におっぱいである。

 いや、ただおっぱいで口封じされたというだけではなく、どことなく、心の距離が縮まったような、そんな気さえする。


 それはそれとしてだ。


「里琴ちゃん……そりゃモテるだろうな」


 頬に残った柔らかい感触を思い出してみる。


「大きくも大き過ぎず、程よい弾力。ありゃ完璧だな」


 しかもノーブラ。

 やっぱりうちの事務員さんは、どう考えても最強である。


 この後どう頑張っても仕事は手に付かなそうなので、俺は諦めて帰る事にした。

 そして事務所の戸締りを確認しながら、ある事に気付く。


「あ、里琴ちゃんのさっきのは……少しばかりの幸福か?」


 俺の人生に重要なキーパーソン、ビジネスパートナーとしての役割を持っている里琴ちゃんと、心の距離が縮まった事は少しばかりどころか大いなる幸福である。

 今夜は里琴ちゃんと女神エルミーアに感謝しながら、日名子ちゃんの幸福を祈って寝るとしよう。

 明日もまた、仕事である。




Episode1 儚い想いのその先に ~ Fin ~

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