スーツに着替えた異世界帰りの勇者さま

犬のニャン太

第一章 君の紡ぎし物語は

Episode1 儚い想いのその先に

第1話 異世界帰りの男が見つけた答え

 オレンジ色の空の下、遠く、遠く、俺の耳にそれが届いた。


――カラルン カラルン

    ――カラルン カラルン


 村の教会に掲げられている大きなベルを、誰かが盛大に揺らしたのだろう。他では聞けない個性の強い音色を、しっかりと俺に届けてくれた。

 聞き慣れた筈のそのベルの音が今日に限って悲し気で、昨夜のうちに散々泣き終えていたはずの俺の心を、遠慮なく大いに揺さぶってくれる。


 別れを惜しんでくれる者達に手を振り、俺は叫んだ。彼等もまた、叫んだ。

 二度と会えないかもしれないと思いながら、それでも『またいつか会おう』と喉が潰れる程に叫び合う。


 この世界で多くの事を経験した。

 希望、絶望、渇望。大切な人の有難み、大切な人の命の重み、過ぎ行く時間の中で薄れていく死者への想い。絶望の淵に立たされようとも、逃れられない現実。生きている者が、生き残った者が向き合うべき明日。


 幾つもの死線を潜り抜け、仲間と共に勝ち取った平和な世の中。

 俺は今、この世界に安寧を齎した英雄として沢山の人に見送られ、惜しまれながらこの世界を去ろうとしている。

 一言で表してしまえば味気ないが、これが俺の物語の『ハッピーエンド』なのだろう。


 夕日に染まる地平線では、いつまでも、いつまでも、多くの人が手を振ってくれていた。

 感謝される側なのかもしれないが、そんな事はどうでもいい。


「本当に有難う。俺は一生忘れない。この世界の事を、ずっとずっと忘れない。有難う……」


 感謝すべきなのは、こちら側だ。

 異世界を経験した者であれば、皆がそう思うだろう。一人では何も出来ない事を知り、多くの事を学び、沢山の人に支えられ、大きな目標を達成する事が出来たのだ。


 感謝という二文字では、絶対に表現しきれない想い。


 どうしたって伝えきれない膨大な想いは、このまま胸に抱えて現実世界に戻る事になりそうだ。

 いつか答えを見つけられるその日まで、人生の宿題として持ち帰る事になりそうである。



◆◇◆◇◆◇◆


 人間の住む現実世界に戻った俺は、我武者羅に働いた。

 来る日も来る日もアルバイトに明け暮れ、高校生活最後の一年は勉強や遊びになど目もくれず、ただ只管に金を稼ぐ事に費やした。辛うじて高校を卒業してからも、アルバイトを三つ掛け持ちして働いた。

 正社員になるよりもその方がよほど稼げたのだ。


 現実世界では異世界のようなご都合主義は通らない。上手くいかない事の方が圧倒的に多い。休み無しでは疲れるし、そりの合わない上司もいたし、男女関係で揉めた事もある。

 それでも、そんな事は魔王の討伐に比べればどうって事なかった。


 そうして稼いだお金を元手に、俺は持ち帰った想いを形にすべく動き出した。

 そして今では、ひとつの答えに辿り着いている。


「もう十二年か……」


 小さく独りごちて窓辺に寄る。

 異世界から戻って十二年。歳月の流れは実に規律正しく、多少の我儘さえ許さない。

 それによりつい先日、俺は誕生日を迎えて三十歳になった。

 控えめに言えば大人、辛辣に言えばオジサンである。


 俺の誕生日が過ぎると、世間では桜の花が散る季節になる。毎年この時期はあの頃の事を思い出さずにはいられないのだが、今年は三十歳という節目の年だからか、例年よりも少しばかり感傷気味だ。


 窓枠に腰掛け、コンクリートで四角く切り取られた空を見上げた。雲一つない、これでもかという快晴。


 異世界での出来事は、昨日の事のように鮮明に覚えているつもりだ。別れの日となったあの日の景色も、魔王を討ったあの日も、異世界へ旅立った最初の日の事だって思い出せる。



 ――プルルル


 もう少し記憶の世界に浸っていようと思ったのだが、事務所の電話がそれを許さなかった。


 受話器を取ったのは我が社の唯一の社員、西村里琴にしむらりこちゃん。

 俺のビジネスパートナーである。


「お電話ありがとう御座います。イセカイ・ソリューションズ、西村がお受けいたします」


 容姿端麗でスタイルも良く、イイ女盛りの二十一歳。

 何をやらせてもセンスがあり、裏表のない性格で信頼できる。

 そうではあるのだが、プライベートについては少々どころか相当な自由奔放っぷりな様子であり、特に色恋沙汰に関しては、驚く事に男女を問わず一年中話題に事欠かない。


 里琴ちゃんのリクエストで選定された可愛い制服を上手に着こなし、落ち着いたブラウン系の髪は触らなくても判る程にさらさらと美しく、背中の当たりで小さく揺れる。

 お洒落には気を配る子で、ネイルの装飾は三日程度で新しくなる。


 その里琴ちゃんが細く華奢な美しい指先で、電話機の保留ボタンを押した。


「社長、カワカド文庫の滝山さんです」

「あ……はいはい」


 この事務所を構えてから四年、里琴ちゃんの社歴はそれと同じである。


「お電話代わりました。神野威かみのいです」


 受話器の向こう側から響くのは、聞き慣れた甘ったるい声だ。


『社長、予算とれました~』


 それを聞いているだけで、こちらのやる気がケツの穴から漏れ出しそうな、ふにゃふにゃとしたアニメ声。俺には理解できないのだが、この声にはファンも多いらしい。


「そうなんだ。で、今回は何人?」

『えっとですね、異能バトル物がメインの作家さん四人です。あ、私の分もいれて五人にしてくれてもいいんですよ?』

「じゃあ滝山さんの分も請求していいんだね?」

『え? そこはサービスしてくださいよぉ。私も異世界いーきーたーいー』


 小学生かと思うような我儘を言うこの滝山さん、出版社としてはお世辞にも一流とは言い難いカワカド文庫の、その中でも実績の乏しい若手編集者である。


「駄目なもんは駄目。ヒット作を生み出したら連れて行ってあげるって言ってるじゃない」

『むう……分かりましたよーだ。でもヒット作ってそう簡単なものじゃないんですよ?』


 滝山さんは滝山さんで、どう考えてもモテるであろう女の子だ。

 年齢は里琴ちゃんより一つ上の二十二歳。何が悲しくて激務である編集者をやっているのか理解しがたいが、本人に言わせれば好きでやっている事なのだとか。


 そして何を隠そう、俺にとっては個人顧客第一号でもある。


「簡単じゃなくてもさ、このまま坊主が続くと良くないんじゃない?」

『そうですよ。だから社長の所にお願いする予算確保したんじゃないですか。でも、もし、もしもですよ? クビになったらイセソリュで雇ってくれますか?』


 イセソリュと呼ばれているのが、うちの会社の事。

 イセカイ・ソリューションズ株式会社。規模は極小、俺と里琴ちゃんしかいない。零細企業どころか所謂SOHOソーホーと呼ばれる部類である。


「あのね滝山さん。そんな事は会社の回線使って言う事じゃないでしょ。とりあえず見学の準備はしておくから、スケジュールの目処が立ったら連絡するよ」

『うえーん、分かりました。じゃあ連絡おまちしてまーす』


 カワカド文庫ってのは、新入社員にビジネスマナーすら教えないのだろうか。入社四年目になる滝山さんがこんな調子では心配になってくる。


 受話器を置いた俺は時計を確認した。


「そろそろか」

「そうですね。十三時から女神エルミーア様が来社予定です」


 今しがた入ったカワカド文庫からの依頼は後回しにし、俺は応接室で女神エルミーアの到着を待つことにした。


「里琴ちゃん、リストの更新はいつ?」

「はい、今日の十二時です」


 流石である。

 別に最終更新が昨日でも一昨日でも中身に変化は無いであろうが、それでも更新日時が直前であれば顧客と無駄なやり取りが少なくて済む。


「流石だね。夕飯奢ろうか」


 特別な感情はない。

 里琴ちゃんが十七歳のころから一緒に仕事をしているが、必要以上の感情を抱いた事はない。無論、男として正常な下心を胸に秘めた事は何度もあるのだが、それは実現したことが無いし、実現させようと努力したことも無かった。


「今日は先約がありますから遠慮します」


 アイドル顔負けの可愛い笑顔にウィンクを添えて断られれば、こちらとしては頷く以外にない。


「そっか。んじゃまた今度ね」


 俺も笑顔でそう返し、応接室へと足を踏み入れた。


 応接室の隅には、アパレルの店舗にある試着室と同じものを置いてある。カーテンで仕切られただけの、内部に大きな鏡がついたボックスだ。

 その試着室を我が社では『扉』と呼んでいる。


 そして時刻が十三時になった瞬間、その扉の中に光が差し込んだ。

 女神様のお出ましである。


「こんにちは。ご機嫌如何かしら、ミスター神野威」


 カーテンを手で開きながら姿を見せたのは、純白のレースで作られたドレスに身を包んだ金髪の女神。肌の露出は少ないと言えば少ないのだが、そもそもがレース生地だけなので透けて見えて仕方がない。

 視線が胸に集中してしまわないようどうにか抵抗しつつ、俺は笑顔で迎え入れる。


「女神エルミーア、お久しぶりですね。さあどうぞおかけください。質の良いアールグレイティーを用意していますので」

「まあ嬉しい、リコさんもいらっしゃるの?」

「ええ。間もなく持ってくると思いますよ」


 俺の言葉が終わるのを待っていたかのように、ジャストなタイミングで応接室のドアがノックされた。この手の間を感覚でやれてしまう里琴ちゃんは、やはり天才肌なのかもしれない。


「失礼します。お久しぶりです女神エルミーア様」

「リコさん! 相変わらずお美しいわ」


 女神エルミーアは豊満で妖艶で美しい。その女神と比較したとしても里琴ちゃんは可愛いく、甲乙つけがたし。


「まあエルミーア様ったらお上手」


 里琴ちゃんは笑顔で社交辞令を済ませると、鮮やかな手つきでテーブルにティーセットを並べて退室した。実に見事な立ち振る舞いである。


「さて女神エルミーア、今回は仕事の依頼だと伺っていますが……」

「良い香り……うっとりしますわ。リコさんの腕は一流ですわね」


 ティーカップを口元へ運び、その香りを堪能したエルミーアは一転して真剣な表情を見せた。


「ええ、その通りですわ。いよいよわたくしも、ミスター神野威にお世話になろうと思っていますのよ」

「そうですか、それは嬉しいお言葉ですね。では改めて、我が社のサービスを説明させて頂きましょう。お互いに誤解のないように、宜しくお願いします」

「ええ、宜しくお願い致します」


 今まではこちらがお願いする一方だった女神エルミーアから、ついに仕事の依頼である。

 俺は女神エルミーアの極上の笑顔に癒されながら、我が社の会社案内をテーブルへ広げた。


 だがこの依頼が、俺のちょっとした心の油断により、いい歳して涙を流すほど苦しいものになろうとは――この時は思いもよらなかった。

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