第37話 落ちぶれた元勇者
村を出て三十分程走る。
長閑な風景と澄んだ空気を全身に染み込ませながら、女神ウルイナスとやりあったあの石舞台へと到着した。
現実世界で三十分も走り続けたら息も絶え絶えだろうが、この世界での俺は体力さえも桁違いである。
「はぁはぁ……」
そうではあるが、十二年のブランクは大きかった。
腰に下げた水筒を手に取り、のどを潤して大きく深呼吸する。
「ふう……よし」
石舞台の向こう側に、山腹へと続く細い道がある。
その山道を登っていくと、鬱蒼と木々の覆い茂る大森林に入っていく事になるのだが、そこが今回の目的地でもあった。
日の光が遮られ、辺りは薄暗い。
夕暮れ時が近い事もあるが、それ以上にこの大森林には光が届かないのだろう。
日光を求め高さを競い合った木々の下には、あまり光を必要としない種類の草や背の低い木がいくらか生息しているだけ。この森での生存競争は、高さこそが正義なのだろう。
歩きながら見上げれば、青々と茂る葉の天井。
太い幹から伸びる枝には、時折可愛らしい動物の姿もあった。
「っ!?」
だがそんな長閑な森の中で、俺は強烈な殺気に襲われる。
「くそっ!」
どうにか半身を捻って回避した。
視線の先には、地に深々と突き立った矢。
「俺は野盗じゃない。神野威圭太だ!」
どうにか誤解を解こうと試みるが、それこそが俺の誤解であった。
「そんなの知ってるニャ。クイ様からケイタが来るって教えてもらったニャ」
わざとらしい語尾が特徴の懐かしい声が響く。
だがその姿は見えないので、なるべく大きな声で語り掛ける。
「キャス、申し訳ないが少し特訓に付き合ってくれないかな」
「もちろんニャ。ケイタの頼みをキャスが断るわけがないニャ」
その言葉に安心し、俺は立ち上がる。
「ありがとうキャス」
「お礼は無事に村に辿り着いてからでいいニャ」
俺の誤解。それは、既に特訓が始まっているという事だった。
「皆の衆、その人間が元勇者のカミノイ・ケイタだニャ! 捕まえた者には騎士の称号と褒美を与えるニャ!」
「みゃー!」
「みゃ!」
無数の猫の声が木々の合間に木霊する。
俺は流石に不安になって訪ねる。
「キャス、どういう事だ?」
「聞きたい事があるなら、捕まらずに村まで来るニャ。キャスは弱っちいケイタに興味はないニャ」
刹那、左方向から凄まじい速度で接近してくる者がいる。
その猫耳獣人は既に攻撃態勢に入っていた。
「くっ」
俺は思わずガードの姿勢を取ったが、相手は身を低く落として足払いに変更した。
「ニャ!」
キャスではない。
だがキャスの村の子だろうと思う。
「甘い、そんなんじゃ俺を捕まえられないよ」
完全に体勢を崩してはいたが、そこから空中へ逃れるように跳ね、俺を捕まえようと両手を広げていた獣人の子から距離を取って逃れる。
「なかなかやるニャ……流石は元勇者にして、キャス様の元下僕。本気でいかせてもらうニャ!」
目の前の子と対峙していると、後方から別の獣人族が襲い掛かって来る。
「もらったぴょん!」
兎耳の子の飛び蹴りを紙一重で躱し、そこを狙ってきた猫耳の子の攻撃をガードして距離を取り、そこから一気に走る。
「待つニャン!」
「逃がさないぴょん!」
武器を使って倒してしまうのは可能だが、あの子達は武器を所持していない。キャスからの指示もあくまで『捕らえる』である以上、俺に必要以上の攻撃は仕掛けてこないだろう。
俺が武器を出して応戦するわけにもいかない。
「体術は得意じゃないんだよな」
凄まじい跳躍力で接近してきた兎耳の蹴りを防ぎ、反撃はせずにそのまま駆ける。
多少の反撃はありだろうが、猫耳や兎耳の女の子を殴るなんて出来ればやりたくない。
正面の木を避け、ジグザクに走りながら森の中を駆ける。
この世界ならば実力を発揮できるとは言っても、流石にブランクが長すぎる。息も上がるし、走る速度も頼りない。
「もう少し上だよな」
どうにか呼吸を安定させるよう心がけ、それでも足を止めることなく、傾斜のゆるやかな斜面を上へ上へと登っていく。
記憶は曖昧だが、村はそう遠くないはずだ。
その時、俺の進路を予想していたかのように小柄な女の子が道を塞いだ。
「予想的中、もらったワン!」
「くっ」
その子が腰を落として打ち込んできた正拳突きに、俺は回避が間に合わない事を悟った。
体勢を崩しながらも、どうにか両手でガードする。ミシリと腕骨が軋む痛みに顔を歪め、数メートルは後方に飛ばされて着地。
「イテテ、やるねえ」
「大人しくするワン」
お察しの通り、犬耳少女。
俺が村を目指しているのを承知の上で、その進路で待ち構えていたのだろう。流石に犬の獣人だけあって鼻が利くし頭もいい。
「悪いけどそう簡単には負けてあげられないんだよね」
俺は言葉を終えるよりも先に地面を蹴った。
木々の合間を駆けながら、犬耳少女の視界を避けるようにしつつアイテムボックスへと右手を突っ込む。
そして取り出した小さな布袋。
「悪いねっ」
その袋を乱暴に振り回し、中に入っていた粉をまき散らしながら走る。
すると、後方で悲鳴が上がった。
「ギャー! 臭い! なにこれ鼻がもげるワン」
元々は魔物避けを作る時の材料に使う物で、甲虫の干物を砕いて粉末状にしたそれは、人間の俺でさえ鼻を抓みたくなる悪臭を放つ。
ましてや鼻の利く犬科の獣人族であるから、彼女には耐え難い悪臭であろう。
少々申し訳ない気もするが、俺はどうしても村へ辿り着かないといけない。
バトルの勘を少しでも取り戻しておかなければ、女神ヘステルの担当する世界へ行く事に不安材料ばかりになってしまう。
犬耳少女の追跡が緩むであろうこの瞬間に、俺は一気に村を目指す。
木々を避け、徐々に急こう配になっていく斜面を駆け上がる。
「はぁはぁ……見えてきた」
整えようと心がけて来たものの、流石に息が上がってしまった。
走る速度を落としつつ、周囲への警戒を怠らない。またいつ、どの方向から襲われるか分かったものではない。
だが次の瞬間、俺は完全な油断に気付いた。
「くっ、下か」
左の足首を何者かにがっしり掴まれた。
走る勢いを殺しきれずに地面に激突するも、俺の左足を掴んだ手が離れる事はない。
「つーかまーえたーモグ」
モグラ耳少女、ではない。
これは見た目からしてほぼモグラだ。
鋭い爪の煌めく手で、俺の左足首をがっちりと握り、長い口先には腹の立つ笑みを浮かべ、ご丁寧にサングラスまで装着している。
「そうか。だが悪いね、女の子じゃなければ遠慮するつもりはないんだよ」
俺は残った右足で思い切りモグラの顔面を蹴り飛ばした。
「ぐぎゃあああ! 何をするモグ~! 許さないモグ!」
解放された左足に鈍い痛みが残るが、折れているわけではなさそうだ。
「じゃあなモグラさん」
顔を抑えて怒りに震えるモグラを放置し、俺はラストスパートとばかりに斜面を駆ける。
「逃げるんじゃないモグ! おまいさんはおいらの得物モグ!」
てっきり土の中に潜り、地中から追って来ると思っていた。
だが、モグラマンはぽんと土から飛び出すと、まるで猪のように四足歩行で猛然と突進してきたのだ。
「おいおいまじかよ」
しかも早い。
必死に走るがどんどん追いついてくる。
これは拙いかもしれないと思った瞬間、左前方に影が見えた。
そしてその影が既に目の前にある影だと気付いた瞬間、俺の顔面は凄まじい強打を受ける。影の持ち主の姿を目視できたわけではないのだが、相手が誰なのかは本能的に察した。
「クソっ……キャスか」
この世界でこれ程強烈な一撃を打ち込んでくる者など、そうはいないはずである。
「全く情けないニャ。キャスがいつ参加しないって言ったニャ?」
キャスの言う通り、全く情けない。元勇者と言えども落ちぶれたものである。
悔しいやら恥ずかしいやら。
油断した事が全てなのだが、残念ながら悔やんでいられる状況はない。
あまりのダメージに、俺は意識を手放す事となってしまった。
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