第20話 人肌の温もりで芳醇な香り
守るべき存在が側にあり、差し迫った恐怖が危険と直結するわけではない場合、ある程度の猶予を持って事に当たれる状況を選択するのは悪い決断ではない。
ただし、その猶予を持って状況を悪化させる選択は悪手であるが、例えそうだとしても他に選択肢が無い場合もある。
今がそうだ。
「連れて行って。アバルと話があるの」
この少女が神としてどの程度の実力を有しているか、人間界にいる俺の洞察力でそれを知り得る術はない。だとしても、最悪の状況は頭に入れておくべきだ。自分の事で後悔するならばともかく、大切なパートナーの事で後悔するのは御免である。
「この場からだいぶ離れるが、構わないのか?」
「構わない。この場所に固執する必要が私にはない。それに、アバルと会う理由もあるの」
今すぐに危害を加える気は無さそうであるが、かと言って事務所に連れて行くのも気が引ける。
俺はアクセルに足を置き、いつでも発車出来る状況のままで問いかけた。要望を飲むしかない事に気付いている。俺に選択の余地はない。
「その理由を教えてくれないか」
「貴方にそれを言った所で理解不能よ」
そう返答した少女から、少しの殺気が放たれた事に気付く。
「分かった。連れていこう」
助手席の里琴ちゃんが『正気ですか!?』とでも言いたげな表情をしているが、これはもうどうしようもない。
事務所までの帰路、ひたすらに無言の状態が続いた。後部座席の少女が一切口を開かないものだから、緊張しているこちらが物を言えるわけもない。
小一時間、その状況が続いた。
端的に言えばカージャックである。こちらは人質という事か。
「間もなく到着する。すぐに神アバルを呼び出せるか分からないけど、少しは待ってくれるかい?」
「ええ勿論。たかが人間如きの呼びかけに、アバルが簡単に応じるとは思っていないわ」
同じ空間に一時間もいれば、否が応でも多少な慣れてくる。それは里琴ちゃんとてそうであろう。ついに自分から少女に語り掛けた。
「あなた、お名前は?」
「図々しい女ね。人間の分際で神に名を訪ねるというの? 笑わせるわ」
「なるほど、お名前は『図々しい女』さんですか。確かにその名の通り、勝手に人の車に乗り込んで図々しい神様ね」
「へえ、言うわね。面白い」
俺は里琴ちゃんをアイコンタクトで宥めようとしたが、全くこっちを見てくれない。
「私は里琴。苗字は西村。二十一歳になったぴちぴちのお姉さんよ。で、あなたのお名前は?」
「……名は、無いの」
オッドアイの少女は髪をかき上げるような仕草で、被っていたフードを背に下ろす。真っ白で美しい長い髪と、フードに隠れてよく見えなかった青と緑のオッドアイが姿を顕わにした。
よく見ると、実に美しい少女である。
黒目勝ちな――青と緑なのだが――大きな瞳に、ぱっちり二重に長いまつ毛。鼻筋の通った美形であり、可愛いというよりも美しい。
だがどうにも表情は無機質で、どこか冷たさを感じられる。
少女はこちらの反応を確認するかのように俺と里琴ちゃんを一瞥し、徐に言葉を続けた。
「名とはそれを認識するにあたり、他の類似個体との区別を必要とした場合に付与されるものよ。唯一無二である私には、不要なもの」
言葉に抑揚がないからなのか、それとも感情の表れか、その言葉には寂しさがあるように感じられた。
「ふーん。でもこの人間界では、あなたに似た存在は沢山いるのよ? ほら、あの子だって、そっちの小学生だって、あなたと同じ赤いパーカー着せたら区別がつかなくなる」
「私は神。それ以上でも以下でもない。下らない事を言っていると黙らせるわよ」
俺はたまらず、里琴ちゃんの足をつついてそれ以上突っかかるの辞めさせた。
この少女の姿の神は、どうもかなり特殊である。
再び無言の時間が続き、俺と里琴ちゃんは赤いパーカーを着た神を事務所へと案内した。危険はないが、安全でもない。
神を事務所の椅子に座らせ、俺は里琴ちゃんに『何もするな』と念押し、一人で応接室に入る。
壁一枚を隔てているとはいえ、聞かれていると思った方がよさそうだ。相手は神であり、しかもこの世界でそれなりの力を使う事が出来る存在である。
俺は扉に入り、受話器を手に取った。
『もしもしやっほー! ケータ元気だった?』
元気の良い声に、異様なほどの安堵を覚える。
「おう、元気だ。大至急、神アバルを呼んでほしいんだ。調査の報告をしたいと伝えてくれ」
『分かった~。アバル様だね!』
「ああそれと、女神のスープをご馳走してほしい」
『……分かったよ。まっかせて!』
「神アバルが来るときでいい。一緒に頼む」
『はーい』
これでよし。
あとは神アバルが出現するのを待つばかりである。
そうして事務所に戻った俺の視界に、奇妙な光景が飛び込んできた。
「ねえ、ずっとそれやってるけど楽しいの?」
里琴ちゃんが少女に問いかける。
「楽しい? よく分からないわ。ただ珍しいと思っているだけよ」
そう答える少女はずっとくるくる回っている。
オフィスチェアーに座り、足で床を蹴って延々と回り続けているのである。
「このように回転する椅子は初めてよ。貴方達が魔力で造ったの?」
「いや、ホームセンターで買ってきた」
俺は答えながら少女に近づく。
「大丈夫か? そんなにくるくるしてると目が回るぞ?」
「それはどういう意味?」
そう答えた少女がピタリと止まる。
それと同時に、ぐらりと頭を揺らしてそのままひっくり返りそうになった。
慌てて手を伸ばして少女を抱きかかえる。
「おっと、おい大丈夫かよ」
「これは……不覚、罠……だった、のね」
「いやいやそうじゃなくて、それが『目が回る』って事だよ」
「きもち……わるい……」
直後、形容しがたい状況に陥った。
人肌の温もりの芳醇な香りを放つ液体が、少女を抱きかかえた俺の胸元から腹のあたりまでをしっとり優しく潤している。
嫌悪を恐れずに表現するならば、俺の胸元を少女の吐しゃ物が濡らした。
もっと端的に言えば、この少女が俺に向けてゲロったのだ。
俺はきっと、人間界で神の吐しゃ物を浴びた唯一の人間だろう。
「大丈夫か? 里琴ちゃんちょっと手伝って」
「大変大変、大丈夫? はい社長タオルね」
俺は少女の衣服が汚れぬように気遣いながら、少女の体を里琴ちゃんに預ける。
里琴ちゃんの肩を借りて移動した少女は、里琴ちゃんに言われるがままキッチンで口を濯いでふらふらと戻って来た。
「……昼に食した焼きソバパンとやらがいけなかったのかしら。私とした事が、情けないわ。本当にごめんなさい」
青い顔で謝罪する少女を気遣いながら、俺はさっさと床を掃除して、自分の衣服をどうするか思案する。
「まあ気にするなよ。神アバルには黙っておいてやるからさ」
見ず知らずの相手とはいえ、少女の見た目である。
異世界の昆虫系モンスターの吐き出す溶解液やらなんやらに比べれば、彼女のゲロなど清涼飲料水である。元勇者はこの程度で狼狽えたりしない。
平然と対応しているという点だけに関して言えば、里琴ちゃんよりも冷静だろうし、立派な対応だと自負できる。
「里琴ちゃん、何か着るものあったっけ?」
少し思案した里琴ちゃんは、ぽんと手を叩いて更衣室へと駆けこんだ。更衣室とは言うが、半ば里琴ちゃん専用の個室である。
「じゃじゃーん!」
戻って来た里琴ちゃんが手にしていたそれは、超有名な黄色いクマの着ぐるみ風パジャマである。
「なんでそんなのあるんだよ」
「ん~、なんでだったかな。まあいいじゃないですか。ほらほら、着替えて着替えて」
「流石にこれはちょっと……」
「我儘言わない、大人でしょ?」
「大人だからだよ……」
どうしようもなく、言われるがままに着替えた。
どう考えても納得のいく姿ではないが、ゲロまみれよりはいくらかマシであろうと思う。
「社長、着替え終わりました?」
「終わったと言えば終わったんだけど、これは……」
だが、実態は予想を遥かに上回っていた。
圧倒的に手足の丈が足りないのである。着ぐるみ風のパジャマからにょきりと生えた、俺の手足。脛の半ば、腕の半ばまでしか届かない黄色い生地から、俺の生足と生腕がにょきりと飛び出している。
そうであるにも関わらず、ゆとりのある作りのはずの胴体部分は割とピッタリサイズ。女の子が着ればゆったりとした雰囲気になるであろう着ぐるみの股下は、俺にはベストフィットなサイズなのである。
これは流石にまずい。
そう思ったのだが、時すでに遅し。
「開けますねー。社長、汚れちゃったスーツ洗いま……」
俺の姿を見た里琴ちゃんの言葉が停止。
そして言葉の代わりに大爆笑が引き継いでいった。
「笑うな。笑うとボーナスカットするぞ」
「その姿で言うと面白すぎます、お腹痛いやめて!」
お腹を抱えて涙を流す里琴ちゃんの横で、赤いパーカーの少女が呆然と立ち尽くしている。
そしてこちらを見て、笑った。
笑う時に使う表情筋が未発達なせいだろうか、どうにも可笑しな笑みを浮かべ、堪えきれないといった感じで声を殺して笑っている。
その少女の表情を見て、里琴ちゃんは遠慮なくそれさえも爆笑のネタにした。
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