里琴ちゃんと愉快な姉弟
~ Side Episode
Riko Nisimura ~
食材と共に我が家に持ち帰られたトイレットペーパーを納戸にしまい込み、社長からの返信を待つ。
母には『今日』なんて言っちゃったけれど、そんな急なお誘いを受けてくれるかどうか、実のところ自信が無い。
リビングで頬杖をついてぼんやりとテレビを眺めている私に、部活で真っ黒に日焼けした少年がぶっきら棒に問いかけてくる。
「里琴姉ちゃんの彼氏、何歳だっけ?」
「俊太くん、勘違いしないようにね? 彼氏じゃなくて社長だからね?」
「何だよ急に『俊太くん』って気持ち悪いな。彼氏来るからって御淑やかなフリすんなよな」
「うるせー。中坊は宿題でもやってろ、このクソガキ!」
小ハエでも追い払うようにする私に、俊太が右手を伸ばして掌を上に向けた。
「ん」
「んって何?」
「ん!」
「は?」
「へー。いいんだ。今の録音しといたから」
「ちょっと待て」
椅子が倒れそうな勢いで立ち上がった私に対し、俊太はニヤリと笑って再生ボタンを押した。
――『うるせー。中坊は宿題でもやってろ、このクソガキ!』
「俊太くん、何が欲しいのかな?」
「俺さ、新しいボール欲しいんだよね」
「おい、高くない?」
――『うるせー。中坊は宿題でもやってろ、このクソガキ!』
「俊太く~ん、そのボールいくらするのかな?」
「全額出せとは言わないよ。小遣い足りなくてさ」
「そっかそっか。じゃあ素敵なお姉さにお願いしてごらん?」
「いつも素敵な里琴姉ちゃん、俺、新しいサッカーボールが欲しんだ」
おのれクソガキ。
「じゃあこれで買っておいで」
「おう、まじか。これは本気だな」
私が財布から出して手渡した五千円札に、目を丸くして驚いている。
その時、携帯がメッセージの着信を知らせる。
――折角のお誘いなのでお伺いします。ヒナとルココの夕飯は弁当を買って与えておくから心配しないように。
その文章に、心なしか緊張する。
「なんだよニヤニヤして。彼氏来んの?」
「ニヤニヤしてない! 彼氏じゃなくて社長!」
「はいはい社長ね。社長が来るとニヤニヤするのね」
「おい俊太! 五千円返せ!」
可愛い弟と戯れていると、その現場を妹にも目撃されてしまう。
「えー。俊太だけズルくない? おねえ私も!」
こうなったら腹をくくるしかあるまい。
「しょうがないなあ……弓香、俊太も、そこに座りなさい」
私は可愛い妹と弟を椅子に座らせる。
「俊太、一先ずその五千円を返しなさい」
「え~、やだ」
「いいから」
「やだよ~だ」
仕方がないので、思い切り作り笑顔で念を押す。
「い・い・か・ら」
「こわっ、はい」
こういう所はまだまだ可愛い。
「俊も弓もよく聞いて」
私は少し真面目に語り掛ける。
「お姉ちゃん、家を出ます」
「まじで?」
「……おねえ、結婚するの?」
弓香の問いに小さく首を振る。
「会社の寮みたいな所に住むの。これは私の選択。お姉ちゃんもう大人だし、そろそろ自立しないといけないしさ」
「彼氏と住むんじゃないの?」
「彼氏さんって社長さんだよね?」
どうも我が家ではそういう事になってしまっているらしい。
「あのね、何度も言うけど彼氏じゃないの。ほら、お姉ちゃんが弓香くらいの時、お母さんとお父さんに散々迷惑かけたでしょ?」
「俺はあんまし覚えてないけどな。まあ母ちゃん泣いてたのは知ってる」
「私は、迷惑だったなんて思ってないけど? でも大変だったのはうち等もだよ」
この二人と四年前の事を話すのは初めてかもしれない。
「そうだね……二人にも迷惑かけた。ごめんね。でね、その時にお世話になったのが、うちの社長なの。お姉ちゃんはね、社長がいなかったらもっと酷い事になってたの。だから社長は、お姉ちゃんにとっても、うちの家族にとっても恩人なの」
「んな事知ってるよ」
「うん。ちょー今更」
物分かりの良い妹と弟で助かる。
「だよね。で、その社長が今日、我が家にご飯食べに来ます」
「それさっき母ちゃんが言ってた」
「嘘? 初耳、えーどうしよう。さっきお気に入りのキャミ洗濯機に入れちゃったよ……」
この反応には苦笑いしか出ない。
「あのね、今日来るって決まったの今さっきだからね? それと弓香、あんたなんで可愛い服着ようとしてんのよ」
「そうなんだ。母ちゃんもう張り切って掃除始めてるぞ」
「だって社長かっこよくない? 私さ、数学の井上先生も捨てがたいけど、おねえのとこの社長が結構タイプなんだよね」
あの母にしてこの妹ありって感じ。
「はぁ……あのね。まあいいや。それで!」
私は敢えて真面目な表情を作って改まる。
「お姉ちゃん家を出るから、お母さんとお父さんの事、宜しくね!」
「別にブラジルに引っ越すわけじゃないんだろ?」
「会社都内でしょ? 近いじゃん」
そうなんだけど、上手く伝わらないな。
「うーん。お姉ちゃんが言いたいのはさ」
「ったくしつこいな。心配すんなって。大丈夫だよ!」
「うんうん。私達の事なんて気にしないでいいって。おねえはおねえの人生があるんだから」
あ、やばい。ちょっと泣きそう。
「生意気な事を。……でもちょっと安心した。でね、はいこれ」
私はテーブルの上を這わせるようにして、二人の前に予め用意していた諭吉くんの入った封筒を差し出した。
「何これ」
「どうしたの?」
私は封筒から手を放し、涙を堪えて笑顔を作る。
「社長が来るからとかそういうんじゃなくて、日ごろの感謝の気持ちを込めて二人へのお小遣い! 私の大好きな、妹と弟に、ささやかなお礼!」
二人そろって封筒の中を覗き込み、想像以上に喜んでくれた。
「倍になった。ありがとう里琴ねえ」
「そんなのいいのに。やったねー」
大事そうに諭吉くんを手にした二人に、私はとても感謝している。
「里琴ねえ、何で泣いてんの?」
「ちょっと泣かないでよ、こっちまで泣きそうになるじゃん!」
いつの間にか、涙が止めどなく溢れていた。
「あれれ、おかしいな」
テーブルに置いてあったティッシュを乱暴に抜き取り、留まる事を知らない涙を受け止める。
「おねえ……」
弓香が席を立って私の所まで来る。
そして、涙を流しながら私にきつく抱き着いてきた。
「弓……ありがとね。受験、頑張りなさいよ?」
「寂しいけど、大丈夫。私、頑張る」
高校三年生。今の弓香は、私がやれなかった受験というものに挑もうとしている。
「ったく、これだから女はなあ。別に会いたきゃいつでも会えるじゃねーか」
少し声を震わせながら強がって見せた俊太も、今年は高校受験だ。
兄弟姉妹の家族の絆を確かめ合う時間。
そこに水を差すように、保冷剤を手にした母がやって来た。
「ちょっとあんた達、お母さんまでもらい泣きしたじゃないの。里琴、目を真っ赤にして神野威さんをお迎えするつもり?」
保冷剤をテーブルに置くと、母は俊太と弓香を自室へ追い払う。
「ほらあんた達、宿題済ませちゃいなさいよ? どうせ神野威さん来たらずっとリビングにいるつもりでしょ?」
「はーい」
「分かった、そすうる」
泣くなと言われても、涙が止まらないのだから仕方がない。
「里琴、とりあえず泣き止んで、目冷やして、お風呂に入っておいで。夕飯食べ終わったら、あの子達とお父さん連れてカラオケにでも行ってくるから。神野威さんを部屋に連れ込んじゃないなさいよ?」
「はあ?」
保冷剤を手に、母の言葉に呆気にとられる私。
母はお構いなしに続けた。
「泊まっていけと言って泊まっていくような人じゃないだろうから、終電までが勝負よ。この辺はホテルもないし、自室がベスト。想い出のアルバムを一緒に見ようとか、そんな感じで連れ込んで、後はもう、シャンプーの香りぷんぷんさせて押し倒しちゃいなさい!」
「あのねお母さん」
言葉が見つからない。
文句とかそういう事を言いたいような気もするけど、母の言った事を実行する妄想がそれを邪魔して言葉を見つけさせてもらえないのだ。
「ふぅ……おかげで涙とまったよ」
「そう? ならよかった」
悪戯な笑みを浮かべた母は、そのままキッチンを指さす。
「泣き止んだなら、シャワー浴びる前に出来るところまで作っちゃいましょ。シャワーは出来るだけ、直前のほうがい・い・か・ら」
「馬鹿なの? お母さんの頭の中はそればっかりなの?」
二人並んでキッチンに立つ。
この状況も、これからはぐっと減ってしまうのだろう。
社長が大好きな生春巻きに使う小エビを湯がきながら、母が私を見て首を傾げた。
「ところで里琴、ちゃんと持ってる?」
「ん? 何?」
問い返した私に、母は少し考えてから小さく笑った。
「いや、いっか。出来ちゃったら出来ちゃったで。まだお祖母ちゃんには早いかなと思ったけど、それはそれで悪くないかも」
「ちょっとおおおおお、もう! そっちから頭を切り離して!」
こんなにノリノリでテンションの高い母は久しぶりに見る。
だけど社長が来てからもこの調子だと思うと、恐ろしい。社長を呼ぶの、ちょっと怖くなってきちゃったな。
【閑話】西村家の人々 ~ Fin ~
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