第34話「ゼロと呼ばれたキス」
ようやく
だが、それは
流されたとはいえ、玲奈が心配で尾行した末に誤解を招いた。
そのことを弁明したのは、どんな形でも説明をさせてほしかったからだ。
そして、ありのままの真実を玲奈は受け止めてくれた。
しかし……その代償はあまりにも大きかった。
「玲奈さん、あの……」
「ええ、駄目みたいね」
「これってつまり……その……」
「こんなことしてたら、時間を消費するだけだわ。いちかばちかよッ!」
「れ、玲奈さん!?」
「今は少しでも手持ちのエアーを……じゃない、二人の時間を大事にします!」
とりあえず校舎の玄関まで来たものの、
そして、困り果てたいづるの横で玲奈が下した決断は大胆なものだった。
しっかりいづるの手を握って、闇夜の中を玲奈が歩く。
暗がりには、外からの月明かりだけが妙に
「ここよ、いづる君!」
「……調理室? 実習で使う、あの調理室ですか?」
「ええ。夕ご飯をまずは
「いいんですか? 勝手に食べちゃって」
「非常時ですもの。ここの食料と飲み物はちょっぴり頂いていくわ。二人の最高の夜のために!」
今までのあの、アホ毛が閉じた状態の
例え
玲奈は奥でモーター音を唸らせる冷蔵庫に近付いた。
「見て、いづる君。火を通さずとも食べられるものも少しはあるわ」
「は、はい。ええと、生ハムは大丈夫、んで……チーズ? これは」
「どこかのクラスで喫茶店をやると聞きました。これはサンドイッチ用かしら?」
「なら、それでいきましょうか。必要最低限
「いづる君、なにかしら? 私でも、なに? 私でも料理できるとでも言いたいようね、サンドイッチ。……
今更の話だが、玲奈は料理が苦手だ。
それでも、いづるの
でも、なんとか元通りの日々を過ごせる二人に戻れるかもしれない。
それはこれからのいづるの心がけ次第だ。
「いづる君、座ってて。私が最高のサンドイッチをご馳走するわ」
彼女は腕まくりすると、冷蔵庫から食材を取り出す。
生ハムとチーズ、そしてレタスとマーガリン。隠し味に選んだのはマスタードだ。手伝いを申し出るいづるを手で制して、玲奈はてきぱきと作業に取り掛かる。
音を立てぬよう静かにレタスを洗い、適度な大きさに手で
奥にしまってあったパンを取り出し、マーガリンとマスタードを塗る。
あとは具材を
中々にワイルドな見た目になったが、いづるは玲奈の不器用さには目を
「さ、いづる君。できたわ……任務完了」
「無事にできましたね、玲奈さん。美味しそうです」
「当然よ、それより……無事に? 少しひっかかるわ、いづる君」
「あ、いや! 別にそんな! 深い意味は……さ、さあ、食べましょうよ」
「待って、飲み物も必要よ。ええと……これでいいかしら」
玲奈は冷蔵庫から業務用の紙パックを
それを調理室に備えてある片手鍋に少し出す。
そして、彼女は迷わず教室の隅にある電子レンジへと向かった。
「紅茶は熱くなきゃ……そう、冷めた紅茶なんてエレガントとは言い難いもの」
「あ、あの、玲奈さん? 電子レンジはちょっと――」
「紅茶さん、あなたは電子レンジにいれられた夕食用のお茶よ! 深夜の閉鎖された校内でチンされるがいいわっ!」
「玲奈さんっ、駄目ですってば!」
その時だった。
不意に廊下の方から光が近付いてくる。
それが校務員の
夕食のサンドイッチを隠して、その他もろもろを一度冷蔵庫へと
そうして、互いに相手の口を手で
同時に扉が開いて校務員の声が響く。
「ありゃ? 人の声がしたはずだが……侵入者、でもない。生徒が残ってる……訳でもない。おっかしいなあー」
サーチライトのように、懐中電灯の強い光が室内を走る。
いづるは黙って息を殺し、玲奈の口を手で抑えていた。柔らかな
同時に、玲奈が触れてくる自分の口元も息苦しい。
じっと身を
「まあ、異常なしっと! ……おかしいなあ、さっきも巡回したんだがなあ」
それだけ言って、校務員は行ってしまった。
足跡が遠ざかるなり、二人はそろって安堵の溜息を
そしていづるは、気付けば鼻先に近い玲奈の顔に改めて驚く。
玲奈も落ち着いたことで気付いたらしく、大きな瞳をさらにつぶらに見開いた。
だが……なにかを決したように玲奈は目を閉じる。
いづるの触れる手が玲奈の
玲奈もいづるを呼んで招くように、頬へと回した手を引き寄せた。
唇と唇が触れそうになった時、不意に再び教室の扉が開く。
「やっぱりおかしい! ……訳、ないか? 異常なしだなあ。うーん……時々いるんだよなあ。文化祭前日に届け出もなく徹夜で作業する生徒が。……人の気配はない、か」
驚くあまり、いづると玲奈は再び恋人の口を手で塞いだ。
手と手の向こうにある、互いの唇が触れずにキスを果たす。
ファーストキスというには、あまりにも感触も感慨もないくちづけだった。
だが、必死に押し黙る二人に気付かず校務員は去ってゆく。
お互いの手の中で、安堵の溜息が小さく
そして、どちらからともなく笑いがこみ上げる。
「な、なんですか玲奈さん……は、ははは」
「だって、いづる君たら……ふふ」
「危なかったですね」
「ええ、危なかったわ。私、雰囲気に流されそうになったもの」
「え? それって」
「初めてはやっぱり、特別なものにしたいじゃない? だから、セーフよ」
「セーフ、ですか」
「ええ、ギリギリでセーフね」
そう言って笑うと、玲奈はいづるの口元から手を放して立ち上がった。
どうやらもう、校務員が戻ってくる気配はなさそうだ。
ようやく二人にとって、二人きりの遅い夕食が始まった。結局紅茶は冷たいまま、二人で静かに隠れてサンドイッチを食べる。当然といえば当然だが、玲奈の作ったサンドイッチはとても美味しかった。もとから
用意された食材もいいが、きっと玲奈の挟んでくれたものだからだといづるは心に
「でも、明かりが使えないのは不便ね……シャワーも浴びれないし。それに」
「それに?」
「今夜のベッドを探さなきゃいけないわ。それは心当たりがあるのだけれど」
「ベ、ベッド……」
「ご飯を終えて片付けたら、一緒に行きましょう。失敗したわ、生徒会室からマスターキーのスペアを持ってくるのだったわ。でも、どのみちボイラーを動かしたら校務員さんにばれてしまうわね。……ふふ、なんだか楽しいわね、いづる君?」
悪戯っ気を含んだ猫のような笑みで、玲奈は目元を細めていづるを見詰めてくる。
もぎゅもぎゅと食べるサンドイッチの味だけが、絶対に忘れられない思い出として遺伝子レベルで心に刻まれる。きっとこれからの人生、サンドイッチを食べる度に思い出すだろう。ファーストキスの前の、原点にして全てのゼロ……最初の前の未遂のキスを。
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