第34話「ゼロと呼ばれたキス」

 ようやく日陽ヒヨウいづるは、阿室玲奈アムロレイナと和解にこぎつけた。

 だが、それは猶予モラトリアムを得ただけのこと。これからは、玲奈が与えてくれた名誉挽回めいよばんかいのチャンスを生かさねばならない。そして、自分から進んでそうしたいいづる自身がいた。

 流されたとはいえ、玲奈が心配で尾行した末に誤解を招いた。

 そのことを弁明したのは、どんな形でも説明をさせてほしかったからだ。

 そして、ありのままの真実を玲奈は受け止めてくれた。

 しかし……その代償はあまりにも大きかった。


「玲奈さん、あの……」

「ええ、駄目みたいね」

「これってつまり……その……」

「こんなことしてたら、時間を消費するだけだわ。いちかばちかよッ!」

「れ、玲奈さん!?」

「今は少しでも手持ちのエアーを……じゃない、二人の時間を大事にします!」


 とりあえず校舎の玄関まで来たものの、すで施錠せじょうされている。内側にいるので開けるのは簡単なのだが、防犯システムが作動してるためそうもいかない。あっという間に警備会社の人間が来て大騒ぎになり、全校生徒と地域住民が楽しみにしてる明日の文化祭に支障をきたすだろう。

 そして、困り果てたいづるの横で玲奈が下した決断は大胆なものだった。

 しっかりいづるの手を握って、闇夜の中を玲奈が歩く。

 暗がりには、外からの月明かりだけが妙にまぶしかった。


「ここよ、いづる君!」

「……調理室? 実習で使う、あの調理室ですか?」

「ええ。夕ご飯をまずは工面くめんしないといけないでしょう? ここは大型の冷蔵庫があるから、文化祭で出される喫茶や屋台の食材が保管されているの」

「いいんですか? 勝手に食べちゃって」

「非常時ですもの。ここの食料と飲み物はちょっぴり頂いていくわ。二人の最高の夜のために!」


 何故なぜか玲奈はテンションが高かった。

 今までのあの、アホ毛が閉じた状態の意気消沈いきしょうちんっぷりがうそのようだ。彼女は学校での仕事ぶりこそ完璧だったが、彼女なりにいづるとのことを悩んでいてくれたのだ。それが今、なかば解消されたような状態になって嬉しいのかもしれない。

 例え自惚うぬぼれでも、いづるはそう思いたい。

 玲奈は奥でモーター音を唸らせる冷蔵庫に近付いた。

 躊躇ちゅうちょなく、巨大な扉を開ける。


「見て、いづる君。火を通さずとも食べられるものも少しはあるわ」

「は、はい。ええと、生ハムは大丈夫、んで……チーズ? これは」

「どこかのクラスで喫茶店をやると聞きました。これはサンドイッチ用かしら?」

「なら、それでいきましょうか。必要最低限拝借はいしゃくして、明日食券で払えば。これなら玲奈さんでも多分」

「いづる君、なにかしら? 私でも、なに? 私でも料理できるとでも言いたいようね、サンドイッチ。……えて言うわ、任せて欲しいであると!」


 今更の話だが、玲奈は料理が苦手だ。

 それでも、いづるの幼馴染おさななじみである楞川翔子カドカワショウコが懸命に教えるので、最近はメキメキ上達した。簡単な朝食なら作れるようになっていたし、それが食べられない毎日は少しさびしかった。いづると仲違なかたがいしてる間、ずっと彼女に避けられていたから。

 でも、なんとか元通りの日々を過ごせる二人に戻れるかもしれない。

 それはこれからのいづるの心がけ次第だ。


「いづる君、座ってて。私が最高のサンドイッチをご馳走するわ」


 彼女は腕まくりすると、冷蔵庫から食材を取り出す。

 生ハムとチーズ、そしてレタスとマーガリン。隠し味に選んだのはマスタードだ。手伝いを申し出るいづるを手で制して、玲奈はてきぱきと作業に取り掛かる。

 音を立てぬよう静かにレタスを洗い、適度な大きさに手で千切ちぎる。

 奥にしまってあったパンを取り出し、マーガリンとマスタードを塗る。

 あとは具材をはさんで、あっという間にサンドイッチが出来上がった。

 中々にワイルドな見た目になったが、いづるは玲奈の不器用さには目をつぶる。なにせ、深夜の学校に二人きりなのだ。そんなシチュエーションで玲奈が作ってくれるものは、なんだってとびきりの御馳走ごちそうだった。


「さ、いづる君。できたわ……任務完了」

「無事にできましたね、玲奈さん。美味しそうです」

「当然よ、それより……無事に? 少しひっかかるわ、いづる君」

「あ、いや! 別にそんな! 深い意味は……さ、さあ、食べましょうよ」

「待って、飲み物も必要よ。ええと……これでいいかしら」


 玲奈は冷蔵庫から業務用の紙パックをいくつか出し、その中から紅茶を選んだ。

 それを調理室に備えてある片手鍋に少し出す。

 そして、彼女は迷わず教室の隅にある電子レンジへと向かった。


「紅茶は熱くなきゃ……そう、冷めた紅茶なんてエレガントとは言い難いもの」

「あ、あの、玲奈さん? 電子レンジはちょっと――」

「紅茶さん、あなたは電子レンジにいれられた夕食用のお茶よ! 深夜の閉鎖された校内でチンされるがいいわっ!」

「玲奈さんっ、駄目ですってば!」


 その時だった。

 不意に廊下の方から光が近付いてくる。

 それが校務員の懐中電灯かいちゅうでんとうだと気付いた時には、二人は咄嗟とっさに動いていた。

 阿吽あうんの呼吸でコンビネーションを見せる、玲奈といづる。

 夕食のサンドイッチを隠して、その他もろもろを一度冷蔵庫へとほうむる。

 そうして、互いに相手の口を手でふさぎながら物陰にかがんだ。

 同時に扉が開いて校務員の声が響く。


「ありゃ? 人の声がしたはずだが……侵入者、でもない。生徒が残ってる……訳でもない。おっかしいなあー」


 サーチライトのように、懐中電灯の強い光が室内を走る。

 いづるは黙って息を殺し、玲奈の口を手で抑えていた。柔らかなくちびるが当たる感触がして、次第に頭の中がチリチリと熱くなってゆく。

 同時に、玲奈が触れてくる自分の口元も息苦しい。

 じっと身をひそめる中、玲奈のいい匂いがほのかに鼻孔びこうをくすぐった。


「まあ、異常なしっと! ……おかしいなあ、さっきも巡回したんだがなあ」


 それだけ言って、校務員は行ってしまった。

 足跡が遠ざかるなり、二人はそろって安堵の溜息をこぼす。

 そしていづるは、気付けば鼻先に近い玲奈の顔に改めて驚く。

 玲奈も落ち着いたことで気付いたらしく、大きな瞳をさらにつぶらに見開いた。

 だが……なにかを決したように玲奈は目を閉じる。

 いづるの触れる手が玲奈のほおへとすべる。

 玲奈もいづるを呼んで招くように、頬へと回した手を引き寄せた。

 吐息といきと吐息が互いの肌をくすぐる距離。

 唇と唇が触れそうになった時、不意に再び教室の扉が開く。


「やっぱりおかしい! ……訳、ないか? 異常なしだなあ。うーん……時々いるんだよなあ。文化祭前日に届け出もなく徹夜で作業する生徒が。……人の気配はない、か」


 驚くあまり、いづると玲奈は再び恋人の口を手で塞いだ。

 手と手の向こうにある、互いの唇が触れずにキスを果たす。

 ファーストキスというには、あまりにも感触も感慨もないくちづけだった。

 だが、必死に押し黙る二人に気付かず校務員は去ってゆく。

 お互いの手の中で、安堵の溜息が小さくこぼれた。

 そして、どちらからともなく笑いがこみ上げる。


「な、なんですか玲奈さん……は、ははは」

「だって、いづる君たら……ふふ」

「危なかったですね」

「ええ、危なかったわ。私、雰囲気に流されそうになったもの」

「え? それって」

「初めてはやっぱり、特別なものにしたいじゃない? だから、セーフよ」

「セーフ、ですか」

「ええ、ギリギリでセーフね」


 そう言って笑うと、玲奈はいづるの口元から手を放して立ち上がった。

 どうやらもう、校務員が戻ってくる気配はなさそうだ。

 ようやく二人にとって、二人きりの遅い夕食が始まった。結局紅茶は冷たいまま、二人で静かに隠れてサンドイッチを食べる。当然といえば当然だが、玲奈の作ったサンドイッチはとても美味しかった。もとから市立萬代学園しりつばんだいがくえんの文化祭はレベルが高く、校内の展示や発表は勿論、バザーや軽食喫茶、屋台等も人気だった。

 用意された食材もいいが、きっと玲奈の挟んでくれたものだからだといづるは心につぶやく。


「でも、明かりが使えないのは不便ね……シャワーも浴びれないし。それに」

「それに?」

「今夜のベッドを探さなきゃいけないわ。それは心当たりがあるのだけれど」

「ベ、ベッド……」

「ご飯を終えて片付けたら、一緒に行きましょう。失敗したわ、生徒会室からマスターキーのスペアを持ってくるのだったわ。でも、どのみちボイラーを動かしたら校務員さんにばれてしまうわね。……ふふ、なんだか楽しいわね、いづる君?」


 悪戯っ気を含んだ猫のような笑みで、玲奈は目元を細めていづるを見詰めてくる。わずかな月明かりだけが照らす美貌を、いづるは直視できずにどきまぎと目を逸らした。

 もぎゅもぎゅと食べるサンドイッチの味だけが、絶対に忘れられない思い出として遺伝子レベルで心に刻まれる。きっとこれからの人生、サンドイッチを食べる度に思い出すだろう。ファーストキスの前の、原点にして全てのゼロ……最初の前の未遂のキスを。

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