第7話「彼女が求めた職場だ」

 その日、日陽ヒヨウいづるはまんじりともせず学校での時間を過ごした。

 原因はわかっている、阿室玲奈アムロレイナだ。彼女が今日から、アルバイトをすると言い出したのだ。あのお嬢様育ちが、アルバイト……正直、不安しかない。

 なにごとも完璧にこなす玲奈だが、果たして彼女に接客業が務まるだろうか?

 そう、玲奈がバイト先に選んだ職場は――


「いづちゃーん、隠れてないでお店に入ろうよぉ」

「待て翔子ショウコ、待つんだ。もうちょっとだけ様子を見よう」

「いづる少年! コソコソする必要はないはずだが? ええい、大将はいい、阿室を見せろ、阿室の働きぶりを」


 今、いづるは幼馴染おさななじみ楞川翔子カドカワショウコや友人の富尾真也トミオシンヤと一緒に、店の中をこっそりと入り口から覗き込んでいる。

 その店の名は、天驚軒てんきょうけん……商店街にある馴染なじみの中華料理屋だ。

 以前から何度か、翔子の紹介でいづるたちは食事をしに来ている。天驚軒は値段も良心的でボリューミー、本格中華も日本的なラーメンも味わえる名店だ。……大将がややエキセントリックなハッスルジジイだが、いい店である。

 そして、活気づく店内で無数の客たちの中を、玲奈は一生懸命働いていた。


「どうだ、どうなのだ!? いづる少年、阿室はちゃんとやれてるのかっ!」

「ええと……大丈夫、みたい、です、けど」


 いづるの目に今、入り口の戸の隙間から玲奈の姿が見える。

 彼女は元気よくテキパキと働いていた。彼女の仕事はウェイトレス、給仕きゅうじだ。銀色に磨かれた丸いトレイの上に、熱々の湯気が立ち上る料理を次々と運んでいる。

 その姿は、誰が見ても労働にいそしむ少女、それも美少女に見えただろう。

 だが、いづるはハッキリ言って落ち着かない……気に入らないのだ。


「玲奈さん……なんて破廉恥はれんちな! いけないですよ、どうしてそんな恰好をするんですよぉ! おかしいですよ、玲奈さん!」


 富野信者とみのしんじゃの真也もビックリするくらい、何故か何故だか富野節とみのぶしになってしまういづる。その理由は、働く玲奈の恰好にあった。

 玲奈は今、チャイナ服を着ていた。

 

 白地に金と銀で刺繍ししゅうの入ったもので、赤い縁取りも目に鮮やかな姿は美しい。だが、いづるがけしからんと思うのは、その恰好が煽情的せんじょうてきに過ぎるから。玲奈の着ているチャイナドレスは、強烈に腰上までスリットが入って、網タイツの太ももが露わだ。華奢きゃしゃな両肩も丸出しだし、胸元は何故か中央の穴から胸の谷間が露出している。

 けしからん、全くもってけしからん。

 そう思いつついづるは、取り出したスマホでその姿を写真に収める。

 長い髪を頭の後ろでお団子だんごに結った玲奈は、通りのいい声で一生懸命働いていた。


「師匠! 七番テーブル、餃子二皿と生ビールを追加です。よくて?」

委細承知いさいしょうちッ! まずは四番テーブルのラーメンと炒飯チャーハンっ! 出せぃ、ドモン!」

「だから、俺はドモンじゃなくて山田です! いい加減、覚えてくださいよ!」


 相変わらず大将は長い三つ編みを振り乱しながら、中華鍋を片手にどんどん料理を作り出してゆく。玲奈はもう一人のアルバイト、山田さんと一緒にずっと動き回っていた。

 心なしか、玲奈の表情は明るい。

 額に汗を光らせながら、彼女は笑顔で働いていた。


「……ふむ、どうやら俺たちの取り越し苦労のようだな、いづる少年」

「え、ええ……玲奈さん、ちゃんとやれてる。やっぱ凄いな」

「ねぇ、お店入らないのぉ? 今日は夕ご飯、天驚軒で食べるんじゃないのぉ?」


 お腹が減ってきたらしい翔子が、背後で右に左にとうるさくなってきた。だが、いづるは納得顔の真也と共に店内を覗き続ける。

 今日は夕食がてら、玲奈を見守りに来たのだ。

 だが、いざ玲奈の姿を見ると、複雑な気分である。

 彼女の意外な一面が見れたし、勤労少女として頑張ってるのもわかる。だが、イキイキと働く玲奈を見ていると、自分の知らないところで充実している彼女に妙な気持ちが湧き出た。

 それは、好きな人を独占したい心の狭さなのだろうか?

 どこかでいづるは、新しい生活の中で玲奈に頼られ続けたいとでも?

 その答えはわからないが、これはいいことなのだと自分に言い聞かせる。

 そうして店に入ろうかと意を決した、その時だった。


「おっと、姉ちゃん! いい尻してるじゃねえか、ガハハ!」


 通りかかった玲奈の尻を、酔っ払った客の男がでた。

 触った、つるりと手で触れた、そしてあろうことか最後に、ポン! と軽く叩いた。

 脚を止めた玲奈は、その客を振り向く。


「ああっ! 玲奈さんのお尻を……触ったね! 二度も! 僕も触ったことないのに!」

「い、いづる少年? 落ち着け、落ち着くんだ」

「いづちゃん、ムッツリスケベだからなあ~」


 許せない、絶対に許せない……絶許である。

 だが、いづるの怒りとは裏腹に、しばし真顔で男を見詰めた玲奈は、笑顔になった。

 それは、いづるには不可解なほどに明るく穏やかな笑顔だった。


「お客様、困ります。私のお尻を触るなんて、めぇーっ! でしょ?」


 ニッコリ微笑む玲奈に、赤ら顔の男はデヘヘと笑った。

 どうやら玲奈は、怒っていない……というか、怒った様子を見せないことにしたようだ。それが接客としては適切だと、その場で彼女が判断したのだろう。

 男は結局、ニヤリと笑って「すまねえな! ガハハ!」と酒を飲み出した。

 いづるもホッと胸を撫でおろしていると、店の大将が飛んできた。


「どうした、お嬢さんッ! よもやセクハラなど受けてはいまいな!」

「大尉がお尻を触ったんです。それと……お嬢さんはよしてください、大将。客が見ているわ」

「ハッハッハ、承知したぁ! こいつは一本取られたわい」


 いづるが思っているよりも、玲奈はずっと大人で、世間せけんに溶け込めていた。もっと、市井しせいを知らぬお嬢様だと思っていた、そのことが今は恥ずかしい。

 あれも玲奈なりの努力、そして一生懸命さの現れだと思う。

 いづるの知ってる玲奈は、みだりに自分をはずかしめる人間を絶対に許さないからだ。


「いずる少年、阿室は立派にやっているようだな」

「ええ……なんか、玲奈さんは凄いですよね」

「だろ? そういうとこも阿室の一面で、でも全てではない。これから色々な阿室を知っていくだろうな。ン、ま、まあ……とにかく、店に入ろうか」


 心なしか真也も嬉しそうで、無言だが翔子もウンウンと満面の笑みで頷いている。

 どうやら玲奈の心配は、もうしなくてもよさそうだ。

 一人でも立派にやっている……改めていづるは、もう一度だけその姿を目に焼き付ける。彼女の仕事はまだまだ始まったばかりだった。


「お客様、ご注文はお決まりでしょうか?」


 玲奈はメニューを眺めていた客のテーブルに寄って、にこやかにオーダーを聞いていた。やはり抜群にスタイルがよくて、チャイナドレスに密着した豊かな起伏と優雅な曲線が悩ましい。

 まさしく悩殺のうさつとはこのことだと、いづるも頬が熱くなる自分を止められない。

 だが、玲奈は涼しげな表情でりんとして、注文を書き留めるべく鉛筆とメモを手にする。


「えっと、じゃあ……オススメってあります?」

「オススメ? えて言うわ、全てであると!」

「は、はぁ。じゃあ、なにか麺物めんものにしようかな」

「麺物だけ? 冗談じゃないわ。現状で天驚軒のメニューは100%なんでも出せてよ」

「ライス食い放題が付いていない」

「あんなの飾りよ。お腹の空いた人にはそれがわからないんだわ」

品揃しなぞろえはこのメニューでわかるが、大盛り……俺に食い切れるかなあ」

「大佐の胃袋の腹減り具合は未知数です。保証できるわけがないわ」

「大佐? えっと……はっきり言われる、なんか、こう……気に入らないなあ」

「どうも。気休めかもしれなけど、大佐なら美味いと言って完食できてよ?」

「ありがとう、信じよう。じゃあ……担々麺タンタンメンを大盛りで」


 なんだかよくわからないが、バイトの方は順調のようだ。

 いづるが胸を撫で下ろしつつ、やっとの思いで入店しようとした、その時だった。

 突然背後で、黄色くはずんだ嬉しそうな声が響き渡った。


「まあ! そこにいらっしゃるのは、いづる様!」


 振り向くとそこには……何故か、古府谷文那フルフヤフミナが立っていた。目を輝かせて、両手の指と指とを絡めて握って振り回し、ブリッブリッにブリッ子モードで、赤いドリル縦ロールが揺れている。

 彼女は背後に二人の黒服を連れながら、いづるへと近づいてきた。

 どうしてこの下町情緒溢れる商店街に、彼女のようなセレブが?

 その答えを彼女は、聞いてもいないのに喋り始めた。


「この商店街はいずれ、わたくしの古府谷財閥が買い占めますの。こんなしみったれた場所ではなく、ハイセンスな巨大ショッピングモールになるのですわ!」

「えっ……それって」

「用地買収がなかなか進まないと父上がなげいていたので、わたくし自らこうして視察に繰り出せば……来てよかった。好きな人に会えて! これは……運命よ! またわたくしは、恋ができる!」


 勝手に盛り上がる文那は、パチン! と指を鳴らす。

 それで背後の黒服は「承知しました、お嬢様」とうなずき、いづるたちの前に来た。背後で翔子が引っ付き、真也が身構える気配がしたが……黒服たちは通り過ぎてゆく。

 黒服の二人組が天驚軒に入っていって、そして全てが変わった。

 次々と客たちが、不満を口にしながらも出てきたのだ。

 その手に、数枚の福沢諭吉ふくざわゆきちを……一万円札を握って。

 思わずいづるは、文那を振り返る。


「ご苦労ですわ、呂辺ロベ亜堀アボリも。これで邪魔者はいなくなったわ……貸し切りですわ、いづる様! そちらのド庶民丸出しなご友人くらいは、ご一緒してもよくてよ」

「文那先輩っ、なにをしたんです! どうしてこんな」

「お店にいる客は食事のことしか考えていなくてよ! だからデートするため買収した!」

「ば、買収!? っていうか、デートォ!?」

「さ、いづる様。参りましょう! わたくし、いづる様とこうしてディナーをご一緒できるなんて、夢みたい。こんな小さな下町のお店でも、わたくし我慢しますの」


 気付いた時にはもう、文那はいづるの二の腕に抱き着いていた。

 そして、有無を言わさず店内へと入ってゆく。

 戸が開かれるとそこには、突然いなくなった客たちの食器を片づける玲奈がいた。彼女は少し残念そうに、まだ料理の残った皿たちを運んでいる。だが、客かと思ったのかこちらに気付いて、愛想のいい笑顔を向けてくれた。

 だが、その表情が突然の光景に強張り固まる。


「いらっしゃいませ、空いてるお席へどうぞ! ……!? 貴女……古府谷文那! どうしていづる君と?」

「あーら、誰かと思えば"萬代ばんだいの白い悪魔"、安室玲奈じゃありありませんこと? ふふ、どうしてって? それは、愛よ!」

「愛!?」

「いづる様とは最早もはや、愛を超え、いつくしみをも超越し……両想いとなったの!」


 待って欲しい、やめてくれ。

 いづるはただ、あまりに唯我独尊ゆいがどくそん過ぎる文那に言葉を失った。

 最早と言うほど長い付き合いでもないし、愛を超えてもいない。

 そういう関係を望んで望まれ、求め合う仲はいづるには一人だ。そういう女性は一人だけなのだ。だが、その人は今、いづるに密着する文那を見て驚きに目を丸くしている。

 こうしていづるの、途方もなく面倒で迷惑なディナータイムが幕を開けるのだった。

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