Arbeiter

第6話「パーティ・バイト」

 日陽ヒヨウいづるにとって、出会いと再会の一日が終わった。

 夜が明けて朝、六時半……昨夜のこゆい出来事を思い出しつつ、いづるは階段を降りてダイニングのキッチンへと向かう。ドアを開ければすぐ、珈琲コーヒーの温かな香りが鼻孔びこうをくすぐった。そして、優雅な朝の雰囲気に穏やかさを湛えた笑顔が、コンロの前で振り返る。


「いづちゃん、おはよーうっ! よく眠れたぁ? 今、玉子焼くね……なにがいいかなあ。だし巻き玉子? 目玉焼き? スクランブルエッグ? それともオムレツ?」

「おはよう、翔子ショウコ。えーっと、お任せで」

「じゃあ、秘密の裏メニューにするねっ! 日輪の力を借りて、今っ! 必殺のぉ……ベーコンッ、エーッグ!」

「はは、なんだよそれ。でも、ベーコンエッグは嬉しいかな」

「エヘヘ、この間海姫マリーナさんに教えてもらったんだあ。隠し味はね、チーズ」


 ノリノリでフライパンを手に、割烹着かっぽうぎ姿の楞川翔子カドカワショウコは張り切っている。いつもの朝の光景で、いづるにはとてもありがたい。家事だってやれないことはないが、やはり年季の入ったプロフェッショナルの翔子とは雲泥の差だ。それに、こうして親身になってくれる幼なじみの存在、それ自体がいづるにはかけがえのないものだった。

 鼻歌交じりにアニメソングを歌い出した翔子の背中を見ながら、いづるはトースターに食パンをセットする。いつもは翔子がいづるの倍は食べるので四枚焼くのだが、今日は余分にもう一枚。焼けたトーストが飛び出すタイプのクラシカルな機械が、ふわふわでもちもちのパンを飲み込んだ。


「そういえば、玲奈レイナさんは今日は遅いね。どうしたんだろ……寝坊かな?」

「あれぇ? 言われてみれば……いつもいづちゃんより早く着替えて降りてきて、珈琲飲みながら新聞読んでるんだけどなあ。どしたんだろ」

「……あかり姉さんはまあ、あの人のことだから……起こしても起きてこないと思うし」


 いづるは自分のマグカップに珈琲を注ぎつつ、改めて違和感に周囲を見渡す。いつもいづるより早起きで、時々は部屋まで起こしに来てくれる麗しの御令嬢……今は日陽家の居候いそうろう阿室玲奈アムロレイナの姿がなかった。

 彼女がいつも座っている椅子の前には、まだ読まれていない新聞紙が置かれている。

 どうしたのかな、と気になりつつ、いづるは焼けたトーストが飛び出してきたので受け取った。その一枚を皿に置いて「翔子は?」と声をかける。


「わたしはねえ、ピーナツバターにしようかなあ。べたーっと塗って、べたーっと!」

「はいはい……太るよ、そんなに高カロリーなものばかり食べてさ」

「あー、いづちゃんいけないんだあー! いーけないんだー! 女の子にそゆこと言うの、めぇ! ですよっ。……玲奈先輩には間違っても言っちゃダメだよぉ? 嫌われちゃうんだから」

「はは、わかったよ。でも、翔子はいつもガンガン食べるのに太らないよね」

「家事って、すっごくカロリー消費するんですー! あ、そうだ!」


 ポン! と手を叩いた翔子は、焼きたてのベーコンエッグにトマトとレタスを添えて、ポテトサラダを盛り付けるとテーブルにやってくる。いづるの前に皿を置きつつ、指定席である向かいに座ってトーストを食べ始めた。

 そして、にっぽりと緩い笑みでいづるに言い放つ。


「いづちゃん、お寝坊さんな玲奈先輩を起こしてきてよぉ~」

「ああ、うん……えっ!? いや、それは」

「玲奈先輩って今、二階の客間だった部屋に寝てるんでしょ? ほらぁ、起こしてきてー」

「そ、それはまずいよ、ダメだってば。女の子の部屋に勝手に入るなんて――」


 一瞬、いづるの脳裏をふしだらな妄想が過る。

 あられもない姿で寝入る玲奈の姿が浮かんで、その優美な寝姿が寝返りをうつ。布団がはだけて、パジャマ姿があらわになる。そしてムニャムニャとかわいい寝言をつぶやきながら……やはり、朝からいづるはムッツリスケベだった。

 だが、そんな空想にふけるいづるの背後に、ぬらーっと気配が立った。


「あ、玲奈先輩っ! おはようございまーすっ」

「玲奈さん!? あ、いや! 僕は別に! 変なことを考えていた訳では! ただ、こう」


 振り向けば、パジャマ姿の玲奈がぼんやりと立っている。

 いつもはきちんと着替えてから降りてくるのだが、遅い時間に寝間着のまま登場である。その目は開いているのにまぶたが重そうで、三白眼気味にジト目の瞳が虚ろな色をたたえていた。トレードマークのVの字アホ毛は、今はピタリと閉じていた。

 どうやら玲奈はまだ、半分以上寝ているようだ。


「……おはよう、ございます……いづる君。そして、翔子さん。……あ、おはようございます、マチルダ中尉」

「あ、あれ? 玲奈さん? 寝ぼけてるのかな」

「なにを寝ぼけてるの、ステッチ。木馬よ、木馬を討ち取らねば我々の、我々の戦いの意味はないわ……」

「ああ、えっと」


 普段と違って生気にかけるその姿は、さながら夢の世界から彷徨さまよい出た妖精のようだ。いづるのを借りたぶかぶかのパジャマではなく、翔子が自分の古着を手直ししたものを着ている。とてもかわいらしいピンクのパジャマで、BとLのロゴがアチコチに入っていた。その布地に曲線を描かせているスタイルはバツグンの美しさで、サイズがあっているから余計に目立つ。

 しかし、そんな魅力的な姿をさらす玲奈は、ぬぼーっと自分の椅子に座った。

 翔子が玉子を片手に調理方法を聞けば、「セイラさんに相談してみましょ? お医者さんのたまごなんでしょ? セイラさん」と要領を得ない。

 やはりまだ、玲奈は夢の中にいるようだ。

 それでも珈琲をブラックで一口飲むと、彼女は小さく溜息ためいきこぼす。


「……少し眠れなかったわ、いづる君。翔子さんも。おはよう、情けない姿をさらしているわ、私……でも、どうしても寝付けなくて」

「気にすることないですよ、玲奈さん。そ、そそ、それに……新しいパジャマ、かっ、かか、かかかかっ! かわいいっ! です、よ」

「ありがと、いづる君……ふふ、よして頂戴。兵が見てるわ」

「……でも、どうしたんです? いつもは予習復習を終えて11時には寝る玲奈さんが」


 プレーンのオムレツを焼いて出した翔子から皿を受け取り、もう一度玲奈は溜息を一つ。そうして、テーブルに立つ調味料の中からケチャップのびんを手に取る。彼女はまだ眠そうな目をこすりつつ、ボトルの蓋をあけるやオムレツになにかを書き始めた。


「ガンダム……ガンダムよ、いづる君。ガンダム……どうしましょう、あかり姉様はガンダムがお嫌いなのだわ。無理もないかもしれない、だって大事な人がガンダムにられてしまったんですもの」

「ああ、姉さんの……気にすることないですよ、玲奈さん」

「でも、一緒に住む方よ、その……かっ、家族、ですもの。私、色々考えたの」


 玲奈はオムレツにでっかく、ラー・カイラム! とケチャップで書いた。

 正直、意味がわからない。

 だが、寝ぼけているのだろうしガノタだからと、えていづるは突っ込まなかった。それは勿論、ニッコニコでトーストを焼き始める翔子も同じだった。

 そして玲奈は、上品に朝食を取りつつ、形ばかりは優雅に語り出した。


「あかり姉様のご心痛を思えば、私はのうのうとガンダムが好きなだけの自分ではいられないわ。でも、ガンダムがなかったら私の毎日は……それ以前に、私がガンダム好きな自分を押さえ込めるかどうかも危ういの」

「や、考え過ぎだと思いますよ……玲奈さん」

「でも、うっかり私が、似てるからって高山みなみさんの声真似で姉様を、リーサ・クジョウと呼んじゃったら……ガンダムを即座に想起して、姉様は悲しまれると思うの」

「いや、ガンダムネタは全然通じないから大丈夫だと思います……ってか、高山みなみさんって誰ですか、声優さんですか?」


 すかさず翔子が「コナンくんの声優さんだよぉ!」と教えてくれる。

 しかし、どうやら玲奈はかなり悩んでいるようだ。無理もない……御屋敷暮らしを追われての波乱万丈はらんばんじょうな夏休みをて、ようやく得た安住の地が日陽家なのだ。ここでまた、ガンダム大好きな生活がつつましく送れると思っていた矢先の出来事である。

 だが、いづるには少し、いや……かなり考え過ぎな気もするのだ。


「いいですか、玲奈さん! 大丈夫です……ハッキリ言って、玲奈さんのガンダム的な言動は、せいぜい富尾トミオ先輩くらいにしか通じませんから!」

「うんうんっ! アニメ好きのわたしにもチンプンカンプンだからだいじょーぶですよぉ!」

「いづる君……翔子さんも」


 ようやく笑顔を見せた玲奈の、額のアホ毛が左右に開いてゆく。

 無駄に荘厳な音楽が聞こえるかのような錯覚の中、普段の凛々りりしく楚々そそとした表情を取り戻して、玲奈が微笑む。


「そ、そうね! 少し気負い過ぎてたかもしれないわ、私……ありがとう、二人共」


 そもそも論として、ガンダム嫌いを公言してガンダム憎しと気炎をあげた日陽あかりだが、実際のところ彼女はガンダムをよく知らないようだ。ロボットが出てくる子供向けアニメだと思っている。そして、アニメーターである夫をそのガンダムに盗られたと、逆恨みしているのだ。

 そんなことを考えていると、噂の渦中で台風の目となっている人物が現れた。


「みんなー、おはよぉ……うう、飲み過ぎたー!」


 例の毒々しいネグリジェで、いづるの姉あかりがやってきた。彼女は青い顔で髪もボサボサ、いかにも二日酔いといった表情のままふらふら歩いてくる。慌てて翔子が椅子を出すと、それに座るなりベタッとテーブルの上に突っ伏した。


「大丈夫ですかぁ? あかりさぁん」

「うう……翔子ちゃん、お味噌汁……しじみのお味噌汁」

「は、はいぃ! インスタントしかないですけどぉ、ちょっと待ってくださいねぇ~」

「あと、いづる……珈琲……胃が痙攣けいれんしそうな程に濃いやつを」


 やれやれといづるがカップに珈琲を注いでやると、あかりはその温もりを手にしてもぞもぞと身を起こす。珈琲の香りを吸い込み、彼女は朝から息も絶え絶えだった。

 心配そうに見やる玲奈がおろおろとしているが、いづると翔子にはお馴染みの光景である。


「いやぁ、昨夜は久々に飲んだわぁ」

「どうせ毎日飲んでるんでしょう? 姉さん」

「ぐふふ、まあね……はぁ、それにしてもみんな朝が早いわねぇ」

「学生ですからね、僕も翔子も玲奈さんも」

「そっか……まあ、私ももうすぐ再就職、働くから……生活習慣を正さないと、いけ、ない」


 完全にグロッキーなあかりであった。

 翔子が忙しく働く中で、いづるは玲奈の意外な言葉を聞く。

 それは、全く予期せぬ一言であった。


「ご立派ですわ、あかり姉様」

「あー、玲奈ちゃん、おはよぉ~! ふっふっふ、まぁね……働かざるもの食うべからず、って言うし。それに、これでも私はちょっと前は大人気の美人お天気お姉さんだったのよ!」

「原隊復帰されるのですか? キシリア閣下の取り計らいで……ジャブローへの潜入口を見つけることを手柄に?」

「ん? えっと……わはは、最近の若いはハイカラなこと言うなー。お姉さんはね……こうなったら仕事に生きるのよ! 稼いで稼いで稼ぎまくって、遊び倒してやるんだから!」


 グッ! と握った拳も高らかに立ち上がったあかりは、そのまままたシナシナと椅子に崩れ落ちた。運ばれてきた味噌汁を静かに少しずつ飲みながら、頭の中の割れ響くような金切り声と戦っているようである。

 そして、そんなあかりの言葉で思い出したように、玲奈が言葉を続ける。


「私も負けてはいられないわ……働かざるもの食うべからず。いづる君! 翔子さんも! ……聞いて頂戴。私、前から考えていたの。少ない時間だけど、

「えっ? 玲奈さん、それって」

「丁度いいアルバイトを見つけてあるの、いづる君。少しは日陽家にお金が入れられると思うわ。生徒会もあるから、週に四日、夕方だけ」

「いいんですよ、玲奈さん! そんな気をつかわなくても……もっとのんびり過ごしてくださいよ。一緒に、その、できれば、いたいし……それに、すっごい心配です! 物凄く!」

「心配かけてごめんなさい。少し働いて疲れたいのよ、いづる君」


 聞けば、既にアルバイトの面接は終えていて、今日から働きに出るという。

 だが、いづるの胸中を満たす不安の黒い雲は、あっという間に広がっていった。それは翔子も同様のようで、あわあわと割烹着を脱ぎながら一人で慌てふためいている。

 そんな中、ズズズーっと味噌汁をすするあかりだけが冷静だった。


「バイトー? いーんじゃない、いづる。何事も経験よん?」

「でも、あかり姉さん!」

「玲奈ちゃんはね、居候に甘んじてもいられないって言ってるの。それに、ありがたいと思うからこそ少しでも働いて返したいって気持ち、わかるでしょう?」


 あかりの言葉に玲奈を見やれば、いづるは力強い頷きに納得するしかない。

 だが、次の瞬間には玲奈の口から、驚きのバイト先が告げられる。それはある意味では納得というか無難というか、ある種の予定調和おやくそくすら感じられたが……それでも、玲奈に果たして飲食店での接客業が務まるのだろうか?

 言い知れぬ不安の中で、いづるは「やってみせるわ!」と意気込む玲奈を見守るしかできないのだった。

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