第10話「大人に焦がれる」

 阿室玲奈アムロレイナのアルバイト初日の、その波乱の勤務が終わった。

 少し遅くなってしまったが、日陽ヒヨウいづるはいつもの面々を連れて帰宅した。特に用事もないのだが、お隣さんの楞川翔子カドカワショウコに、友人の富尾真也トミオシンヤ、そしてメイドの来栖海姫クルスマリーナが一緒だ。

 そして、自宅には……干物ひものと化した酔っぱらいが待っていた。


「遅いー、遅いよー、いづる! お腹減ったぁ……」


 相変わらずリビングに、下着姿でソファに転がる姉の姿。誰であろう、日陽あかりである。彼女は周囲にビールの空き缶を散らかしながら、今はワインを飲んでいる。

 いづるを始め、日陽家ゆかりの者たちはもう、この程度では驚かない。

 そして、普段から無表情で動じない海姫も変わらなかった。

 だが、真也は眼鏡を手で上下させながら、顔を真っ赤に染める。

 それを見た翔子が、両手で彼の目を隠した。


「紹介するねぇ、富尾先輩っ。いづちゃんのお姉さんで、あかりさんですよ~」

「お姉さん!? そうか、いづる少年に姉が……し、しかしこの格好は!」

「あかりさんは人妻だからだめだよぉ、富尾先輩。因みにいつもこうですぅ」

「そ、そうか……スト、スト、スト……やるのね?」

「やりません~!」


 翔子と真也のやり取りは意味不明だが、海姫はメイドとして気になるらしく、空き缶を片付け始めた。

 だが、泥酔して目のすわわったあかりは、気にすることなくワインを飲み続ける。


「いづる、私お腹減った……いい匂い、する」

「あかり姉さん、えっと、今日は外食するからって言ったら」

「うう……そう、そうだった。私はハローワーク行くから、適当に食べるって言ったんだっけ。でも、手持ちのお金は全部お酒にしちゃったから、家でなにか食べようと思って」

「相変わらず計画性なさすぎますよ、姉さん。ほら、これ。中華です」


 いづるは知らないが、どこか「母さんです」みたいなニュアンスで袋を渡す。

 天驚軒てんきょうけんの大将はいづるたちに夕食を振る舞ってくれた上に、テイクアウトで沢山の料理を持たせてくれた。あの人はいい人だ……今川監督いまがわかんとくの好きそうなハッスルジジイ、奇人変人だが凄くいい人だと、真也が言っていたのが印象的だった。

 そして、中華料理の折り詰めを渡してやったら、あかりはソファから飛び起きた。


餃子ぎょうざ! 唐揚からあげ! ふぅぅぅ、いづるぅぅぅぅ! 私、嬉しい!」

「ちょ、ちょっと! 姉さん、抱きつかないで」

「ささ、みんなも座って座って! えっと、そこのおっきー人も。えと……だれちゃん?」


 そう言えば初対面なんだと思った時には、海姫は「お嬢様のメイド、来栖海姫です」と頭をさげる。酔っ払ったあかりはウンウンと大きく頷いて、深くは言及しようとはしなかった。

 昔から流れと勢いだけが全てで、深いことを考えないのが日陽あかりという女性だった。

 そして、海姫は一通り周囲を片付けると、改めてあかりをじっと見詰める。


「ほえ? 私の顔になにかついてる? メイドさん」

「……似てる」

「へ? 似てる、って」

「失礼ですが、いづるの姉君」

「やーね、姉君って……そだ! ねね、ちょっと奥様って呼んでみて。憧れるわね、メイドのいる生活」

「は、はぁ……では、奥様」

「いい! いいわねー! 玲奈ちゃん、本当にお嬢様やってたんだ。メイドさんまでいるなんて……で? なにが似てるのかしらん?」


 瞬時にいづるはマズイと思ったし、振り返れば玲奈も同じ顔をしていた。

 そして、海姫が喋ると同時に二人は駆け寄る。


「失礼ですが奥様、奥様は似ています。その、スメラギ・・ノリエガに……」

「あら、だぁれ? それ、ハリウッド女優? それともスーパーモデルかしら。私に似てるんですもの、きっと」

「いえ、アニメの登場人物です。機動戦士ガンダ――」

「うわああああっ! 海姫さん、すみませんっ!」

「ごめんなさい、海姫! 機体はそのまま、メイドには黙ってもらうわ!」


 いづるが手を伸べ、玲奈も同じ動きで続く。

 どうにか海姫の口をふさいだ時には、いづるの手には確かなぬくもりがあった。ガンダム、その四文字を言わせぬために伸ばされた手と手が、いづると玲奈の体温を互いへと染み渡らせる。

 むむむ、となった海姫をよそに、二人はもじもじと手を離した。

 その姿にニヤニヤしていたあかりだったが、ふと眉間みけんにシワが寄る。


「ガン、ダ? それってもしかして……ガンダムゥ? ああん? 今ガンダムつったか?」


 せっかくの美人が台無し極まりない、あかりの表情。

 まるで親のかたきでも見るような目はフラットに据わっており、ビキビキと額には血管が浮き出ていた。

 そう、

 愛する夫を、仕事に……ガンダムのアニメ制作に奪われたと思っているのだ。

 すっかりガラが悪くすさんでしまったあかりに、いづるも玲奈も言葉を失う。事情を知らぬ海姫が再び口を開いた瞬間、背後から助け舟が出された。


「ええ、それです。奥様、やはり貴女は似てます。ガンダ――」

「ガンダーラッ、ガンダーアラ! ゼィシートゥワナ、イーンディアッ!」


 突然歌うよ!

 翔子が妙な不思議な振り付けで踊りながら、突然歌い出した。

 そして、皆が呆気あっけにとられる中、微妙に気不味い空気が場を満たす。

 いづるは内心、ナイスだ翔子! と思ったが、あかりは怖い目で翔子を凝視している。なにかをまた喋ろうとした海姫を、玲奈が耳打ちで黙らせた。

 そして、グビビとワインを飲みつつ、ソファに身を沈めたあかりはピシャリと膝を打つ。


「ああ、それ知ってる! 知ってるわ、翔子ちゃん! ニコニコ動画で見たもの!」

「うふふ、知ってますかぁ? ゴダイゴですよ、イッ、ガンダ~ァラ♪」


 危機は去った。らしい。

 笑顔で踊って歌う翔子の気転で、あっという間にあかりに笑顔が戻ってくる。かなり酔っ払っているらしく、千鳥足ちどりあしながらもあかりは再び立つや、翔子と一緒に歌い出した。

 二人が奇妙な踊りで仲良く歌う中で、いづるは真也と海姫に手招きをする。

 海姫は何事にも動じぬ態度だが、真也は目を白黒させていた。

 無理もないと思いつつ、玲奈と一緒にいづるは事情を説明し始める。


「すみません、海姫さん。富尾先輩も」

「私は構わんが……いづる、お前の姉君はやはり似ている。君の姿は僕に似ている、と言うのだろう? ガンダム好きは。私はガンダム00ダブルオーは全部見たぞ……正確には、お嬢様に全部見せられたのだが。エクシアがスーパーロボットっぽくて、とてもよかった」

「それより、いずる少年っ! どういうこと? 説明しなさいよ」

「落ち着いて、富尾君。お姉様は今、ガンダムが大嫌いなの。アニメの仕事をしている旦那様が、ガンダムの制作で忙しいあまり、お姉様と日々がすれ違ってしまったのよ」


 ちらりと四人は、同時に振り返る。

 あかりは赤ら顔で、上機嫌で翔子とガンダーラを熱唱しながら踊っていた。

 そして、それを見やる海姫の顔が優しくなる。


「そうか……奥様もまた、ガンダムに人生を狂わされた被害者」


 そう言うと、海姫は静かにあかりに歩み寄った。

 いづるや玲奈が止める暇もなく、その隙もなかった。


「失礼、奥様……事情をうかがいました」

「あら、えっと……メイドさん! メイドさんも踊る? わはは、今夜は無礼講ぶれいこうよっ! 歌って踊って、飲むのよ!」

「頂きましょう。共に辛い過去を持つ身、私でよければお酒の相手をさせていただきます」

「あら、嬉しい!」


 海姫もまた、昔はガンダム嫌いな女だった。

 幼少期の玲奈に、無理矢理にガンダムを見せられた反動だ。

 今はそうでもないらしいが、彼女は生粋きっすいのスーパーロボットオタク……以前はガンダム嫌いを公言してはばからぬ人物なのだった。

 そんな海姫とソファに座り、その肩を抱きながら脚を組んであかりもふんぞり返る。


「翔子ちゃん、グラスー! ささ、飲んで飲んで。日本酒も焼酎しょうちゅうもあるわよぉ!」

「海姫さぁん、どうぞ。ふふ、あかりさんもお酒の相手がいてよかったですねぇ。いっつもわたしたち未成年ばかりだし、一人のお酒は寂しいですもんっ」

「いただきます、奥様」


 どうにか無事に、平穏に済みそうだ。

 いづるは改めて、姉の前のでガンダムトーク、及びガンダムに関する発言を控えた方がいいと確認した。玲奈も真也も、とりあえず頷いてくれる。

 だが、平和を取り戻したリビングに戦慄が走る。

 受け取ったグラスでワインを注がれ、一口飲んだ海姫が……豹変ひょうへんした。


「ガンダム……ひっく! ガンダムは……敵! ガンダムゥ! ひっく」


 突然の言葉と共に、彼女はグラスのワインを飲み干した。

 そして、驚きつつも二杯目を注ぐあかりは、あまりに異様な雰囲気になってしまった海姫に、もはやガンダムアレルギーどころではない。

 海姫はグビグビとワインを飲んで、手の甲で口元を拭うや言葉を続ける。


「いする……お前もガンダムか!」

「え? あ、いや、違いますけど」

「そうか……ひっく! ガンダムは敵、ガンダムは敵! ひっく」


 海姫ははしを手にしてテーブルに向け、ヒョイパク、ヒョイパクと中華を食べ始めた。そして、もぎゅもぎゅと咀嚼そしゃくしつつも「ガンダムは敵」と続ける。

 全員がガッツリ引いてしまった、突然の変貌。


「れ、玲奈さん……? あの、海姫さんが……」

「海姫はお酒に弱いのかしら。これは」

「あ、いや……弱いとかそういうんじゃなくて、もっと根本的に」

「いけないわね、マシーンに取り込まれてしまうわ!」


 その時、あかりが海姫に抱き付いた。

 もはや手のつけられない展開で、海姫もブッピガーン! とあかりを抱き返す。


「そうよ、そうなのよ! メイドさん、ガンダムは敵なの! 敵なのよぉぉぉぉ!」

「奥様、私は……小さな頃からガンダムを、無理矢理に……お嬢様は、許します。許してもくださいます。でも、でも」

「仕事をこなすことしか知らない男が、玲奈ちゃんを世話する道具としてあなたを雇った。家事は女の腕から生み出されるものなのに、不自然だと思わない?」


 男女同権の今の世では、それもちょっと古いなとは思う。

 いや、それ以前に玲奈は家の事情が……そう思ったが、いづるが割って入ろうとしたその時。玲奈が優しげな微笑みを浮かべて、二人の前に立った。

 彼女はソファと向かい合わせの椅子に座ると、黙ってワインのボトルを手にする。


「海姫、貴女には悪いことをしたと思ってるわ。それに、お姉様。お姉様も旦那様とのことはさぞお辛かったでしょう」

「玲奈ちゃん……う、ううっ、そーなのよぉぉぉ!」

「お嬢様……いいのです、私は……Gや00は好きになれましたから」


 グイグイ飲む二人に、笑顔で玲奈はワインを注いでやる。

 いづるは改めて知った……姉のあかりは勿論、海姫も以外にも酒癖が悪い。二人は肩を組んで飲みながら意気投合してしまったようだ。

 そして、そんな二人を見守る玲奈の視線は温かい。

 ガンダム好きなガノタの玲奈。

 その玲奈の前で、ガンダムに心の傷を刻まれた? と、言える? あかりと海姫が酒をかわわす。大人も大変なんだなあと思いつつ、いづるは苦笑するしかなかった。

 真也も驚いているが、翔子から出された茶をすすっている。


「いづる少年……なんだか、まあ、あれだな」

「ええ。色々とあるんですよ、姉さんも海姫さんも」

「だが、酒を飲める仲間がいるというのは、いいことかもしれんぞ? 二人には飲める仲間がいる……こんなに嬉しいことはない」

「まあ、あんまし酒癖が悪いのも考えものですけどね」


 そしていづるは、ふと思った。

 真也や翔子とも、いつか酒を飲んで思い出を語れるような大人になるのだろうか?

 その時、自分の隣に玲奈はいてくれるだろうか?

 それはまだ遠い未来のようにも思えるし、十代のなかばを過ぎて折り返した少年には、すぐに訪れる将来の気もする。ただ、漠然ばくぜんとだが最近はいずるも、これから先のことを考える時がたまにある。

 玲奈との日々、同居生活も、永遠には続かない。

 玲奈がいつか家族と自分に向き合うように、いづるもまた現実と対峙する日が来るのだ。


「いづる少年? どうした、遠い目になっていたぞ」

「え? あ、ああ……その……いいな、って。僕も早く大人になりたいですよ」

「ン、そうだな。俺たちは高校生、世間せけんはよく、自分の都合で大人と子供を使い分けないでと言うが……夢を忘れた子供たちとか、全て忘れた大人たちとかな。だが、時代が泣いてるなんて、俺は思わん。そうでしょ? いづる少年」

「よくわからないですけど……でも、僕は早く大人になりたい。玲奈さんと……みんなと一緒に大人になりたいです」


 その時が来れば、きっといづるは今よりもっと、ぐっとずっと、姉のあかりに寄り添える気がした。今の子供以上で大人未満な自分より、多くのことで姉を支えてやれる、慰めてやれる気もするし、時には正すことだってできるかもしれない。

 でも、そういう時が訪れても、変わらず隣にいて欲しい人がいる。

 その人は今もあかりと海姫の相手をしながら、優しい笑顔で見守っていた。


「翔子ちゃーん! もっとお酒ぇ! うう……そう、ガンダムはいけないわ、ガンダム。男の子って好きなのよね、ああいうの。子供っぽいの。まったく……なーにがリアルロボットアニメだー! なーにがニュータイプだー!」

「ええ、ええ。もっと子供は、大人も女性もですが、スーパーロボットを見るべきなのです。東映まんがまつりを見るべきなのです。ガンダムは、だから、敵……ひっく!」


 なんだかよくわからないが、盛り上がってるようでいづるも安心する。そして、改めて思った……どうにかして、あかりのガンダム嫌いが治せないかと。あの海姫だって、紆余曲折を経てガンダムと折り合いをつけたのだ。

 ガンダム大好きな玲奈と一緒に暮らすなら、少しでもガンダムを許して欲しい。

 笑顔で接する玲奈の前では、ガンダムを悪く言って欲しくないのだ。

 どうにかならないかと思案をくゆらすも、今のいづるにはいい考えは浮かばないのだった。

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