第10話「大人に焦がれる」
少し遅くなってしまったが、
そして、自宅には……
「遅いー、遅いよー、いづる! お腹減ったぁ……」
相変わらずリビングに、下着姿でソファに転がる姉の姿。誰であろう、日陽あかりである。彼女は周囲にビールの空き缶を散らかしながら、今はワインを飲んでいる。
いづるを始め、日陽家ゆかりの者たちはもう、この程度では驚かない。
そして、普段から無表情で動じない海姫も変わらなかった。
だが、真也は眼鏡を手で上下させながら、顔を真っ赤に染める。
それを見た翔子が、両手で彼の目を隠した。
「紹介するねぇ、富尾先輩っ。いづちゃんのお姉さんで、あかりさんですよ~」
「お姉さん!? そうか、いづる少年に姉が……し、しかしこの格好は!」
「あかりさんは人妻だからだめだよぉ、富尾先輩。因みにいつもこうですぅ」
「そ、そうか……スト、スト、スト……やるのね?」
「やりません~!」
翔子と真也のやり取りは意味不明だが、海姫はメイドとして気になるらしく、空き缶を片付け始めた。
だが、泥酔して目の
「いづる、私お腹減った……いい匂い、する」
「あかり姉さん、えっと、今日は外食するからって言ったら」
「うう……そう、そうだった。私はハローワーク行くから、適当に食べるって言ったんだっけ。でも、手持ちのお金は全部お酒にしちゃったから、家でなにか食べようと思って」
「相変わらず計画性なさすぎますよ、姉さん。ほら、これ。中華です」
いづるは知らないが、どこか「母さんです」みたいなニュアンスで袋を渡す。
そして、中華料理の折り詰めを渡してやったら、あかりはソファから飛び起きた。
「
「ちょ、ちょっと! 姉さん、抱きつかないで」
「ささ、みんなも座って座って! えっと、そこのおっきー人も。えと……
そう言えば初対面なんだと思った時には、海姫は「お嬢様のメイド、来栖海姫です」と頭をさげる。酔っ払ったあかりはウンウンと大きく頷いて、深くは言及しようとはしなかった。
昔から流れと勢いだけが全てで、深いことを考えないのが日陽あかりという女性だった。
そして、海姫は一通り周囲を片付けると、改めてあかりをじっと見詰める。
「ほえ? 私の顔になにかついてる? メイドさん」
「……似てる」
「へ? 似てる、って」
「失礼ですが、いづるの姉君」
「やーね、姉君って……そだ! ねね、ちょっと奥様って呼んでみて。憧れるわね、メイドのいる生活」
「は、はぁ……では、奥様」
「いい! いいわねー! 玲奈ちゃん、本当にお嬢様やってたんだ。メイドさんまでいるなんて……で? なにが似てるのかしらん?」
瞬時にいづるはマズイと思ったし、振り返れば玲奈も同じ顔をしていた。
そして、海姫が喋ると同時に二人は駆け寄る。
「失礼ですが奥様、奥様は似ています。その、スメラギ・
「あら、だぁれ? それ、ハリウッド女優? それともスーパーモデルかしら。私に似てるんですもの、きっと」
「いえ、アニメの登場人物です。機動戦士ガンダ――」
「うわああああっ! 海姫さん、すみませんっ!」
「ごめんなさい、海姫! 機体はそのまま、メイドには黙ってもらうわ!」
いづるが手を伸べ、玲奈も同じ動きで続く。
どうにか海姫の口を
むむむ、となった海姫をよそに、二人はもじもじと手を離した。
その姿にニヤニヤしていたあかりだったが、ふと
「ガン、ダ? それってもしかして……ガンダムゥ? ああん? 今ガンダムつったか?」
せっかくの美人が台無し極まりない、あかりの表情。
まるで親の
そう、あかりはガンダムが大嫌いなのである。
愛する夫を、仕事に……ガンダムのアニメ制作に奪われたと思っているのだ。
すっかりガラが悪く
「ええ、それです。奥様、やはり貴女は似てます。ガンダ――」
「ガンダーラッ、ガンダーアラ! ゼィシートゥワナ、イーンディアッ!」
突然歌うよ!
翔子が妙な不思議な振り付けで踊りながら、突然歌い出した。
そして、皆が
いづるは内心、ナイスだ翔子! と思ったが、あかりは怖い目で翔子を凝視している。なにかをまた喋ろうとした海姫を、玲奈が耳打ちで黙らせた。
そして、グビビとワインを飲みつつ、ソファに身を沈めたあかりはピシャリと膝を打つ。
「ああ、それ知ってる! 知ってるわ、翔子ちゃん! ニコニコ動画で見たもの!」
「うふふ、知ってますかぁ? ゴダイゴですよ、イッ、ガンダ~ァラ♪」
危機は去った。らしい。
笑顔で踊って歌う翔子の気転で、あっという間にあかりに笑顔が戻ってくる。かなり酔っ払っているらしく、
二人が奇妙な踊りで仲良く歌う中で、いづるは真也と海姫に手招きをする。
海姫は何事にも動じぬ態度だが、真也は目を白黒させていた。
無理もないと思いつつ、玲奈と一緒にいづるは事情を説明し始める。
「すみません、海姫さん。富尾先輩も」
「私は構わんが……いづる、お前の姉君はやはり似ている。君の姿は僕に似ている、と言うのだろう? ガンダム好きは。私はガンダム
「それより、いずる少年っ! どういうこと? 説明しなさいよ」
「落ち着いて、富尾君。お姉様は今、ガンダムが大嫌いなの。アニメの仕事をしている旦那様が、ガンダムの制作で忙しいあまり、お姉様と日々がすれ違ってしまったのよ」
ちらりと四人は、同時に振り返る。
あかりは赤ら顔で、上機嫌で翔子とガンダーラを熱唱しながら踊っていた。
そして、それを見やる海姫の顔が優しくなる。
「そうか……奥様もまた、ガンダムに人生を狂わされた被害者」
そう言うと、海姫は静かにあかりに歩み寄った。
いづるや玲奈が止める暇もなく、その隙もなかった。
「失礼、奥様……事情をうかがいました」
「あら、えっと……メイドさん! メイドさんも踊る? わはは、今夜は
「頂きましょう。共に辛い過去を持つ身、私でよければお酒の相手をさせていただきます」
「あら、嬉しい!」
海姫もまた、昔はガンダム嫌いな女だった。
幼少期の玲奈に、無理矢理にガンダムを見せられた反動だ。
今はそうでもないらしいが、彼女は
そんな海姫とソファに座り、その肩を抱きながら脚を組んであかりもふんぞり返る。
「翔子ちゃん、グラスー! ささ、飲んで飲んで。日本酒も
「海姫さぁん、どうぞ。ふふ、あかりさんもお酒の相手がいてよかったですねぇ。いっつもわたしたち未成年ばかりだし、一人のお酒は寂しいですもんっ」
「いただきます、奥様」
どうにか無事に、平穏に済みそうだ。
いづるは改めて、姉の前のでガンダムトーク、及びガンダムに関する発言を控えた方がいいと確認した。玲奈も真也も、とりあえず頷いてくれる。
だが、平和を取り戻したリビングに戦慄が走る。
受け取ったグラスでワインを注がれ、一口飲んだ海姫が……
「ガンダム……ひっく! ガンダムは……敵! ガンダムゥ! ひっく」
突然の言葉と共に、彼女はグラスのワインを飲み干した。
そして、驚きつつも二杯目を注ぐあかりは、あまりに異様な雰囲気になってしまった海姫に、もはやガンダムアレルギーどころではない。
海姫はグビグビとワインを飲んで、手の甲で口元を拭うや言葉を続ける。
「いする……お前もガンダムか!」
「え? あ、いや、違いますけど」
「そうか……ひっく! ガンダムは敵、ガンダムは敵! ひっく」
海姫は
全員がガッツリ引いてしまった、突然の変貌。
「れ、玲奈さん……? あの、海姫さんが……」
「海姫はお酒に弱いのかしら。これは」
「あ、いや……弱いとかそういうんじゃなくて、もっと根本的に」
「いけないわね、マシーンに取り込まれてしまうわ!」
その時、あかりが海姫に抱き付いた。
もはや手のつけられない展開で、海姫もブッピガーン! とあかりを抱き返す。
「そうよ、そうなのよ! メイドさん、ガンダムは敵なの! 敵なのよぉぉぉぉ!」
「奥様、私は……小さな頃からガンダムを、無理矢理に……お嬢様は、許します。許してもくださいます。でも、でも」
「仕事をこなすことしか知らない男が、玲奈ちゃんを世話する道具としてあなたを雇った。家事は女の腕から生み出されるものなのに、不自然だと思わない?」
男女同権の今の世では、それもちょっと古いなとは思う。
いや、それ以前に玲奈は家の事情が……そう思ったが、いづるが割って入ろうとしたその時。玲奈が優しげな微笑みを浮かべて、二人の前に立った。
彼女はソファと向かい合わせの椅子に座ると、黙ってワインのボトルを手にする。
「海姫、貴女には悪いことをしたと思ってるわ。それに、お姉様。お姉様も旦那様とのことはさぞお辛かったでしょう」
「玲奈ちゃん……う、ううっ、そーなのよぉぉぉ!」
「お嬢様……いいのです、私は……Gや00は好きになれましたから」
グイグイ飲む二人に、笑顔で玲奈はワインを注いでやる。
いづるは改めて知った……姉のあかりは勿論、海姫も以外にも酒癖が悪い。二人は肩を組んで飲みながら意気投合してしまったようだ。
そして、そんな二人を見守る玲奈の視線は温かい。
ガンダム好きなガノタの玲奈。
その玲奈の前で、ガンダムに心の傷を刻まれた? と、言える? あかりと海姫が酒を
真也も驚いているが、翔子から出された茶をすすっている。
「いづる少年……なんだか、まあ、あれだな」
「ええ。色々とあるんですよ、姉さんも海姫さんも」
「だが、酒を飲める仲間がいるというのは、いいことかもしれんぞ? 二人には飲める仲間がいる……こんなに嬉しいことはない」
「まあ、あんまし酒癖が悪いのも考えものですけどね」
そしていづるは、ふと思った。
真也や翔子とも、いつか酒を飲んで思い出を語れるような大人になるのだろうか?
その時、自分の隣に玲奈はいてくれるだろうか?
それはまだ遠い未来のようにも思えるし、十代の
玲奈との日々、同居生活も、永遠には続かない。
玲奈がいつか家族と自分に向き合うように、いづるもまた現実と対峙する日が来るのだ。
「いづる少年? どうした、遠い目になっていたぞ」
「え? あ、ああ……その……いいな、って。僕も早く大人になりたいですよ」
「ン、そうだな。俺たちは高校生、
「よくわからないですけど……でも、僕は早く大人になりたい。玲奈さんと……みんなと一緒に大人になりたいです」
その時が来れば、きっといづるは今よりもっと、ぐっとずっと、姉のあかりに寄り添える気がした。今の子供以上で大人未満な自分より、多くのことで姉を支えてやれる、慰めてやれる気もするし、時には正すことだってできるかもしれない。
でも、そういう時が訪れても、変わらず隣にいて欲しい人がいる。
その人は今もあかりと海姫の相手をしながら、優しい笑顔で見守っていた。
「翔子ちゃーん! もっとお酒ぇ! うう……そう、ガンダムはいけないわ、ガンダム。男の子って好きなのよね、ああいうの。子供っぽいの。まったく……なーにがリアルロボットアニメだー! なーにがニュータイプだー!」
「ええ、ええ。もっと子供は、大人も女性もですが、スーパーロボットを見るべきなのです。東映まんがまつりを見るべきなのです。ガンダムは、だから、敵……ひっく!」
なんだかよくわからないが、盛り上がってるようでいづるも安心する。そして、改めて思った……どうにかして、あかりのガンダム嫌いが治せないかと。あの海姫だって、紆余曲折を経てガンダムと折り合いをつけたのだ。
ガンダム大好きな玲奈と一緒に暮らすなら、少しでもガンダムを許して欲しい。
笑顔で接する玲奈の前では、ガンダムを悪く言って欲しくないのだ。
どうにかならないかと思案を
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