BEYOND THE PASSING

第31話「彼女を止めて」

 季節は十月末になっていた。

 日陽ヒヨウいづるはあの日から、まともに阿室玲奈アムロレイナと話せていない。

 同居しながら言葉らしい言葉を交わさず、一週間が過ぎていた。

 学校では今、文化祭に向けて盛り上がっている。私立萬代学園しりつばんだいがくえんの文化祭と言えば、近隣の住民たちも押しかける一大イベントである。二日間で何万人以上もの人間が出入りする、正真正銘の祭典なのだ。

 だが、浮かれて盛り上がる準備期間を、いづるは暗鬱あんうつな気持ちで過ごしていた。

 前夜祭を明日に控えた今も、気持ちは沈んだままで澱んでいる。


「――ちゃん! もぉ、いづちゃん! いづちゃんってばぁ」


 ふと耳元で声がして、いづるは我に返った。

 気付けばすぐそばに、幼馴染の楞川翔子カドカワショウコがいた。

 むー、と難しい顔で見詰めるふわぽちゃな翔子を、いづるはひきつる笑いで振り返る。


「あ、ああゴメン! なんだっけ、翔子……って、うわああああっ!」

「いづちゃん、驚き過ぎー……最近、変だよ?」


 すぐ間近に、青い顔をした翔子の笑顔があった。

 彼女は今、化粧と着替えで中国のお化けになっていた。昔に大流行した、というやつである。これは、いづるたちのクラスの出し物のためのコスチュームである。

 いづるたちの一年G組は、メイド喫茶ならぬ冥土喫茶めいどきっさである。

 お化け屋敷とメイド喫茶を融合させた、画期的な企画だ。

 ウェイトレス役の翔子は、キョンシーの格好で給仕きゅうじするらしい。

 だが、彼女は浮かない顔で見詰めてくる。


「ねね、いづちゃん……玲奈先輩となんかあった?」

「んっ! そ、それは……えっと、その、ハイ」

「そうなんだ。それでこの一週間、様子がおかしかったんだねえ」


 ふむふむとうなって、翔子はチャイナ服で腕組みうなずく。額に貼られた黄色い御札おふだが、彼女が喋る度に揺れていた。

 だが、いづるは今まで誰にも相談できず、明言も避けてきた。

 だからここ最近、朝夕の食卓は謎の緊張感に満ちている。

 いつも通りの玲奈といづるだが、互いの間だけコミュニケーションを凍らせているのだ。

 そして、その理由がいづるにだけはわかる。

 いづるとあと、もう一人……古符谷文那フルフヤフミナだけは知っている。

 しかし、いづるは翔子にだけは言うことができなかった。

 翔子には幸せになって欲しいし、余計なことで引け目や負い目を感じてほしくないのだ。

 だが、まるで姉か母親のように翔子は真剣に悩んでくれている。


「あかりさんもすっごい困ってたよぉ? 心配してビールが全然進まないって」

「……毎晩ガブ飲みしてるよね」

「ビールが進まないから、焼酎しょうちゅう飲むしかないって」

「めっちゃ飲んでるよね、毎日」


 実は、いづるは姉のあかりにも心配されている。

 というか、毎晩のように酔ってからまれる。

 あれから一週間、食事や家事の手伝い以外、玲奈は部屋に閉じこもりがちだ。本人は勉強に力を入れたいのだと言っていたが、明らかにいづるを避けている。

 それがいづるは勿論、翔子やあかりにもわかるのだ。

 家族のみんなに心配をかけて、なにより玲奈に対して不誠実な自分がいた。

 だが、なんとか話そうにも、踏ん切りがつかない。

 そして、玲奈は取り尽く島もなくいづるを避けているのだ。

 そんなことを思っていると、不意に教室内の雰囲気が明るく「おお!」と盛り上がる。


「皆さん、お疲れ様です。生徒会の文化祭実行委員会です。明日の展示の最終確認に来ました」


 振り向くとそこには、全校生徒の憧憬どうけいを集める美貌の生徒会副会長がいた。優雅な笑みを湛えて周囲を見渡すのは、玲奈である。

 玲奈は『実行委員会』と書かれた腕章をして、どうやらあちこちを回っているようだ。

 そして、再度いづるは確認する。

 この一週間ずっとそうであるように、今日も玲奈は美しい。だが、普段の小悪魔のような可愛さ、ちょっといたずらっ気を含んだ天然な御嬢様の美貌とはかけ離れていた。

 まるで人形のように凍った美少女は、額のアホ毛がピタリと一本に閉じていた。

 普段はガンダムのようにVの字に開いているが、寝る時は閉じて一本に収斂しゅうれんされる。

 寝る時の他には、調子が悪い時や落ち込んでる時もそうだといづるは知っていた。


「クラス委員の方、こちらは……冥土喫茶ね。素晴らしいわ、見事な出し物ね」

「自分もそう思います!」

「君、教室内に接客の準備は済んでいるのかしら?」

「はっ、はい!」

「では、試してみるわ」


 おどろおどろしいながらもファンシーな雰囲気に飾った教室内は、明日には大勢の父兄や地域住民が訪れる冥土喫茶になる。出される珈琲コーヒーやケーキも、全て近所のケーキ屋や喫茶店が協賛してくれたものだ。そして売上は全て、私立萬代学園と地域、及び商店街の連名で募金として慈善団体に寄付されるのだ。

 玲奈は周囲を見渡し、テーブルに座った。

 出される茶も菓子もまだないが、クラス委員の眼鏡君は緊張した面持ちで振り返る。


「副会長が査察をしてくださるっ! 誰か接客を! 誰かっ!」


 この学園の男子が総じてそうであるように、眼鏡君も玲奈にはデレデレだ。

 誰もがざわつくなかで、ルーティーンである以上は玲奈もクラスごとにチェックするのを怠らない。準備不足の場合は初日の出店は取り消されるし、慣例的なものだが玲奈が手を抜く筈がない。

 アホ毛の閉じた不調の状態でも、玲奈は生徒会の仕事を完璧にこなしていた。

 そして、そんな彼女へと翔子が歩み出る。

 両手を前に突き出しピンと伸ばして、歩かずピョンピョン両脚を揃えて跳ねながら進む。


「いらっしゃいませ、副会長! 冥土喫茶へようこそアル!」


 周囲がホッとする中、玲奈が連れてきた生徒会の書記や会計係がクスリと笑う。誰もが微笑ましい表情で見守る中、確実に空気は弛緩していた。

 翔子には昔から、人の心を和ませる天性の才能がある。

 笑顔の翔子に、心なしか玲奈も頬をほころばせた。


「ウェイトレスさん、こちらのオススメはなにかしら」

「はいアル! ケーキセットがオススメですアル! しかも、今ならご注文頂いた方に、お化けおみくじをサービスしてるアル!」

「お化けおみくじ……それはどういうサービスかしら」

「ケーキセットをご注文して頂いたお客様に、お化けがおみくじを運んでくるアルヨ! それ引くと、とっても幸せになれるアル!」

「……いいわね。でも、生徒会に提出された書類には、お化けおみくじの明記はなかったけども」

「はう! そ、それはぁ」


 だが、玲奈は優しく笑って席を立つ。

 そして、手に持つ書類に赤ペンでマルをつけると、書記と会計係に頷いた。


「一年G組、準備は万全と評価します。このまま進めてください。お化けおみくじに関しては書類の不備が認められましたが……生徒会の方で追記しておきます。では、明日からよろしくお願いします。学園にいらっしゃるお客様方に、決して粗相そそうのないように」


 とてもりんとして通りのいい、耳に優しい声だ。

 だが、いづるは知っている。

 彼女が誰にも向けるこの声とは別に、等身大の普通の女の子になった時の声を。

 阿室玲奈は完璧な御嬢様、文武両道ぶんぶりょうどう才色兼備さいしょくけんびな学園のマドンナだ。家の事情で財産を失った今でも、その輝きは決して陰ることはない。だが……それを日々の生活で間近に見ているいづるにはわかる。

 いづるの不手際と迂闊うかつさが、玲奈に心痛をもたらしている。

 そう思うと、いてもたってもいられなかった。

 玲奈が生徒会の役員たちと次の教室へと向かおうとした、その時。

 いづるはいてもたってもいられず、その場から飛び出す。


「では、次は二年生のクラスを回ります。……あら? この、ダンバイン喫茶というのは。富尾真也君……これが良い夢でたまるかよ、って感じね。でも、面白いわ。では、次に行きます!」

「まっ、待ってください!」


 気付けばいづるは、飛び出していた。

 裏方作業をしていたので、ジャージ姿だ。

 振り向く玲奈が、一瞬だけ嬉しそうに頬を綻ばせる。

 だが、すぐに彼女は怜悧れいりな副会長の仮面を被り直した。

 構わずいづるは声を張り上げる。


「玲奈さんっ、僕の話を……あ、いや……お忙しい中だとは知ってます、でも!」

「……今の私は生徒会副会長。それ以上でもそれ以下でもないわ」

「玲奈さんっ!」

「さ、次に行きましょう」


 玲奈は自分に鞭打むちうつようにして、行ってしまった。

 玲奈といづるの仲は公然の秘密で、同居していることを知る者も少なくない。そうしたクラスのみんなの前で、いづるは玲奈に呼びかけた。

 だが、玲奈は一瞥いちべつするだけで行ってしまった。

 残されたいづるの袖を、ギュムと翔子がつかんでくる。

 なにも言わなかったが、翔子は無言で見詰めて視線で支えてくれた。

 彼女なりに、この異常な二人の仲を察したのかもしれない。

 立ち尽くすいづるは、そんな翔子に力なく笑うしなできなかった。

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