第4話「実家に姉の来るごとく」
道中、夕御飯のためにスーパーによって、いづるは買い物の荷物持ちだ。こういう時に女の子というのは妙に張り切るもので、もはや熟練主婦の境地に達した
ただただ感心しつつ、大いに勉強になると
そうして帰路を歩けば、平凡な一軒家である自宅が見えてくる。
時間は三時を少し回った頃だろうか……晴れ晴れとした空のもと、今日も九月とは思えぬ残暑厳しい日差しが降り注いでいた。
「沢山買ったわね……あれが庶民の通う、スーパーマーケットなのね!」
「やだもぉ、玲奈先輩ってば。最近は何度も行ってるじゃないですかぁ~」
「何度見ても新鮮な驚きがあるのよ、翔子さん。例えばそう……このティッシュペーパーのボックスが五箱入りで298円! 戦いは数よ、翔子さん」
「フフフ、いづちゃんはティッシュの消費激しいもんねえ……フフフフフフフ!」
意味深な翔子の笑いをスルーしつつ、いづるは庭を挟んで二件並んだ民家を見上げる。いつも一緒のお隣さん、楞川家は今時ちょっと見ない平屋の木造建築、純日本家屋だ。対するいづるの日陽家は、二階建ての一家四人で暮らす手狭な典型的マイホームである。
今は、玲奈と二人の、愛の巣だ。
そういうことを想像するだけでもう、いづるは頬が熱くなるのを感じる。
実際には、一週間に六日から七日のペースで
だが、それでいい……それがいい。
二人での濃密な時間が増えると、いづるのムッツリスケベな気持ちが暴発しそうだから。
「でもなあ、もうちょっと、こう……二人きりの時間があってもいいのになあ」
「あら? いづる君、なにか言ったかしら?」
「い、いえ! ななな、なんでもないですっ」
「そう? ふふ、てっきり私と同じことを考えてるのかと思ったぞ?」
「そ、それは……」
「今はいいの……今はいいのさ、全てを忘れて。賑やかなのは嫌いじゃないわ。……じゃ、いづる君。これをお願いね」
ノーブルな笑顔ではにかんで、玲奈は手にした特売のボックスティッシュを預けてくる。既に両手が買い物袋で
翔子などは、遠慮無く魚屋や肉屋の袋をドカドカといづるに抱かせる。
「あ、あれ? 全部? 僕が、持つん、ですか……」
「ごめんなさいね、いづる君。ちょっと翔子さんのお家に寄ってから帰るわ」
「わたしね、着てない服を玲奈先輩のサイズに手直ししてみたのぉ。ほらあ、女の子ってなにかと物入りだしぃ……ふふ、玲奈先輩はスタイルいいから、大改造だったなあ」
「お手数を掛けて申し訳ないわ、翔子さん。でも、正直とても助かるぞ?」
「玲奈先輩、今日から女物のパジャマを着て就寝なさってくださぁい」
「ええ、翔子さんが言うのならね」
そんなことを言って笑い合いながら、二人は楞川家に行ってしまった。
その背を見送り、荷物に
いづるは個人的には、毎晩毎朝少しだけ見られる玲奈のパジャマ姿が、好きだ。身長こそいづると同じくらい、女性にしてはすらりとスマートな玲奈だが、細さが全然違う。いづるのパジャマを着るのだが、なだらかな肩は
正直、とてもいい。
ベネ! と言わざるを得ない。
だが、翔子が
そうして自宅に戻って鍵を取り出すと――
「あれ? ドアの鍵が開いてる。鍵、忘れたのかな……いや、そんな筈は」
ドアは
というか、ドアそのものがハンブラビ……もとい、
締め忘れたということは考えられない。いつも、玲奈と翔子と三人で登校するのだから。三人で出る時に、しっかりといづるが鍵をかけた、今朝も同じである。
だが、現実にドアは開けっ放しで、そっといづるは中の様子を伺う。
いつもと変わらぬ玄関には、女物の靴が一足脱ぎ散らかっていた。
「泥棒、という感じじゃないな……あっ! ああ、そういうことか」
荷物を抱えながらも、いづるは自宅に「ただいま」と一言発して上がり込む。
勿論、返事はない。
だが、いづるにはもうわかっていた。
このだらしない玄関に、みっともない靴……今の惨状はあの人物の帰宅を意味していた。
そして、キッチンと繋がったリビングに入れば、案の定その人物はいた。
「ただいま、姉さん……あかり姉さん」
リビングのソファに、その女性はいた。
とてもじゃないが、人には見せれぬあられもない格好で。
彼女の名は、日陽あかり……いづるの義理の姉だ。十歳以上歳の離れた、家族。そう、今は血筋を超えた絆で繋がっている家族の一員だ。何年か前にお嫁に行って、今は姓は確か、
その、直視するのもためらわれる格好が、これまた酷い。
恐らく熱いからシャワーを浴びたのだろうが、バスタオルを身体に巻いただけの全裸なのだ。そしてエアコンを全開にして、まだ少し濡れた長い髪が静かに揺れている。あかりは一升瓶を抱いたまま、豪快にいびきをかいているのだ。
派手におっぴろげてる姉から視線を逃しつつ、いづるは散らかった衣服を拾い集めた。
「ん、むにゃ? ほえ……ファ、ファ、ファックショォーイ!」
「あ、起きた。あかり姉さん、風邪引きますよ? そんな格好で寝てると」
「ふえ……あ、いづるー、おはよー!」
「はいはい、おはようございます。なんですか、昼間っからお酒を飲んで」
「だって、冷蔵庫を開けたらビールがないんらろー!」
「そりゃ、僕も玲奈さんも未成年だし……それに、ビールだってお酒でしょう」
「……れいな? 誰、それ」
「あー、えっと……話せば長くなるんですが、まず服を着てください」
もそもそと起き上がったあかりは、はだけたバスタオルの前を合わせ直して立ち上がる。二十代半ばを折り返した、大人の女性の起伏からいづるは目を逸らした。
姉だから、異性として意識することはない。
むしろ、このだらしなさは見慣れたものだ。
そして……見るに
「えっと、いづるー? 何年ぶりだっけ?」
「姉さんが仕事を辞めて嫁いだのが三年前だから……」
「わはは、そっかー! ごめんごめん、私ってば全然帰ってなかったもんね」
「でも、今こうして帰ってきてるじゃないですか」
そう言って笑ういづるが「そうそう、それでですね、姉さん」と、玲奈との事情と経緯、そして同居生活であるということを説明しようとした、その時だった。
一升瓶からテーブルの上のグラスになみなみと日本酒を注いで、あかりはそれを飲み干す。
ぷはー! と酒臭い感嘆の溜息を零したかと思うと……彼女は不意に瞳を潤ませた。
「いづる……いづるぅ! 私ね、私、わだじぃぃぃぃ!」
「ああもう、泣かないでくださいよ姉さん。なにかあったんですね?」
「うん! うんうん、そうなの! そうはんだよぉぉぉぉぉ!」
「ちょ、ちょっと! 抱き着かないでください、服を着て!」
ブッピガーン! と効果音も勇ましく、ダイナマイトバディがいづるに抱き着いてきた。抱き締めながらいづるを押し倒し、床の上に重なりながら……豊満な肉体を遠慮無く押し付け号泣である。
なにかあったな、と察したいづるは、やれやれと身を起こそうとする。
だが、完全にあかりは、ウオーン! と泣きながらいづるの胸に顔を埋めてくる。
「聞いてよー、いづるー! 私、もう離婚すゆ! 駄目よ、もう家庭崩壊……夫婦決裂だよぉ! ビエーン!」
「ど、どうしたんですか。えっと、義兄さんは確か」
「そうよ、あの馬鹿は……私より仕事を取ったのよー!」
「ちゃ、ちゃんと話し合いましたか? 姉さん、昔から早とちりなとこがあるから」
「話し合う時間さえ作ってもらえないの……私、わたじぃぃぃぃ!」
泣きじゃくる姉を見上げて、困ったなあと苦笑を零すいづる。
だが、不意に不穏な空気が黒く
それでいづるは、床に背をつけたまま視線をあげて……そして表情を凍らせた。
ほぼ全裸の女性と抱き合うような形で仰向けのいづるを、玲奈が見下ろしていた。
翔子から貰ったであろう紙袋を手に、無表情で目を細めている。
「いづる君? これはどういうことかしら?」
「あ、いや、玲奈さん……えっと、紹介しますね。この人は僕の――」
「うえええーん! いづるぅぅぅぅ、私を養って! 私とこの家で暮らしてえ!」
ストンと玲奈の手から紙袋が落ちた。
彼女は胸を反らすように腕組みして、カミソリのような視線でいづるを
恐い、正直とても恐い。
整った顔立ちはどこまでも
だが、玲奈は小さく溜息を零して肩を
いつもの玲奈は
「いづる君、事情があるんじゃなくて? お話を聞かせてもらおうかしら。それと……とりあえず離れてちょうだい。その方から」
「あ、はい……その、すみません」
ようやく姉のあかりを引き剥がし、ぐずる彼女を座らせる。ぐすぐすと鼻を鳴らすあかりは、ようやく玲奈を見て「ふええ?」と小首を傾げた。
そんなあかりに対して、優雅に玲奈はお辞儀して挨拶する。
「私は阿室玲奈、貴女は?」
「私は……私は、黒川……ううん、日陽、日陽あかり」
「まあ! ではもしかして……いづる君が以前話してた、お姉様」
「そだけど……あなたは? 阿室玲奈……玲奈?」
なんだかよくわからないようで、あかりはいづると玲奈とを交互に見やる。
ぼんやりしているあかりに対して、玲奈はいきなりド直球な説明を結論から始め出した。
「はじめまして、お姉様。私は阿室玲奈、いづる君とこの家で暮らしています。故あって全てを失った私は、ここでいづる君のご厚意に……ご、ごご、ごっ、ご好意に、甘えてますの」
「……
「
酔っ払っているのか、どうもあかりは要領を得ない。だが、なんとかいづるが玲奈の言葉を補足して、二人で事情を説明した。
一通り話し終えた頃には、既にあかりは満面の笑みでニヤニヤしていた。
そして、先ほどまで号泣していたのに、そうかそうかと気持ち悪い笑みで立ち上がる。
「そっかー、よかったあ! 私、心配してたから。いづるも少しはヤンチャしてくれなきゃなーって。でも、そう! そうなのね、同棲……こんな素敵なお嬢さんと」
「素敵だなんて……お姉様。それと、私は日陽家の居候。それ以上でもそれ以下でもないわ」
「ふーん、そっかあ。こんな美少女と同棲……ニシシ! ねえねえ、どう? どうだった、いづる! ちょっと二人とも、そこ座りなさいよ! あンもぉ、今夜はお寿司取らなきゃ!」
彼女はソファに上機嫌で戻って、再び酒を飲み出した。
やれやれといづるは、玲奈と苦笑を零し合う。
「さっきも説明した通り、玲奈さんには行くあてがないんです」
「うん! うんうん! それで? 式はいつ? 教会で? それとも神社かしら」
「いや、そういう仲では……まだ、ないです。それより姉さん」
「まだ? まだって言った? まだ! そう……もぉ、玲奈ちゃん、だっけ? いづるってばいつもこうなのよ。小学校の頃も好きな女の子ができたのに、何度も何度も――」
駄目だ、全然話が通じない。
酔っぱらいの
そんな時、玲奈がぽつりと呟いた。
「似てるわ……似てる。お姉様は似てる……姉の姿はアレに似ている」
「れ、玲奈さん?」
「いづる君! お姉様、似てるの! スメラギ・李・ノリエガに! 見た目も、中身も!」
「は、はあ」
なんの話、っていうか、誰なんだろう?
だが、いづるは瞬時に「ああ、ガンダムか」と合点がいく程度には、玲奈とのつきあい方を心得ていた。
どうやら、スメラギ・李・ノリエガというのはガンダムの登場人物らしい。
「スメラギさんに似てるわ……恐ろしい程に」
「どんなキャラなんですか? ……まあ、姉さんを見れば大体の予想は付きますけど」
「仕事のできる才女よ。そして大酒飲みでだらしない面があって、職業は戦術予報士」
「姉さん、昔から勉強もスポーツもできた人だったなあ……あと、お酒についてはごらんの通りです。で……結婚するまで気象予報士、お天気お姉さんやってましたけど」
「私は今、ビリー・カタギリの気分がよくわかるわ。駄目な人ほどかわいいこともあるのよ、いづる君」
そういうものなのかなあ、と思いつつ……女性のだらしなさが愛らしいというのは、いづるには酷く実感だった。あの玲奈でさえ、日陽家でいづると過ごす時などは気兼ねなく寛いでいる。薄着でソファにゴロゴロしたり、ポテチをつまみながらテレビを見たり……毅然としたお嬢様でいられないオフの彼女も、いづるにはとても魅力的に思えるのだ。
その玲奈の言葉が、意外な事実を引っ張り出した。
「それで……スメラギさん、じゃないわ、お姉様。どうして御実家へ?」
「あー、それねえ! それがさあ……それが、それがぁ……う、うっ、うう……うえーん!」
「お姉様……」
「わかってるわよ。大人が人前で泣くもんじゃないっていうんでしょう」
「……いいえ。人を想って流す涙は別ですわ。なにがあっても泣かないなんて方を、私は信用しませんもの」
「うえっ、えっ、えっ……玲奈ちゃーん! あなたイイ娘よ! いづると幸せになって頂戴! 玲奈ちゃん……あなたはぁッ! 私たちのようにはっ……! ならないでぇぇぇ!」
おいおいと玲奈の胸で、またあかりは泣き出した。
やれやれと思いつつ、ふといづるは思った。そして振り返れば、大きなトランクがパンパンなままで放り出されている。
あかりは荷物をまとめて家を出てきたのだ。
そしてそれは、恐らく……夫との間になにかあったのだ。
先ほどもいづるは聞いた、ちゃんと話したかと。
その答を再び求めて、いづるが口を開いた瞬間だった。
いづると玲奈は、突然の言葉に目を点にしたまま、固まってしまったのだった。
「全部、全部よ……全部あいつが悪いのよぉ! ガンダムが悪いの! ガンダムが悪いのよぉ!」
それは突拍子もなく、なんの脈絡もなく飛び出した言葉。
玲奈と顔を見合わせて、いづるはそのまま固まってしまったのだった。
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