因果は直列する/5


   ◇

うがいから戻ってきたヒセツは、目尻に涙さえためていた。よほど煙草の灰が気に食わなかったのだろう。「あー…うー…」と声の調子を確かめるように、しばらく唸っていた。

パズは痛む頭をさすりながらも生きていた。

裏切り者を退き、それぞれは再びそれぞれの位置に腰かけた。ルードラント介入の顛末に最も驚愕したのは、支配を受けていたヒセツだった。彼女は裏切り者の存在に気付きながらも、その正体にまで思い至っていなかった。

「いつよ!?」と、ヒセツは声を荒らげる。「そんな魔術を使われた覚えはないわよ?」

「昨日の夜、魔法で意識失ったって言ってたろ」

それは数分か、あるいは数十秒だったのかもしれない。だが魔術の詠唱には、それだけの時間があれば十分なのだ。

「成程ね……。そうとも知らずに私は馬鹿みたいにアンタ達と同行を始めて、立派な間者になってたってわけね……」

ヒセツは頭を抱える。ルードラントの破壊の助力になるはずが、行動だけで判断すれば背信行為にも等しい。結果的に、面子にヒセツが加わった事で危険が及んだのだ。

落胆するヒセツに対し、奈落は面倒くさそうに後頭部を掻く。慰めるのが定石なのだろうが、生憎と気の利く台詞は浮かんでこなかった。

「とにかくこれで正体が割れたんだ。奴も簡単には意識支配を使わねえだろ。考えてみれば、昨日の襲撃犯もルードラントだったんだな」

脳裏に描くのは、初老で白髪をオールバックにまとめた魔法使い。彼に遭遇したのは、一昨日の火事場と昨夜の公園。二度目の遭遇で抱いた小さな違和感の謎も解けた。

彼は一度目と二度目で口調が異なっていた。それも別人のように。察するに、一度目は彼自身で、二度目はルードラントの意識支配を受けていたのだろう。

「これで解けない謎はあと二つだね」と、頭をさすりながらパズが声を上げる。「トキナスの正体と、ルードラントの居場所」

応じる声は一つ。一つ咳払いしてからヒセツが誰何を飛ばす。

「ねえ、さっきも出てきたけど、トキナスって誰よ?」

「――言ってなかったか? 今回の壊しの依頼人の名前だ。こいつが妙な人間でな。街頭調査によれば、五人のうち一人には顔を覚えられてる有名人だ。だが名前やら正体までは誰も思い出せねえんだと」

「何よそれ?」

ヒセツの問いに、しかし答えられるわけもない。頬杖をついて、奈落は嘆息して続ける。

「しかも尋常じゃねえ程に優秀な魔術師だ。何せ俺がいま生きてるのは、奴の転移魔術のおかげなんだからな」

「転移魔術って、そんなに難しいわけ?」

相変わらず、魔術に関しての質問はパズが担当した。奈落は半眼で問いを返した。

「お前、いま座ってる位置の座標と占める面積を正確に言えるか?」

「答えられたら気持ち悪いって」

「そういう事だ」と締めくくる奈落だが、パズはいまいち納得しかねるようだった。「だから、それこそ気持ち悪いくらい優秀な魔術師なんだ」

転移魔術を行うには、座標軸と占有面積の正確な把握が必要となる。それを計算しながら、尚且つ使い魔を制御する。それだけでも困難を極めるというのに、トキナスは奈落を連れて転移したのだ。

「でも、そんなに凄い魔術師なら正体明らかじゃない」

正体が掴めずに煩悶する奈落に、ヒセツはあっさりと告げていた。見やれば、彼女は腕組みなどしながらきょとんとした表情で一同を見渡していた。

「……言ってみろよ」

「そこまで優秀な魔術師、十一権義会議員しかいないじゃない。その中でも、黄金卿・イルツォル・エルドラド解任の一報がいまでしょ? タイミング的に絶好だわ」

「つまり、トキナスの正体はイルツォル・エルドラドだと?」

「そうよ」

それは予想通りの返答だった。事情を知っている者ならば、その可能性をまず見出すだろう。だが容易に頷く事は出来なかった。タイミングが合致しているとはいえ、それ以外の何もかもが符合していない事実を、奈落もパズも承知していたからだ。

「イルツォル・エルドラドは人嫌いで有名な議員だ。ここ何十年、人前に顔をさらした事は一度もない。だから五人に一人が覚えてるなんて有り得ねえだろ?」

「それに、黄金卿は今年で九十二歳の御高齢だよ。でも僕らが出会ったのは、まあ多く見積もって二十代半ばってとこじゃないかな」

奈落に続いて、パズもヒセツの推測を否定する。トキナスが秀でた能力を持っている事に間違いはない。にもかかわらず、彼の特徴が正体の露見を妨げている。

「九十二歳って、もうお爺さんなのね。それなら、ただ引退の時期が偶然重なったってだけの話なのかしら……」

「権義会に限って、引退の頃合なんてものはないよ。最高齢の【紅い心臓・セントラル・ブラッド】なんて今年で百二十七歳だし」

「流石、詳しいのね」と、ヒセツが適当に応じる。

「議員の事は昔調べたからね。ちなみに一番若いのは【机上の猛将・イララ・ウィーリェーエン】の十七歳で――」

二人のやり取りを聞き流しながら、奈落はラナへと向き直る。

「ラナ。君はルードラントに誘拐されるまでは、トキナスの使い魔だったんだよな?」

ラナは躊躇いがちに頷いた。

「トキナスっていう名前は知りませんけど、若い男性に召喚されました」

「何でもいい、そいつについて知ってる事はないか?」

主従の関係とは言え、彼女はこの場の誰よりも、トキナスの近くにいた。少なくとも、十六京字を唱える間、ずっと。

だが奈落の問いかけに、ラナは力なく首を横に振った。

「あの人のところにいる間中、ボクは召喚呪文を詠唱し続けてたから……。命じられてすぐに自我を失って、それこそ気づいたらルードラントに攫われてたんです……」

「――悪い」

彼女にとっては思い出したくない経緯だろう。「いいえ」と頭を振るラナから視線を外して、奈落は一人、与えられている情報の再検討をする。

五人のうち一人に覚えられるという不可解な現象――そんな事が起こり得る背景には、どのような仕掛けがあるのか。

例えば、三人に一人ではいけないのだろうか。五人に一人という割合は、崩してはいけない固執すべき数字なのか。だとしたら、その割合の原因はどこから発生したのか。

それとも割合は単なる偶然で、覚えられる者と覚えられない者がいるという事実のみに注視すればいいのか。

覚えられる者と覚えられない者。そんな芸当を為し得るには、精神干渉系の魔術が必須となるであろう。だが精神干渉系はどれも高度な魔術で、相応の精神力が必要となる。ありていに言えば――疲れる。そんな魔術を不特定多数の人間に施す意味があるのか。意味があるとして、その成果は何か。言うまでもない。正体を隠す事が出来る。だが奈落やパズに対して、正体を隠す意味があるのだろうか。

他に考えられる可能性は――奈落達の声の届きそうな人間全員に、「こういう連中に聞かれたらこう答えろ」と予め仕込んでおく事。不可能ではないだろうが、想像するだけで途方もない労力が必要だと解る。その労を費やしてまで正体を隠す意味は何か。

またこの疑問に行き着く。正体を隠す意味。

仮に彼が十一権義会議員・黄金卿・イルツォル・エルドラドだとする。それならば、正体を隠す理由について、解答には行き着けなくとも推測は可能だ。

つまり、解任された原因が関係しているのだろう。彼の身に、議員解任にまで発展する何かが起こり、その何かのせいで正体を知られてはいけない状況になってしまった。

嘆息する。それでは憶測にさえならない。やはり黄金卿の解任とトキナスとは、無関係なのだろうか。そもそも彼と黄金卿を結び付けているのは、魔術の力量という一点のみなのだ。

そもそも――この不可解な現象はトキナスの狙いなのだろうか。実は故意にやっているわけではなく、熟考するだけ無意味で、奇跡的な偶然がこの不可解な現象を成立させたに過ぎないのではないか。

解らない。

思考から解答を導けないのは、何か決定的に材料が不足しているからなのか。それとも、与えられた材料の使い方が間違っているのか。そう、見方を、視点を変える事で、何か新しい仮説を立てる事が出来るのではないだろうか。

例えば。そう、例えば――

「待てよ……」

奈落が小さく呟く。だがその呟きは全員の耳朶を打った。いつの間にか全員が黙考し、室内には沈黙が満ちていたのだ。

奈落は顔を上げて、パズとシルヴィア、そしてラナに視線を向けた。奈落はいますぐに出来る程に簡単で、有益で、しかもまだ検証していない事象に思い至った。

「お前ら、トキナスの顔は覚えてるか?」

「そりゃ、まあ」と、パズが応じる。

「記憶しています」と、シルヴィアが頷く。

「覚えてます」と、ラナが遠慮がちに答えを返す。

そして奈落は自問する。トキナスの顔は覚えているか。はっきりと記憶している。

「特徴を一人一つずつ挙げられるか?」

「身長は百七十センチ程度。長身痩躯ってとこかな。それから目は細かったね」

「黒髪で短髪。額が広く、恐らく後十年もすれば生え際が後退していく事でしょう」

「えっと、あまり表情を変えない人で、サングラスに、スーツを着こなしている感じでした」

列挙された特徴は、奈落の記憶とも一致している。奈落も含めて四人ともが、別の誰かと混同しているわけでもなさそうだった。尽きない疑問符が頭上に浮かぶ。

五人には一人足りないが、いまの時点で、四人中四人が彼の事を覚えている。

パズもまた、それが奇妙な統計である事に気づく。

「これは……どういう事だろうね。五人中一人っていう統計は、間違いないっていうのに」

「でもさ」と、会話から外れていたヒセツが混ざってくる。彼女だけはトキナスと顔を合わせていないのだ。「どっちかが間違ってるって事よね? 客観的には、五人中一人しか知らない顔っていう方が怪しいけど」

「―――――待て」

ふとした一言を聞き咎め、奈落の全身が硬直する。いまのヒセツの言葉に、何か重要な情報が紛れていた。そんな気がしてならない。

「いま、何て言った?」

ヒセツに目を向けずに、一点を凝視する奈落。彼女はその様子に首を傾げていたが、奈落はそれにも気付かないほど、掴みかけた糸を手繰り寄せるのに必死だった。

「何てって――統計のどっちかが違うって話を」

「その後だッ!」

奈落の焦燥が増す。何か、何かが引っ掛かる。

「後……? 五人中一人しか知らない顔は怪しいってところ?」

繰り返された言葉が、青天の霹靂となって奈落の思考をかき乱す。

そうだ。解釈が間違っていたのだ。ほんの小さな、認識の齟齬が生じていたのだ。

「………そう、か。そういう――事か」

これで、繋がる。手繰り寄せた糸の先に確かな手応えを感じる。トキナスの正体という、手応えを。全ての事象に辻褄が合う解答が、凍結した全ての疑問を解凍する解答が、すぐそこにまで迫っている。

何気ない動作が、何気ない言葉が、重要なフラグとなって謎を解明していく。

いくつものピースが、やがて一枚の絵を完成させていく。

誤解と誤認と勘違いが生み出した、複雑怪奇なこの迷宮の出口を。


奈落は、遂に見つけ出した。


だが、英雄やルードラント各々の目的を別にして、まだ一つだけ解明していない謎がある。確実に足枷となる――すなわち、ルードラントの居場所だ。

今日一日の聞き込みで得た情報は、敵側が撹乱のために流布した風説だろう。つまり、また一から捜索し直さねばならない。残り約九時間で、それが可能なのか――。

奈落の思考は、唐突に開け放たれた扉によって打ち消された。

ルードラントの襲撃かと身を強張らせたが、杞憂だった。扉の向こうから現われたのは、十一権義会の制服に身を包んだ禿頭の大男だった。初見だが、パズから聞かされた特徴と照合し、彼がこの家の主――エリオ・クワブスプであると知れた。

「何だ、いるじゃねえか。少しも話し声がしねえもんだからよ、誰もいねえと思ったぜ」

がははと大笑して禿頭を叩くエリオの登場で、一帯の緊張感が霧散した。全員、気づかないうちに詰めていた息を大きく吐き出して肩を降ろす。

「見事に緊張感吹き飛ばしてくれたね、エリオ。仕事は終わりかい?」

パスが苦笑しながら問うと、エリオは大きく頷いた。

「おう。新人に仕事丸投げしてきたぜ。嫌でも仕事覚えるだろうよ。がはは」

権義会の激務にもかかわらず、彼は全く疲労を感じさせなかった。その巨躯には無限の体力が凝縮されて押し込まれているに違いない。

感心して見ていると、エリオは奈落と視線を合わせてきた。

「お前さんが奈落か?」

「ん、ああ」と、頷きを返す。

「パズから極貧の壊し屋だって聞いてるぜ」

「おいパズ」

即座にパズを睨みつける奈落だが、パズは余裕に満ちた笑みでそっぽを向いた。

「否定できる要素があるならどうぞ?」

などと言ってくるものだから全力で否定にかかろうとしたが、残念ながら事実なだけに何も言い返せなかった。

諦めて舌打ちする奈落の頭を、エリオはまるで子供扱いするように撫でまわした。

「な、やめろってッ」

二メートルを超える身長を有するエリオにとっては、成人している奈落でさえも小柄な部類に入るのだろう。

「がはは。まあいいじゃねえか。ところでお前さん、橋上市には行ったかい?」

「観光に来てるわけじゃねえんだ」

何とか頭の手を撥ね退けて、奈落は言い返した。だがエリオは奈落に構う事をやめようとはしない。今度は活を入れるかのように、背中を大きな手で叩いてきた。

「――痛ッ」

「ヴェンズに来たら橋上市には行かんと駄目だ。パズとヒセツって娘っ子は行ったみてえじゃねえか。まあ逆に言えば真っ平らだからな、開発が進まないもんで、それ以外に見るものがねえ。がはははは」

『――あ』

声を挙げたのが同時だったのは、長年の付き合いによるものか。奈落とパズはお互いに目を見合わせ、各々で思い至った結論が同じである事を確かめる。

エリオの言葉に喚起され、一つの仮説が浮かび上がってきた。言うまでもない、残る唯一の謎、ルードラントの居場所だ。たったいままで何の手がかりもなかったが、ある地点が怪しいと、高速展開していくパズルの全容が、確かに伝えてきていた。

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