集結する意志は全容を明かす(下)/6
◇
鯨の精神干渉による記録の中で、奈落は戦慄する。カルキ・ユーリッツァの視線は、幼い奈落の頭上を越えて、彼の背後にいる誰かに向けられていた。
「―――――ッ!?」
奈落は本能に突き動かされるまま、背後を振り返り――鮮血が舞った。
驚愕に見開かれた瞳が映すのは、高々と舞い上がった子供の右腕。肩から先が、冗談のように宙を舞い、地上へ血の雨を降らせる。鮮血の迸りは、そこだけではない。奈落の肩口からも、同様に血が噴き出していた。
真っ白に霞んでいく思考の中で、一つだけ理解する。
奈落の右腕が、斬り落とされた。
肩から斬られ、喪失した腕。愕然として――遅れて、痛みによる絶叫が夜陰にこだます。傷口を押さえるも効果はない。どくどくと流れ出る血に動転し、奈落はただ叫び続けた。それは記録としての叫びだった。現実に起こった叫びだった。右腕の喪失という、現実に起こった惨事がもたらす叫びだった。
自分の口から間断なく続く絶叫を耳障りに思いながら、奈落は混乱する。
(何なんだ、これは!?)
現実の奈落は、右腕を失ってなどいない。しかし現実に、奈落は右腕を切断されている。
痛い。怖い。痛い。怖い。痛い。怖い。
疑問は尽きず、鉄砲水のように奈落を襲う。英雄は誰を見ていたのか。腕を斬り落としたのは誰だったのか。なぜ現在の自分に、右腕があるのか。
奈落の視線の先――宙を舞った右腕は炎の惨禍に入り込み、焼けて、消えてなくなった。
(現実を元にした、性質の悪いフィクションなのか!?)
だが、奈落は頭を振る。そんなはずはない。これが虚構であるはずがないのだ。誇張という彩りを剥がして浮かび上がる現実は、これなのだ。背後に立っていた誰かに奈落の右腕が斬り落とされて宙を舞う――この光景なのだ。断言出来る。なぜなら――、
「そうだ……。ああああああああっ!!」呆然と紡がれる奈落の声と、痛みに喘ぐ少年の叫びが入り混じる。「あああああああっ!! 俺は――あああああああああああああああああああああああああああああッ!! ――思い出したッ!!」
ヒセツが奈落を蹴り飛ばした。
◇
痛みに目を覚ますと、奈落はうつ伏せの姿勢で地に這いつくばっていた。
「何が起き――」
「奈落! 何してるのよッ!?」
疑問の呟きは少女の声にかき消され、続いて背中からコートの襟首を掴まれながら無理矢理に起こされた。立ち上がると両足が疲弊を思い出して震えたが、何とか制止する。
強く頭を振って、霞がかかったうような思考を鮮明にする。
振り返って強引に起こした相手を見やると、全身傷だらけのヒセツだった。
「アンタ、よくあんなのの目の前で寝れるわね」
呆れた口調で、ヒセツは溜め息をつく。
大小無数の傷を負いながらも、彼女の瞳に宿る意志は少しもすり切れていなかった。それを頼もしく感じながら、ヒセツが顎をしゃくった先に視線を転じる。
祭壇の中央――先と変わる事なく、巨大なレリーフを戴く鯨は悠然とそこに立っていた。
周囲を見渡せば、パズとラナ、それから梟の姿も見受けられた。パズはシルヴィアを、ラナを昏倒したままのルダを、それぞれ助け起こしていた。
「寝てたって事は、精神干渉でも受けたのか――?」
レリーフの生物が一斉に唱和したところから、記憶が途切れていた。酷く動揺していたような気がする。記憶を漁って、トラウマでも見せられたのかもしれない。
だが覚えていないというのも妙な話だった。それでは精神干渉の意味がない。
疑問に思うが、眼前にそびえ立つ鯨に尋ねても益はないだろう。
「ここにいるって事は、ルードラントの奴には勝ったのか」
ヒセツの事だから勝ち誇るかと思ったが、彼女は表情を引き締めて小さく頷いた。
「ええ。――勝ったわ。それでね、アンタに言いたい事がたくさんあるんだけど……まずはあれを、何とかしないといけないわね」
「悪いな……こっちは、しくじったよ」
バツの悪い思いで言う奈落を見る事なく、ヒセツの眼は鯨に釘付けになっていた。眼を細め、唇を噛んでいるところを見ると、本当は醜悪なレリーフから眼を逸らしたいのだろう。奈落もその気持ちは痛感していた。
「実際見てどう、奈落さん? 勝てる相手かい?」
ヒセツとは反対側に、パズが並ぶ。彼もまた鯨を見上げている。笑みは浮かべているが、やせ我慢である事は明白だった。口元は微妙に震え、脂汗がその頬を伝っている。
「不可能に近いな」と、奈落は忌憚ない意見を述べる。「使い魔を五十匹以上犠牲にしたが、奴には傷一つつけられなかった」
それに度重なる召喚で、もう立っているのも辛い。身体に鞭打てばまだ魔術は使えるだろうが、同じ事を繰り返しても徒労に終わるだろうと思えた。
「嘘でしょう……」
奈落の報告に力を失うヒセツも同様だ。ルードラントとの戦闘でかなり負傷している。満足に戦える身体ではない。
パズは梟の治癒を受けたようで傷は塞がりかけている。だが正直、彼が戦闘に加わっても出来る事は少ないだろう。シルヴィアも同じだ。
ラナの魔術は速度こそ圧倒的だが、鯨の前には無意味だろう。いま必要なのは最速ではなく最大の攻撃だ。奈落の契約した使い魔でさえ、何も為せぬままに消滅していった。
――と、順繰りに全員を見渡していき、奈落の視線がある少女を捉えて止まる。
「ここは………」
ラナの腕の中で、彼女と同じ顔の少女が重い瞼をぼんやりと開いた。――ルダだ。
◇
随分長い事、気を失っていたような気がする。否、より正確を期すならば、それは気絶とは異なる。召喚呪文の詠唱による、本能の作用による半睡眠状態。精神を極度の忘我に落とし込み、膨大な文字量にも集中力を失わないようにする、一種の防衛行為だ。
それが始まったのは、ルードラント製薬会社の社屋だった。ラナの契約呪文の詠唱が無事に終了し、ルダの召喚呪文に切り替わったのだ。
『テメーはもう用済みだ』
ルードラントは・ビビスはそう言ってラナの髪を掴み、引きちぎらんばかりの勢いで引き寄せた。サングラスの奥の濁った瞳が、ラナの白磁のような肌に突き刺さった。
『お勤め御苦労だったなぁ。もう解放されたいだろ? な?』
ラナの瞳が輝いたのは、間違いない。だがそれも一瞬で奥に隠れる。ラナはぼんやりとした声で、舌ったらずに異を唱えた。呪文詠唱の効果で、自我が戻ってきていなかったのだろう。
『ルダも一緒じゃなきゃ、嫌……』
渇いた音が部屋に響く。ルードラントがラナの頬を張った音だった。赤く腫れていく頬を押さえもせずに、ラナは涙目になって、それでもルードラントに訴える。
『ルダも……』
『壊れた玩具かよテメーはッ!?』
抵抗が余程癪に障ったのだろう。ルードラントは早口に解約呪文を唱えた。
『ラナッ!』ルダは弾かれたように双子の少女へと駆け寄る。『嫌ッ! 一人にしないで!』
緑淡色の光にラナは段々と消えかかっていきながら、ぼんやりとルダへ手を伸ばした。別れを拒む声を滔々と紡ぎながら――それも次第に聞こえなくなった。
差し伸べられる手にルダもまた必死に手を伸ばすが――空を切った。
思い返せば、あるいは、それが最善だったのかもしれない。ラナが暴力の届かないところへ逃げて、自分が一手にそれを引き受ける。それで良かったのかもしれなかった。
だが――孤独というのは想像を絶する絶望をルダにもたらした。二人だったから耐えられた。一人では耐えられない。ルダにとって、ルードラントは恐怖の概念そのものだった。一人では耐えられない。耐えられない。耐えられない――そんな思考が、彼女を埋め尽くし。
ルダは、それがルードラントの怒りを買う事を解っていて、それでも唱えたのである。
『gggggyyyaazzzzzeeiiooo………ッ!』
絶望から眼を背けるように、一字一句を正確に刻み、召喚魔術を行った。強く閉じていた瞼を開くと、彼女の前には彼女と同じ顔をした少女がいた。
それは、とても残酷な行為だった。ルードラントの魔手から遠く離れる事が出来たというのに、ルダはそれを自分勝手に引き戻したのだ。
だが――召喚された場所が地獄だとわかっていながら、ラナは笑顔さえ浮かべて、慈しむようにルダの頬へ手を伸ばしたのだ。
――その晩、ルードラントは社屋を捨て、火事場にラナを放置した。
それから先の事は、よく覚えていなかった。召喚呪文の詠唱で自我が弱まった影響もあるし、ルードラントによる支配が、ラナがいなくなった分だけ強化されたからだ。
自分の意志だと思っていた言動が、ふとした瞬間にルードラントの命令である事に気づく事も少なくなかった。時間が経過するごとに、気づく回数はどんどん減っていった。やがては自分の意志を見失い、ルードラントの声しか聞こえなくなった。
それでも守り抜いた意志が、二つだけあった――鯨の召喚の阻止。それから、ラナを失いたくないという、最早本能とさえなっていた、強固な意志。
そしてラナは失われる事なく、いま自分は、彼女の膝の上に頭をもたげている。仰向けの視界に、涙を流しながら笑顔を浮かべる少女が映っている。
「ルダ……良かった……ッ。良かった………ッ」
聴覚が拾う声を、ようやく脳が認識し始める。ラナは嗚咽を漏らしながら、ルダの無事を祝福していた。その声は、とめどなく溢れていた。
「ごめんね………」
心配をかけた事に謝意を述べる。一度は解放されたにもかかわらず呼び戻してしまった事に謝意を述べる。寂しい思いをさせただろう事に謝意を述べる。
ルダは手を伸ばし、ラナに触れる。涙を拭ってやる。
随分、長い事、悪夢を見ていた。まだぼんやりとした思考で、ルダは思う。
――眠ってた分を、挽回しなきゃ。
力の入らない腕で上体を起こすと、ラナが背中を支えてくれる。片手で頭を押さえながら周囲を見回し、段々と、状況が把握出来るようになってくる。巨大にして醜悪なレリーフを目にして、まだ喜ぶには早すぎるのだという、過酷な現実を把握する。
「あれが、鯨ね……」
呟くと、背中にラナが身体を強張らせて頷く気配がある。
「そうみたい……」
召喚主であるルダは鯨に対して、現世から立ち去るよう念じる。背を向けるよう念じる。自傷行為を促すよう念じる。だが、指示は却下されるどころか伝わっている手応えすらない。
鯨は平然と変わらぬ位置に立っている。
「鯨の制御、やっぱり無理みたい……。私が念じても、全然言う事聞かないや」
自嘲気味に呟く。土台、無茶な話だった。使い魔を統べる王を、一介の使い魔が制御するなどと――所詮、常世において夢想の域を出る事はないのだ。
「ルダ」
前方から名を呼ばれ、鯨から視線を転ずる。強面の男と目が合う。逆立てた黒髪に、鋭い両眼、そして何より目立つ赤黒いコート。お世辞にも人がよさそうには見えなかったが、既視感を得て記憶を探ると、ルードラントの支配下で、会った事があるような気がした。
「確か、奈落……だっけ。……変な名前」
「放っとけ」毒づきながらこちらへ近づいてくる彼は、しゃがみこんでルダと視点の高さを合わせた。「ルダ。お前に頼みがある」
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