集結する意志は全容を明かす(下)/8

   3

無理です。シルヴィアは沸き起こる笑みを堪えながら、そう断じた。

奈落達が戦っているのは、人間の範疇を逸脱した存在だ。人間の視点での可能性や希望など、鯨は容易く零に転換する事が出来る。それだけの力量差を、なぜ理解出来ないのか。否、充分に承知しているのだろう。そして、それでも諦める事が出来ないだろう。

それを無様だと思い、一方で、尊いと思う。

二百以上の使い魔との契約も容易にこなし、壊し屋として数々の依頼をこなしてきた奈落の意志の強さも――飄々とした態度を崩さずに驚くべき知らせを披露するパズキスト・ケルトの情報処理能力も――十八歳という若さでありながら刑罰執行軍に身を置く、ヒセツ・ルナの正義の実直さも――理不尽に自由を強奪する悪意に、支え合いながら立ち向かったラナとルダの成長していく克己心を――シルヴィアは、仲間として敬愛する。

しかしその仲間を、シルヴィアは意志に反して嗤う。

そしてその仲間を、シルヴィアは自らの意志で嗤う。

高鳴る胸はもう抑制のしようがなかった。なぜなら鯨の精神干渉によって、シルヴィアは全てを思い出したのだ。彼女は奈落と異なり、干渉を受けた記憶を有していた。自分が何者であるのかを、十年の時を経てようやく思い出したのだ。

シルヴィアの眼前で、仲間達は鯨の魔手に抱かれて倒れていった。レリーフの悲鳴はパズの全身を包み込み、肉を裂き、数本の骨を砕く。折れた骨の断面が刃となって臓器に突きささる。吐血する。倒れ、全身を痙攣させ、起きる様子はない。ラナの小さな体躯もまた悲鳴に襲われる。蛇と虎と鶏と蟻の悲痛の絶叫が槍となり、彼女の四肢を貫き壁面に縫いつけた。激痛に気を失った彼女の頭を、鴨の号泣が生成した鉄塊が砕く。ヒセツは何度か衝撃波の回避に成功したが、鼠の断末魔に周囲の酸素を奪われた。呼吸困難に陥ったところを馬の阿鼻叫喚が重力場を発生させ、ヒセツを地面に押し潰し、肺を始めとするいくつかの臓器を破った。ルダは物陰に隠れていたが、それが仇となった。燕の嘆きが彼女を囲む岩塊と壁面を圧縮し、ルダを閉じ込めたまま、五十センチ四方にまで縮小した。圧縮されて球状になった岩の隙間から、絞り汁のように血が流れ落ちた。

奈落は仲間が倒れる度に、鯨に劣らぬ叫びを上げていた。シルヴィアの主観だが、鯨の悲鳴をいち早く読んで対処していた彼なら、あと五分は動けたのではないだろうか。

だが、レリーフの生物が一斉に号泣し、悲鳴を上げ、形成された無数の刃に、奈落は無残にも斬り刻まれてしまった。

それはもともと、シルヴィアへ向けて放たれたものだというのに――彼女の名を絶叫しながら駆け寄った奈落は、自らを盾として刃の拷問を受けた。

鮮血が迸り、シルヴィアの頬に飛び散る。何十本という刃に急襲されて、切断されたのが四肢のうちの一つに留まったのは、僥倖と呼んでいいものだろうか。

シルヴィアは、奈落の泣き顔を初めて見た。見出した希望が僅か二分足らずで絶望に変換され、悔しさと死の痛みが落涙という形で顔をくしゃくしゃにしていた。

――シルヴィア、と奈落は切れ切れに彼女の名を呼んだ。

――奈落様、と応じたシルヴィアの目尻から、一筋の涙が伝った。

いつまでも奈落の顔を見ていたいと思った。弱気な顔など彼は見られたくないだろうが、それがいま、急速に喪失されゆく人の浮かべる表情ならば――もうあと数分で表情を浮かべてくれなくなるのなら――永遠に時間を止めて見つめる事を許してほしいと、いままで信じた事もない神に祈った。

だが次の刹那、シルヴィアの瞳は中空に向いていた。


――刃に斬り落とされた奈落の右腕を凝視していた。


もう我慢の限界だった。シルヴィアの口元に、今後こそ深く歪んだ笑みが浮かぶ。彼女は倒れゆく奈落から身をかわし、左手を高々と掲げた。

その手に、奈落の右腕が納まる。シルヴィアは腕から滴る血を浴びながら、愛おしそうにそれを見つめ、恍惚の表情を浮かべた。見る者に魅了と戦慄を例外なく与えるであろう狂気の笑みは、それこそ人間を超越した別の生物を思わせる――例えば、鯨のような。

この瞬間を、十年間待ち侘びた。

シルヴィアは詩歌を吟じるように、魔術や魔法の詠唱のように、朗々と言葉を紡いだ。

「……皮は漆。……肉は鞘。そして……骨は、刃」

変化は一瞬だった。シルヴィアの手中で、言葉通りの展開が起こる。腕の皮が一瞬膨張したかと思うと、次の瞬間には収縮し、その材質を漆に変化させていた。肉は圧縮によって密度を濃くしていき、硬度を増していく。やがてそれは硬質の鞘となり、それに包まれる骨は真っ青に染まり、鋭利な刃と化す。

奈落の右腕だったものは、一振りの太刀へと姿を一変させた。

シルヴィアは右手を掲げ、刀の柄へ手を伸ばす。感触を懐かしむように力を加減させて撫で回してから、二度と手放さぬとばかりに強く掴み――すらりと刀身を引き抜く。

蒼き刀身を引き抜き始めると、応じてシルヴィア自身の姿もまた変容を始めた。

黒だった着物はみるみるうちに蒼色に変貌し、鮮やかな波紋の模様が浮かび上がる。瞳の色も着物に合わせて、深みを帯びた蒼に染まる。絹のような黒髪もまた頭頂から蒼に染まっていき、やがて毛先まで至り――最後に。べったりと付着した奈落の血で、シルヴィアは長髪を血染めのポニーテールに固めた。

黒から蒼へ――その様相を一変させたシルヴィアは、音もなく剣を構える。蒼き刃の切っ先と狂った笑みを絶望の王へ向け、シルヴィアは告げる。

「……お初にお目にかかります。我が名、シルヴィア。斬奸を司りし使い魔の王――俗に鯨と呼称される存在である事は、やはりお伝えしておかねばならないでしょう」

鯨を名乗ったシルヴィアは、絶命寸前にある奈落達を睥睨し、呟く。

「皆様。これから私は、最悪の罪悪を滅します――よろしいでしょうか」

答えを返す者は一人としていない。ワースティヌシンの悲鳴でさえも鳴りを潜めていた。シルヴィアの放つ凄絶で、それでいて静謐な気配に呑み込まれたかのように。

水を打ったような静寂の中、シルヴィアの声だけが凛と響いた。

「………。………。………。了解しました、沈黙は肯定と判断します」

蒼き斬奸王は、静かに開戦を告げる。

「――それでは、お覚悟を」

シルヴィア(Shill‐V‐I‐a/二十二番目に在る唯一)。

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