十年と、その先の約束

十年と、その先の約束/1

シルヴィアが太刀を振る度、花火を思わせる蒼い燐光が弾けた。だがそれを美しいと思う余裕は、ワースティヌシンには無いだろう。彼女の頭上で燐光が弾ける度、巨大なレリーフは細かく斬り刻まれていった。刀身はワースティヌシンへ届いていない。だが剣圧が詠唱となり波及効果を付帯し、不可視の刃となって最悪の罪悪を襲っていた。

シルヴィアは耳に心地良いレリーフの断末魔を聞きながら、少しずつ距離を詰めていく。瓦礫に塗れた地を草履で踏みながら、太刀を振るって象眼された生物を一つずつ削ぎ落していく。奈落の魔術の直撃に遭っても傷一つつかなかった鯨の頭部が、紙切れのように斬り落とされていく。

レリーフの生物群は絶叫を放つが、それは単なる悲鳴として意義を結び、何ら超常の力を及ぼさない。シルヴィアの刀が、悲鳴の力――その概念を斬っているのだ。力の概念を失った悲鳴は、何ら脅威ではない。ただシルヴィアの笑みを深めるだけの効果しかなかった。

「く、くくっ……」

削ぎ落されたレリーフの一部は、地面に落下すると同時に消滅した。まるで泡沫のように、初めから存在しなかったかのように消失していく。彫り刻まれたあらゆる生物が、絶望をその顔に浮かべながら滅ぼされていった。

哺乳類も鳥類も爬虫類も魚類も昆虫も、全てに対して平等に死が与えられていく。

「くくく……ッ」

ワースティヌシンは為すがままに斬首されていくが、その場を微動だにしなかった。否、動けないのである。シルヴィアに後退の概念を斬られ、鯨はその拷問を享受するしかなかった。

舞を想起させる蒼き軌道を描く刃は、ワースティヌシンを斬り苛む。

「くくッ……私の浮世に、顔を出していただいては困ります」

蒼き鯨がワースティヌシンの足元に到達する頃、レリーフに刻まれていた生物は一匹を残すのみとなっていた。のっぺりとした体躯の上に、無残に漂う小さな人間のレリーフ。

絶望に歪むその顔を見上げ、シルヴィアは声を紡ぐ。

「貴方なら話が通じるかと思い、最後まで斬らずにおきました」

しかし人間のレリーフは、涙を流して無意味な悲鳴を上げるばかりだった。


――嫌だあああああああッ!! 死にたくないいいいッ!! 死にたくないいいいッ!!


全生物の絶望を一手に引き受けたかのような、声を枯らしての叫び。放置しておけば、永劫に続くのではないか思われた。何の意見も持たず、ただ永久に否定を叫ぶ。

「――ふう」

シルヴィアは笑みを閉ざす。つまらなそうに息を漏らし、太刀をかざした。いよいよ死の迫った鯨は、赤子のように喚き散らした。初めこそ甘美に耳朶を打っていた悲鳴も、いまとなっては聞き飽きた、耳障りな雑音でしかない。

「否定を叫ぶばかりで何一つ選択しようとしなかった……――それが、貴方の罪悪です」

刃一閃。蒼き軌道は正確にレリーフを斬り捨て、返す刀で平板な胴を真っ二つに切断した。もはや悲鳴すらもなく――最後のレリーフの欠片と皺のない身体はほぼ同時に地面に落下し、音もなく霧散する。

そうして、鯨・ワースティヌシンは――呆気なく消滅した。

存在の余韻となるものを、何一つ残さずに。


泡のように溶けていった最悪の罪悪を見届けると、土を踏む音が聞こえた。物音一つしない静謐な空間において、その音は雷鳴にも似た存在感を伴って響いた。

シルヴィアが振り返った先――階段を降り切った場所に、男は立っていた。視線が交錯し、互いに存在を認め合う。見知った顔を前にして、口元には歪んだ笑みが戻っていた。

「くくッ……。ご無沙汰しておりましたね。――十年ぶりですか」

彫りの深い顔立ち、射抜くような鋭い眼光。腰まで伸ばした赤髪。右手には暗闇の中で尚、銀光を放つ剣。そして――左腕が、なかった。

彼の名を、カルキ・ユーリッツァ。

数々の偉業を成し遂げてきた勲功として、英雄の地位を認められた存在。

「二度とは会いたくなかったがな」

英雄は、吐き捨てるように唾棄した。

「私は貴方と再会するのを待ち詫びておりました」と言ってから、急に表情を曇らせて、その笑みを苦いものへと変えた。「………いえ、やはり私も同じ気持ちかもしれません。二度と、お会いしたくありませんでした」

カルキ・ユーリッツァは片眉を上げ、怪訝に目を細める。ぼやける像の焦点を、結ぶように。

瓦礫の上を、彼は危なげもなく歩く。地面の凹凸を感じさせない泰然とした歩みは一見あまりにも自然すぎて、それが達人の域にあるとの理解を遅らせる。

「ほう……。まだ完全には、太刀の意識と同化していないのか」

「ええ。まあ時間の問題ですが」

シルヴィアは自制がきく事を示唆するように、顔の前で左手を握っては開いてを繰り返す。だが滑らかとは言い難い動きで、錆びついたカラクリ仕掛けを思わせた。

そうでした、と思い出したように英雄へと視線を注ぎ、彼女は問いかけた。

「自由の利くうちに尋ねておきたいのですが――何故、ルードラント・ビビスに助力していたのでしょうか。英雄ともあろう御方が」

英雄はしばらく沈思していた。話すべきかどうか迷っているのだろうか。そんなはずはない。鯨に対して俗世の秘密を抱く程、愚かな行為もないだろう。

こちらへと歩み寄りながら、英雄は口を開いた。

「十一権義会の刺客として、元議員のイルツォル・エルドラドを追っていた。老いたとはいえ議員を捕捉するのは難しかったのでな。ルードラントに近づき、奴が自分から現われるのを待っていた。鯨などは、召喚の直前に魔紋陣を破壊すれば済む話だったからな」

「それが結局は出し抜かれて、転移させられたわけですね」

シルヴィアは蒼の太刀を軽く一振りする。彼女の真上で真っ青な燐光が弾けると、英雄の頬を不可視の刃がかすめた。

「一番大事な時に不在で……。貴方が不意などつかれずにここに残っていたならば、あるいは別の結末が――……いえ、よしましょう。有り得たかもしれない別の未来は、起こらないまま現実を通過してしまった過去なのですから」

頬から一筋の流血を見せる英雄は、蒼き鯨の前で足を止める。彼我の距離一メートル半。手を伸ばし武器を振るえば、互いに首を取れる間合いだ。もっとも、鯨にとって間合いなどという概念は、それこそ無窮と同義であったが。

「還幻魔術を用意して来た」

「………保留にしてきた、十年前の清算ですか」

頭一つ分高い英雄を見上げ、小さき鯨は口の端を吊り上げる。

と、向かい合う二人から遠く離れた場所で声が上がった。十年前を清算するのに、必要不可欠な当事者からの声だった。

「………シルヴィア?」

名を呼ばれ、弾かれたように振り向く。

「――――――――――奈落様……ッ!」

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