十年と、その先の約束/2

   ◇

少年の右腕は、振りかざされた刃によって斬り落とされた。

肩から斬られ、喪失した腕。愕然とし――遅れて、痛みによる絶叫が夜陰にこだます。傷口を押さえるも効果はない。どくどくと流れ出る血に動転し、少年はただ叫び続けた。

痛い。怖い。痛い。怖い。痛い。怖い。

宙を舞った右腕は炎の惨禍に入り込み、焼けて、消えてなくなった。

断末魔を上げようとも、傷口を押さえようとも――少しも和らぐ事のない痛みに、転倒した少年は大地を転げ回る。がむしゃらに動き回る、涙に滲む視界には、二つの人影が映っていた。一つは英雄・カルキ・ユーリッツァのもの。もう一つは、少年の知らない少女の影だった。凄惨な笑みを口元に張り付けた彼女は、全身に蒼を纏っていた。

何より、携えた蒼き刃が真紅の血に濡れる様は、場違いにも、美しさを少年に感じさせた。

奈落は彼女を知悉している。帰る家を失くして途方に暮れた彼に、唯一声を掛けてくれたのが彼女だった。言動についていけない場面も多々あったが、それでも彼女は、親代わりとして十年間支えてきてくれたのだ。

『泣いておられるのですか……?』

うつむいてすすり泣く少年の顔を覗き込み、彼女はおずおずとそう尋ねてきた。それが、彼女との最初の出会い――そう思っていた。

表情を表に出さない彼女と、赤い地獄に見た蒼き刀の少女の顔が――重なる。

ゆっくりと瞼を開くと、堰き止められていた涙が溢れ目尻から耳にかけて流れていった。仰向けになって見上げる視界には遥か高き天井が見え、その間に、小さな頭が闖入した。焦点を近くに結び直すと、霞む思考でもそれが梟の頭なのだとわかった。

「――ほけ。目覚めたか、もはやツンツンしてない小童。ん?」

「………ッ!!」

急速に意識が覚醒する。奈落は跳ね起きて、平衡感覚を崩してその場に転倒した。何が起こったのかと思い、上体を起こそうと両手を突こうとして――愕然とする。

肩口から先、奈落の右腕は――なかった。

「ほほけ。無理はしない方がいい。傷は塞いだが応急処置でな。いまのお主は走るだけでも血を噴くぞ。――それに流石に、この老いぼれにも器官の再生は不可能でな」

片手で身体を支えて、何とか膝立ちの態勢を作る奈落。細く小さな足で彼の脇に並んだ梟の言葉に、彼は少しばかり冷静さを取り戻した。

「俺は、助かったのか……?」

「ほけほけ。いかにも。だから言ったろうが、この老いぼれに限り、召喚を維持せいと」

成程、と奈落は素直に感心する。梟の治癒がなければ、こんなに早く目覚める事はなかっただろう。時間に関わらず、二度と目覚めなかった可能性すらある。

奈落は静かに嘆息する。召喚維持の件について、一考の価値はあるかも知れない。

「ほけ。しかし……助かったとは、言い難いでな」

珍しく緊張を帯びた声音は、梟の視線の先に起因する。

奈落もまた、瓦礫の上に対峙する二人を見た。その眼が、ゆっくりと見開かれていく。奈落を波濤の如き荒々しい既視感が襲う。その光景は、強烈なフラッシュバックとともに蘇った記憶と合致する。切断された肩口の傷が、やけに疼いた。

隻腕の英雄・カルキ・ユーリッツァ。

そして蒼き刃を携えた、奈落とともに十年を過ごした女性。彼女の名は――、

「………シルヴィア?」

「――――――――――奈落様……ッ!」

弾かれたように振り返った彼女の、何と深刻な顔か。

奈落はろくに足元も見ずに立ち上がった。全ての筋肉が弛緩してしまったかのように、まるで力が入らない。靴底から、地面を踏んでいる感触が返ってこない。

パズやヒセツの治療を梟に任せて、おぼつかない足取りで歩きだす。瓦礫につまずいて何度も転び、その度に怠惰な両足を叱咤し、立ち上がり、一歩一歩を進む。

息を切らして前進しながら、奈落は問いかける。

「シルヴィア……何だ、その姿? それに、何、英雄と睨みあってんだよ……」

「わかっているのではないか? もう無知な子供ではあるまい」

そう切り返したのは、隻腕の英雄だ。

「わからねえよ……ッ!!」

肺の奥から絞り出すように、心中を吐露する。何が現実で、何が夢で、そして――十年前の惨禍で一同に介した三人が、いかにして別れたのか。

「わかるように話せよ……! 全部……ッ!! アンタは町の仇なのか? シルヴィアは何者だ? アンタはこれから、何を起こす気なんだ……ッ!?」

「私は、貴様の仇ではない」

十年間明らかになっていなかった答えを、英雄はにべもなく即答した。

「いまの貴様なら、知る資格があるだろう。――リリストの町が滅びたのは、十一権義会議員が召喚した鯨の暴走によるものだ。制御を失ったその時の鯨は、名をシルヴィアという」

斬奸の王は目を伏せる。衝撃を受ける奈落の顔から逃れるようにして。

「その後始末に駆り出されたのが私だ。到着した頃には、もう手遅れだったがな。だが、生き残りの少年と鯨を発見した。私の力が及ばず、無残にもその少年は右腕を斬り落とされた」

「アンタはそれで、鯨を退けたのか………?」

「それは不可能だった。所詮、人間は鯨に勝つ事は出来ない。あの時は、少年に契約をさせる事で鯨を封じた。傷の切断面に露出した神経細胞群を、魔紋陣に代用してな」

「そんな技術、聞いた事――」

険呑にうめく奈落の言葉に間髪いれず、英雄は続ける。

「秘匿されている技術などいくらでもある。特にいまは、たった十一人が非公開だと決めれば、どこにも情報が漏洩しなくなるシステムが構築されている程だ」

一歩ごとに大粒の汗を浮かべていた奈落は、ようやく立ち止まる。三者はそれぞれに等距離を開けて立ち並ぶ。十年を清算するために、彼らは遂に再会を果たした。

うつむいていたシルヴィアの蒼い瞳が、奈落を向いた。

「不意をつかれ、刃を奪われた私は、斬奸の概念を失いました。端的に言えば力を喪失したのです。そうして――無害で無毒なシルヴィアが出来上がりました」

「いや無毒はどうだろうなあ」

などと、この状況下でも軽口を叩ける程に、彼らは長い時間を共に過ごし、慣れ親しんできた。ヒセツがそうであったように、他人から見ればわかりづらい関係なのだろう。だが彼らはその距離感と在り方を自然に受け入れてきたのだ。それがいつか失われるのかもしれないと、そんな可能性を考えなくなるまでに。

だから――。奈落は奥歯を強く噛む。力の入らない震える手で、それでも拳を握る。

だから――、

「納得出来ねえんだよ……。シルヴィア。お前が仇だって、それが真実だとしても――どうしても思えないんだよ……ッ! 今更憎んで恨んで! そんな事が出来るかよ……ッ!!」

「奈落様……」

感に堪えないといった面持ちのシルヴィアを余所に、英雄は安堵したように頷いた。

「それは僥倖だ。仇を討つまで待て――などと言われるものと思ったがな」

シルヴィアに向けていた哀憐の奈落の両眼は、英雄に向く頃には据わっていた。

「待つ……だと? 何を始める気だ……ッ!?」

「還幻魔術で、貴様と鯨との契約を解く」

「何だと……ッ!?」と、異を唱えたのは奈落のみであった。シルヴィアは既に悟了しているというのか。それが、奈落との別離と同義であると理解していながら。

「鯨に勝つ手段がない以上、彼女を現世から還す以外に方法はない。彼女にとっても契約の制約は厄介なものだからな。これが、両者にとって最善の選択肢だ」

「私の意識は、急速に失われつつあります。太刀に納められていた鯨本来の意志が、奈落様の知るシルヴィアを蝕んでいるのです。――もう間もなく私は、奈落様方を滅ぼすでしょう」

「そんなもん、俺が何とかしてやる……ッ!」

意気込んで彼女へ一歩を踏みこむ奈落は、瞬間、冷たく鋭い風が過ぎるのを感じる。シルヴィアが視認出来ぬ速度で振るった刃が、奈落の鼻先に突きつけられていた。

回避どころか警戒や認識さえ許さない、神速の一太刀だった。

「解りますか奈落様。貴方の鼻先と私の切っ先――その間隙が、私の自制の限界なのです。加えて、ワースティヌシンを前に散華を余儀なくされた貴方に……一体何が出来ると?」

「………ッ!」

辛辣な一言に、奈落は言葉を失った。何一つとして言い返せなかった。あるいは鯨と対峙する前であったなら、それが無知であろうと虚勢も張れただろう。

だが、いまでは悟ってしまっていた。埋めるには開き過ぎている、両者の絶対的な差を。

二の句の継げない奈落から、シルヴィアは太刀を降ろす。ふと見やれば、彼女の右手は刃と同化していた。柄から伸びた数本の触手が、彼女の白い手に癒着している。もはや、その太刀を捨てるという選択肢もないのだ。

「あと三十秒待っていただけますか?」と、斬奸の王は英雄へと問いかける。

「自我がもつならな」

「感謝します」浅く頭を垂れて、彼女は遠くへ視線を投げる。彼女の眼界に映るのは、ヒセツへ治癒の手をかざす梟だった。「――トリビアジジイ」

「ほっ! 話しかけるな鉄面皮! いま非常に忙しいでなッ」

梟は手を休める事なく言い返した。

「治癒に専念しておられるようですが、貴方ではどの道間に合いません。私の見地では、ヒセツ様が一命を取り留めて入院生活、パズ様と双子の両名は絶命します」

「ほほけッ! わかっておるわ! しかし可能性がある限り――」

王を前にして視線さえ寄越さない使い魔に、彼女は嘆息する。

「ですから――さっさと退けと言っているのです」

告げて、シルヴィアは太刀を振る。最小限の挙措で四度閃いた刃に応じ、彼女の頭上でも四度、燐光が弾ける。明滅する光に驚怖の目を剥く梟は、しかし何も起こらない事に首を傾げ、視線を戻し、改めて驚愕の声を上げた。

遠目にではあったが、奈落もその変化に気づき、驚き入る。命さえ危ぶまれたヒセツの身体から、全ての傷が消えていたのである。心奪われながらパズ、ラナ、ルダへ視線を配ると、彼らもまた同様に、かすり傷の一つさえ残っていなかった。

「斬奸の王に治癒などという器用な真似は出来ませんが、傷の概念を斬り離す事なら可能ですので」

誇るわけでもなく何でも無い事のように言う彼女は、導者たる英雄へ向き直る。その時にはもう既に、彼の掲げた右腕は緑淡色の光に包まれていた。

それは闇夜を照射する灯台の光のように、彼女を導こうとしていた。

「まだ六秒残っているな」

「では貴方へ一言」

「ほう?」

「この腐れ外道が」

十年前、自分よりも下等な存在に不意をつかれた鯨は、短く万感を込めて悪態をついた。

「評価として受け取っておこう」

表情の僅少な変化も見せず、英雄・カルキ・ユーリッツァは応じる。彼は奈落へ一瞬目を向けたが何も言う様子がないと見るや、興味を失ったように己が右手に集中した。

刹那の瞑目の後、英雄は詠唱する。

「開門せし盗人の秘め蔵、残された最後の蝶の導き、収斂される無限罪」

現われたのは、十枚の紙だった。だがそれこそが使い魔である。二十センチ四方の紙は輪を描くように並び、シルヴィアの頭上で回転を始める。緩慢とした動きの輪から、絞り出されるようにして緑淡色の光が下方へと滲みだす。光はヴェールとなり、対象となるシルヴィアを包み込んだ――刹那、十枚の紙が爆発的に巨大化する。天井を覆い尽くした紙束には、細かな文字がびっしりと書き込まれていた。解約呪文である。

「行くなよ………」

足元から消え始めたシルヴィアを前に、奈落は震える喉で言葉を紡ぐ。

「行かないでくれ………ッ」

それは、とても奇妙な関係だった。親子でもなければ、友人とも違う。ましてや恋人同士など論外だ。主従関係に近いところがあったが、主観的に言わせてもらえばそれも当てはまらない。一言で定義出来るような関係ではなかったが――それでも十年、共に過ごしてきた。

それがいま、目の前で失われようとしている。納得も享受の準備も、為せぬままに。

「――奈落様」

と、シルヴィアは一瞬だけ穏やかな笑みを浮かべて、思い直したように無表情になる。普段通りの、無表情という表情へ。

「いつになるかは皆目見当もつきませんが、それでも。いつか……いつの日か、また私を迎え入れていただけますか……?」

唐突に、奈落は悟る。シルヴィアもまた、己が運命を享受しきれていないのだ。十年という時間を愛おしく思い、別れを拒んでいる。それでも、どうしようもないのだという諦念の思いとせめぎあった結果、本心を表出させられなかった。

奈落は返事をしなければならない。黙っていても彼女はいつものようにそれを肯定の意志と捉えるのだろうが、それでは奈落の意志が伝わった事にはならない。

「……ああ」

短く、答える。自分自身の意志を伝える。同じ想いである事を、明確に伝える。

シルヴィアは深く頷き、ヴェールの中で背を向けた。奈落の回答を胸に、彼女はどんな表情でいるのだろうか。歪曲した笑みを漏らしているのか。淡く微笑んでいるのか。あるいは泣いているのか。常のような無表情のままでいてくれたらいいと、奈落は胸中で呟く。

天蓋の如く広がっていた十枚の紙束が元の大きさにまで縮小し、煙のように立ち消えた。緑淡色の光も失われ、払われたヴェールの向こう側――シルヴィアの姿は、なかった。


  ◇

「終わったか」

事実を確認するように呟いた英雄は、さっさと階段の方へと歩き出した。用は済んだとばかりに淀みなく響く足音を、奈落は聞くともなしに聞いていた。

シルヴィアの痕跡を探すように、彼女の消えた位置を奈落は眺めていたが――やがて目を伏せたまま英雄を呼びとめた。

「待てよ」

英雄は足を止め、奈落を振り返る。

「悪かったな、勘違いしてて。……アンタは確かに、英雄だったみたいだ」

「構わない」

「だけどよ」

と、間髪を入れずに奈落は言う。奥歯を噛み、伏せていた顔を英雄へと向ける。険呑というには寂しすぎて、寂寥というには険のこもり過ぎた表情で。

「やっぱり納得出来ねえんだよ……。十年間積み重なった恨みは、勘違いでしたなんて結末に納得できる程………利口には出来ちゃいねえんだよッ!」

「何が言いたい?」

激昂して肩で息をしていた奈落は、ふと笑みを浮かべる。気を落ち着けて、言うべき言葉を己が心に模索する。行き場を失くして泣き叫ぶ怒りを抑えて、むしろ穏やかに告げた。

「依頼を受けたんだ」

眉をひそめる英雄は、しかし黙って先を促した。

「……依頼主は、アレムユースとかってダサい名前のガキだ。そいつは、故郷を焼かれて家族も友達も皆殺されたらしい。それで……ガキのくせに濁った眼で睨んで、俺に依頼して来たんだ。皆を殺した英雄・カルキ・ユーリッツァを、壊してくれってな」

「その少年からの、報酬は?」

「十年。――変わってるよな、報酬は金じゃなくて時間なんだと」それから――と、奈落は一息を継いで続ける。「あとは自分自身の、納得と実感ってとこか」

そうか、と応じて、英雄は初めて笑みを見せた。口元にわずかにだけ漏れた笑みは、成程、確かに十年前まで憧れていた存在の笑みだ。

「それならばその依頼――断るわけにはいくまい」

「だろ?」

奈落は不敵な笑みを浮かべる。

「しかし貴様、その身体で戦うつもりか?」

「おいおい、何言ってんだよ?」

立っているだけでも辛い程の満身創痍の身体で、奈落は何でもない事のように言った。

「テメエも俺も隻腕。条件としては五分だろ?」

「………成程」と、英雄は感心したように呟く。

奈落は大きく息を吸い、叫んだ。

「英雄・カルキ・ユーリッツァッ!! クソガキの十年のため、テメエをぶっ壊すッ!!」


そして壊し屋・奈落は、一歩を踏み出す。


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