終章

やがて訪れる死線までの間隙

扉を叩く音で奈落は目を覚ました。何か夢を見ていたような気がするが、内容はおろか、良い夢だったのか悪夢だったのかも思い出せない。印象に残っていないという事は、些細な日常を投影した夢だったのだろう。そしてその夢には、きっとシルヴィアが登場していた。

ぼんやりと白亜の天井を見上げていた両眼を、首を曲げて出入り口へと転ずる。

そこに見た人影は、バツの悪そうな顔を奈落へと向けていた。

「ごめん、起こした?」

「ああ……いや」

曖昧に答える奈落。

入室して来た彼女――ヒセツは、刑罰執行軍の制服を身にまとい、右手には籐カゴを提げていた。寝ぼけ眼をこする奈落に苦笑しながら、ベッド脇の丸椅子へと腰掛ける。

「どう? 調子は?」

簡素な部屋だった。白を基調とした部屋に、余計なものはほとんど置かれていない。白いベッドに横たわり白い布団をかぶる奈落の頭髪だけが、室内に置いて唯一の黒だった。

「情けねえ話だけど、まだ、一人じゃ起きられないな」

「入院生活もう三日目でしょ? 余程こっぴどくやられたのね」

呆れた口調で言うヒセツは、奈落の枕もとにある体調管理表に目を向けた。

そう、今日で三日目だった――奈落の入院が始まってから。そして、シルヴィアと別離し、英雄・カルキ・ユーリッツァに挑みかかり、返り討ちにあってから。

「だけどアンタも馬鹿よね。ろくに動けもしないまま、あの英雄に喧嘩売るなんて」

「やかましい」

首を振って目を逸らす奈落。いまの彼には、それくらいしか抵抗の術がなかった。首から下は、ほとんど動かせないのだ。

鯨との戦闘で満身創痍の体であった奈落は、ろくに抵抗も出来ないまま英雄から容赦のない連撃を浴びせられ、気づけば病室のベッドに寝かされていた。

そもそも四肢の一つを失って、身体のバランスを保てるわけがないのだ。これから長い間、奈落は日常生活を取り戻すための訓練をしなければならない。

「治癒の使い魔一匹召喚出来ないのよねー、アンタ」

でなきゃ入院なんかするかよ、と毒づく奈落に、ヒセツは微笑を浮かべた。

「でも、すっきりした顔してるわ」

「そうか?」と、いまいち自覚のない奈落。「で、何しに来たんだお前? 勤務中だろ?」

「何しに…は酷いんじゃない? 見ればわかるでしょ、見舞いよ見舞い」

奈落の視線の高さに籐カゴを見せつけ、彼女は腰を浮かせてそれを白い戸棚に置いた。ほのかに甘い香りが漂ってきて、中身は果物だろうかと検討をつける。

ヒセツが腰を落ち着けるのを待ってから、奈落は問いかけた。

「ヒセツ、お前の方はどうだ? 刑軍に背いてまで俺と同行して。何か成果はあったかよ?」

「色々とね」

「色々?」

オウム返しに尋ねる奈落に対し、彼女は自信を表すように両手を腰に当てて胸を反らす。

「正義は絶対的なものじゃなくて、相対的なものっていう事を学べたわ。皆それぞれ、自分の中に正義を抱えてるのよね。だから自分の正義をかざす時、私達は相手の正義を認めた上で、それを壊して越えていかなくちゃいけない。それを知らなかった私は、ただ便利に正義を語ってただけなんだわ」

「……よくそんな歯の浮くセリフを自信満々に言えるな」

「奈落から教わった事よ」

ヒセツはにべもなく切り返した。


   ◇

「教えた覚えなんかねえな」

奈落はぶっきらぼうにそう言って、目を閉じてしまう。まるで子供の様な照れ隠しに、ヒセツは肩をすくめた。そんな態度でいるから、罪を誤解されるのだ。

刑罰執行軍へ、ヒセツは奈落の免罪を申請するつもりだった。彼は実に十七件もの罪に問われているが、そのどれもが誤解なのではないかとヒセツは考えている。

だから彼から事情を聞き出して、調書にまとめるつもりだった。

誤解という汚泥の底に、ヒセツは確かに正義を見たのだ。それはもっと曙光を浴びる場所で、皆の視線を集めてもいいはずのものだ。

だがその前に、どうしても確認しておきたい事があった。

それを訊ねてもいいものかとこの三日間迷い、病室の戸を潜る前に聞こうと決断した。しかしいざ彼を眼前にすると、おのずと口が言う事を聞かなくなってしまう。

しばらく沈黙が続いた。行き場を失ったように視線は右往左往したが、結局は奈落に定まる。浅く息を吸って、ヒセツは口火を切った。

「………シルヴィア、探すの?」

三日前――ヒセツが祭壇で目覚めた時には全てが帰結していた。鯨としての力を取り戻したシルヴィアは奈落との契約を解除し、現世から消えてしまった。その顛末を、ヒセツはその眼で見ていない。彼らが別離の際にどのような表情で、気持で、どのような言葉を交わし合ったのか。それを知らない自分に、聞く資格があるだろうかと迷っていたのだ。

その迷いを押し切ってヒセツに決意を促したのは、一言でいえば、そう、仲間意識だった。

返答がない事も半ば覚悟していたが――予想に反して、奈落はいつもの調子で答えた。

「そのつもりだ。……正直、どう捜したらいいかもわからねえし、仮に見つけたところで鯨をどうにか出来る自信もない。実際、俺らは三分も経たないで全滅したわけだしな」

ヒセツの脳裏に、苦い記憶が鮮明に蘇る。鯨の存在は、人間とはまるで次元が違っていた。

「だけどよ。それでも、捜し出して見せるさ」

決意を表明する奈落は、遠くに視線を投げる。

決して声には出せないが、シルヴィアがいなくなって、あるいは良かったのかもしれないとヒセツは思っていた。

これまで英雄への怨恨を生の核心に据えていた奈落は、その束縛から解放されつつある。悲しくも幼少の頃からそれに慣れてしまっている彼は、果たしてその後、生の意味を見いだせるだろうか。不器用に意味を見失ってしまうのではないか。そんな憂いを抱いていたのだ。

だが、奈落は生の意味をシルヴィアの捜索へと転じた。シルヴィアは図らずも、彼に意味を与えたのだ。

目標は遥か強大。

英雄・カルキ・ユーリッツァへの復讐よりも、遥かに遠大で困難だろう。

ヒセツ・ルナは澄み渡る青天の如き笑みを、壊し屋・奈落へと向けた。

「協力するわよ」

「……いいのか?」

目を丸くする奈落に、ヒセツは頷く。

「但し条件があるわ」

「条件?」

「シルヴィアを必ず捜し出して、また契約を結ぶ事。……これが条件よ。どう?」

奈落は呆気に取られるが、やがて不敵な笑みを浮かべる。

非合法の壊し屋・奈落は、短く、確固たる意志を答えた。

「――当然だ」


そうして、再び同盟は結ばれた。

最果てに別離した少女と、いつの日か再会するために。


ただ、少しの間だけ――激戦を繰り広げた彼らに、一時の休息を。


〈了〉

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壊し屋 奈落 【セント】ral_island @central_island

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