夜襲/10


ヒセツとラナに急迫していた脅威を弾き飛ばした壊し屋は、ジンと痛む手を振った。

「よぉ、生きてるか?」

赤黒いコート、逆立てた黒髪、吊りあがった眼、射抜くように鋭い黒瞳。

壊し屋・奈落がそこにいた。

ぞんざいな口調とともに振り返った奈落は、次の瞬間苦笑に顔を歪めた。

「なぁに泣いてんだよ、テメエは」

視線の先では、ヒセツの頬に一筋の涙が伝っていた。刑軍とはいえ、死の恐怖と直面して、平気でいられるはずがない。その表情は呆然としていて、奈落の登場を理解してさえいないように見えた。だが確かに現れたのだ、奈落という救い手は。

「でも待て。何でお前がここにいる」苦笑から一変、奈落はただ苦いだけの表情を浮かべる。「まさか、夜襲でもかけるつもりだったンか」

「……うるさい」

ヒセツは認めたくない事実から逃げるようにしてそっぽを向いた。

「図星なのかよ……」げんなりとして、奈落はうめいた。

「うるさいわねッ。……だいたい来るのが遅いのよ、この犯罪者」

声に覇気は感じられないものの、減らず口を叩く余裕はあるようだ。奈落はとりあえずヒセツから視線を転じ、前方へと向き直った。

十メートルとない距離に、男と少女――ルダが立っている。

いまいち、状況は把握できかねていた。轟音に目覚めて窓外を見れば、龍の如き火柱があがっていた。胸騒ぎがして寝室を見ればラナが失踪していた。コートを羽織って全速力で火柱を目指して走り、いまに至る。

「ルダが逃げ出しラナと接触、それをあの男に見つかっちまった。連れ戻そうとしてるところにヒセツ――お前が介入したと、こんなとこか?」

背後に問うと、息を切らし震える口調でヒセツが一喝する。

「何を呑気に構えてんのよ……ッ。後ろに死にかけの女の子がいるでしょうッ」

「ああ、ラナの事か。それならいま治療中だ」

「……いま?」

疑問を発するヒセツは、緩慢に四肢を動かし、時間をかけて背後を振り返り、ようやく理解したようだった。彼女が見たのは、少女の患部に、発光する小さな両手を掲げる奇妙な梟の姿だった。梟は治療を続けながら、その首をぐりんぐりんと奇妙に回す。

「ほけほけ。この老いぼれ、実は治癒の使い魔でな」

「治りそうか?」

「タイミングがいい。夕飯まで済んだいま、まさに朝飯前でな」

「優秀な老いぼれだ。――任せた」

奈落はそう言い置いて、改めてヒセツに問いを向ける。

「それでどうなんだ、俺の仮説は」

「名前は知らないし、状況もわからないわよ……。ただ、あの子、妙だわ……」

「妙?」と、奈落はオウム返しに尋ねる。

「だから、私にもわからないわよ……ッ」

「自分で確認しろってか。まあいいけどな」言って、奈落は両拳を合わせて関節を鳴らす。「とりあえず、あとは任せな。こっからは壊し屋の仕事だ」

奈落は前方を鋭く睨みつける。ルダは救出対象。男の方は、昨夜の火事場で英雄と並んでいた男だった。昨夜は確認しなかったが、ここにいる以上はルードラントの関係者あるいは本人だろう。それだけ事情が掴めれば十全だ。あとは、壊す。

「さて、お前がルードラントか?」

「いい線行ってんな。だが残念。人違いってな」

男の応答に、奈落は首を傾げる。会話をするのは今回が初めてだが、何か違和感が生じた。判然としないが、小さな違和感だ。情勢を左右する程ではないだろう。

「ならテメエはどうでもいい。さっさと帰れ」

「どうでもいいたぁ心外だな」

自尊心を傷つけられたか、男の口調にトゲが加わる。が、それこそ奈落にはどうでもいい事だった。

「テメエの主張なんか知るかよ。とりあえずルダ返せ」

言って、余裕を崩さない奈落は、要求するように右手を出した。

が、次の瞬間、動揺が走る。その要求を却下したのは男――の隣のルダだった。

「嫌よ。アタシはルードラントのところに帰るんだから」

奈落は首を傾げる。彼女――ルダは、ルードラントに無理矢理誘拐されたのではなかったか。少なくとも情報ではそういう事になっていた。が、どうやらそれは微妙に的を射損ねていたらしい。

ルダの思いがけない態度に、奈落の口調に険がこもる。

「わがまま言ってねえで、こっち来い。俺は壊し屋をやってる奈落で、お前の親から連れ戻すように頼まれてんだよ」

「私には親なんかいないッ」と、つっぱねるようにして断言するルダ。

奈落は胸中であのペテン野郎やっぱ嘘かよとトキナスに罵詈雑言を送った。

それほど難解でもないだろうに、状況の把握は困難だった。その原因となっているのがルダだ。彼女の態度は、前情報から想像していたものとかけ離れていた。嘆息。

しかし、壊し屋として行うべき仕事に変わりはない。

「まあいい。いいか、俺は仕事でお前を連れ戻す。テメエの意向なんざ知らねえ」

「やれるもんなら、やってみなよ」

強気で言い放つルダに、奈落は、やってやるよと答え、刹那、ルダの隣に立つ男を吹き飛ばしていた。

「……………え?」

ルダの理解は、奈落の挙措に追いついていない。地を蹴り、残像すら残す速度で肉薄し、打撃を加え遥か後方へ男を吹き飛ばした。その一連の流れは、ルダの眼に、突然男と奈落が入れ代わったように見えた事だろう。

「これで満足か?」脇で呆然とするルダに、奈落は誇るでもなく言った。

「いやいや、まだまだ不満だね」

答えたのは、言うまでもなくルダではない。声の発生源に視線を投げ、奈落はチッと舌打ちした。不死身の体力だとでもいうのか、男は平然とその先に立っていた。

男が、奈落へ向けて早口に唱えた。

「我、御するは原典より在るもの――対象を貫け光刃」

男の眼前に光の槍が展開する。それは目標を奈落と定めるやいなや、目にも止まらぬ速度で発射された。

「守衛の化身、守護の現出、護法の立法」

奈落はそれに応じ、守護魔術を詠唱し、盾の使い魔を召喚する。

光と盾、両者が激突した。轟音が爆ぜ、大気が震える。びりびりと震撼する中、程なくして攻防に決着が訪れる。大気が安寧を取り戻す頃、光は闇に溶けるようにして霧散し、盾だけが残っていた。

「俺に勝とうなんざ十年早えな」

つまらなそうに、奈落。

「その差も不満だが、ここまでみてーだな。野次馬の数がやべー事になってる」

彼の言の通り、ヒセツの狼煙に気付いた住民が、続々と集結していた。公園を囲むように集まった人の気配は、少なくとも五十を数えるだろう。非合法の壊し屋と、ルードラント製薬会社の人間。その両者ともが、人目に触れる事を好まなかった。

「だな。ばいちゃ。ルダは置いてけよ?」

「それは出来ねー相談だなぁ」

ならぶっ壊す――そう言葉を続けるはずだった口は突如として――緊張に引き結ばれた。既視感にも似た感覚。禍々しい気配が魔手となって奈落を抱いた。

ゾクッ……と、電撃のごとき悪寒が全身に走りぬける。

半ば強迫観念に支配されるかのように、瞠目する瞳で、素早く人込みに視線を投げた。何ら根拠はない、ただの直感である。が、奈落は経験で培った己の勘に身を委ねたのだ。


果たしてそこに、隻腕の英雄は立っていた。


先日、壊し損ねた対象が、十年来の仇敵が、再び奈落の前に現れた。その事実は、奈落に理性を失わせる。ラナもルードラントもヒセツも仕事もかなぐり捨てて、思考が怨恨に占拠される。闇に呑まれるようにして、周囲のその他一切が消失した。

「カルキ・ユーリッツァ……」

そしてそこに隙が生じる。口の端を吊り上げたのは、ルダを脇に抱えた男。素早く早口に、魔法を詠唱した。奈落の眼前で、しかし気付かれる事すらなく。

「我、御するは原典より在るもの――閃光を!」

弾けた光は全てを包む。


閃光の白に埋め尽くされた視界の中、ヒセツは思う。――どうしようもない、と。

圧倒的な力を持った奈落をその眼にしながら、彼女の感想はその一語に尽きた。閃光が弾ける寸前、奈落は何かの気配を感じ取り、忘我に陥った。それが状況を一転させた。

その気配を、ヒセツも確かに感じてはいた。だがそれは、恐怖を感じるほどのものではなかったはずだ。気配の主が強大な力を持っていたであろう事は察しがつく。それほどの濃密な気配だった。だが束縛し、支配するほど、禍々しいものだっただろうか。


だからヒセツは思う。――ああ、この人は、どうしようもなく弱いのだ、と。

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