夜襲/9



「あああああああああああああああああああッ!!」

理性よりも遥かに速く、ヒセツは駆け出していた。正常な判断力は完全に喪失していた。眼前に展開された光景が、全てを麻痺させていた。自分がいま、怒っているのか悲しんでいるのか苦悩しているのか動揺しているのか――定かでない。

ただ、一刻も早く――否、速く、この状況を打破せねばならない。

すなわち刑罰執行と人命救助。

感情を超越したどこかから放たれる咆哮と共に、ヒセツは魔法を放った男に肉薄した。突如、草陰から飛び出してきたヒセツに、男は目を丸くしている。

ヒセツは呆けた顔の男へ、既に握られている警棒を横薙ぎに一閃する。不意をついた最速の一撃。だが制御を知らない、激情に任せた一撃は単調に過ぎた。打撃の寸前、男は正気を取り戻し、身を退けて回避した。

理性を失したヒセツは、後方へ逃れた男に向け、追撃の魔法を早口に詠唱する。

「我、御するは文明の源――大罪の業、其の身に回帰せよッ!」

ヒセツの眼前に膨らんだ炎の塊が、男へ向けて殺到した。

数歩分の距離で迫る直径一メートルを越える炎。この一撃は避けきれまい。予想に違わず、男は炎に呑み込まれ、勢いそのままに遠くの遊具に激突し爆発――火柱を上げた。

敵の状況を確認する暇はなかった。ヒセツはその様子を一瞥しただけで、倒れて血を流している少女に駆け寄り膝をついた。

「見せなさいッ!」

側に立ち尽くしていた少女を突き飛ばす。

一見して容態が芳しくないと理解する。爆発した部分だけ服が破けていて、真っ赤に染まった腹部が露になっていた。傷口の悲惨さは筆舌に尽くしがたく、一刻を争う。すぐにでも治療にかからねばならない。

だが――刑軍の訓練で怪我の処置法は習ったが、これほどの重傷、どうしろというのか。

「駄目だ! 弱気になるな! 最善を尽くせ私は刑罰執行軍のヒセツ・ルナよ!!」

否定的な自分を叱咤し、改めて彼女の身体を確認する。意識はないようだが、胸は浅く上下し、かすかだが呼吸もしている。命の灯火は消えていない。今ならまだ、助かる。

魔術師ならば治癒の使い魔を召喚できるが、ヒセツは魔法使いである。融通の利かない暴力しか持ち得ない。

「アンタ! 女の子! 魔術師!?」

突き飛ばされて尻餅をついていた少女に視線を投げる。刹那、ヒセツの背中を悪寒が走る。思わず少女から目を背ける。

十歳前後と見られる彼女は、口いっぱいに笑みを広げながら、白目をむいて涙を流していたのだ。声はあげていない。だが否定を叫ぶようにして、頭を抱えて激しく首を左右に振っていた。こちらの言葉は届いていないようだった。

「いったい、何なのよ……?」ヒセツは目を細めて、小さく舌打ちする。

まるで状況がわからない。焦り、パニックに陥りそうな頭で、ヒセツは必死に考える。

優先すべきは何だ。敵に攻撃を重ねる事か。違う。錯乱状態と思われる少女の頬をひっぱたく事か。それも、違う。眼下の少女を救う方法だ。

そして思い出す。近くに、徒歩にして五分の位置に、強力な魔術師がいるという事を。

「そうよ! あいつなら――あいつならこの子を救えるはずだわ!」

叫ぶと同時、ヒセツは素早く立ち上がり、周囲を観察する。深夜、園内に人気はない。広さは恐らく五十メートル四方以上。頭上を仰げば空まで遮蔽物はない。

彼を呼ぶ方法は瞬時に決まった。狼煙を上げればいい。惰眠から叩き起こし、無視できなくなるほどの派手で強烈な狼煙を。強力な魔法を。

「暴力に融通を利かせて!」

ヒセツは両手の平を眼下の大地に向ける。

「我、御するは文明の源――其は灼熱の柱、事物を薙ぎ倒す者。遮蔽の愚かさを顕現する者! 我は汝を求める愚者なり。我、汝と契約す。合を、そして業を、豪をッ!!」

詠唱を終えると同時、ヒセツの両手の平を照らすように炎が湧き起こる。それは一瞬のうちに膨張し、公園全体を照らし出すほどの熱球と化す。

続いてヒセツは両手を頭上に掲げる。それに合わせるように、炎の塊は天に向かって伸びていった。凄まじい速度で、大地と天空を結ぶが如く、炎は十メートルを越える柱となる。それは大気を焼く轟音を周囲に撒き散らし、夜の狼煙と化した。

「さあ、来なさい! 狼煙の誘う戦場へ! ここへ、真っ直ぐに! さあ、犯罪者ッ!!」

ヒセツは願いを叫ぶと、ふっと力を失ったように、仰向けに倒れ伏した。


「ッ………ハ……」

息をつくと同時、ヒセツは自分が頭上の星を見上げている事に気付いた。具体的にどれほどか判然としないが、少しの間意識を失っていたらしい。強力な魔法の使用は、身体的な負荷を伴う。それに耐えられなかったのだろう。

だが状況は変わっていない。火柱は消えていたが、求めた魔術師の姿はなかった。つまりはそれほど時間は経過していない。

力の弛緩したヒセツは、満身創痍の体だった。全身から汗がふきだし、ぜえぜえと呼吸は荒く、身体の平衡感覚は消失し、眼の焦点も定まっていない。肩をだらりと下げて背を丸くする身体は、ふらふらと不安定で危なっかしかった。

「ゼエ………ハッ………全く、万事休すってやつかしら、ね!」

素早く顔を上げる。たったそれだけの動作に全力を費やしながら、ヒセツは前方を見た。

――そこに男が立っていた。先程、少女に魔法を放った男に相違ない。あの魔法に呑まれ、男が戦闘不能になっていたのなら問題はなかったのだが。残念な事に時間稼ぎにしかならなかったようだ。ヒセツは苦虫を噛み潰す思いで男を睨みつけた。

衣服に焦げ目がついた事を気にかけながら、男はゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。

「やってくれたじゃねーの、小娘。おかげで月夜の散歩が台無しだぜ」

冗談を言うような口調だが、こちらを見下ろす男は怒気を露にしている。眉間によった皺の数だけヒセツを殺しかねない様相である。彼は周囲を見渡し、大きく舌打ちした。

「くそがッ。この様子じゃ、あと一分もたねえか」

対峙するヒセツに周囲を窺う余裕はなかったが、彼の言葉で理解した。推測するに、恐らくは周辺の住居に明りが灯り始めている。彼女の魔法は役目を果たしたのだ。そして彼の言う一分とは、狼煙に呼ばれた援軍の到着時刻だろう。

あと一分で状況は打開される。

だが、それはヒセツを安堵させるには至らなかった。なぜなら、

「まあ良しとするわな。目的は果たしたんだ。そんでまあ、あと一分だろ? 小娘の虫の音止めるにゃあ、十分な時間だろが、なあ?」

焦点の定まらぬ茫漠とした視界で、男が下卑た笑みを濃くする。そうなのだ、とヒセツは思い、悔しさに歯噛みした。疲弊したいまのヒセツに、抵抗する術はない。そして彼の魔法ならば、一撃で人間を屠る事など容易いだろう。端的に言って絶体絶命。

「ルダ、こっち来な」

名を呼ばれて、脇に立っていた少女が男へと駆け寄る。いつのまに正気に返ったのだろうかと思い、自分が気を失っている間だろうと見当をつけた。少女の足取りは幾許かの逡巡を含ませながらも、確かで、一度も立ち止まる事はなかった。

「お前、泣いてたのか」

「え、泣いてないわよ?」

ルダと呼ばれた少女は、あっけらかんと返答する。

「まあいい。まだ――」と、男は何かを呟いたが、よく聞き取れなかった。

続けて放たれた言葉は、ヒセツへと向けられていた。

「首突っ込むべきじゃなかったんだよ、小娘が。おしおきだ。我、御するは原典より在るもの――物言わぬ消し炭と、成ぁれ」

唱えると同時、熱光がヒセツに迫ってくる。抵抗は出来ない。止める事も弾く事も、避ける事もままならない。もたらす末路を享受する事など出来ない。が、覚悟はどうしても決めなければならない。

少女の救助は、どうやら無駄に終わってしまった。

十八年という短い人生は、ここに終止符を打たれる。

眼を閉じてしまおうかと愚考した刹那――涙でにじむあやふやな視界に、ヒセツは見た。

迫りくる光塊が、横合いから闖入した人影に弾き飛ばされた、その瞬間を。


――夜の帳が落ち込む深夜。

眼前。月光に照らされた背中、赤黒いコートが、夜の風にたなびいていた。

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